倫理とは何か

雨が降っていることを「天気が悪い」というけど、
あれはたいていの人が雨を嫌がっているからだな
みんなが晴れよりも雨のほうが好きだったら、
雨降りのことを「天気がよい」と言うはずだからな

でも、もし、あるときある人にとって雨のほうが好都合だったら、
その人は「私は雨のほうがよい」と言えるはずだ
それはつまり「私は天気が悪いほうがよい」ということだ

つまり、一般的に「悪い」ことが自分にとって「善い」ことはよくあることで、そういう時に、その雨は本当は「善い」のか「悪い」のか、なんて問うのは無意味だ
「善い――悪い」というのは価値評価だから、その価値を享受する主体から切り離せない

さて、それでは、その時の自分にとって雨のほうが好都合な人が、仮に何か超人的な力をもっていて、大雨を降らせたとする
その人は善いことをしたのか、それとも悪いことをしたのか
どうだい?

――自分にとっては善いことだけど、他の多くの人にとっては悪いことでしょうね

その通り。そして、それこそが道徳的問題の原型なんだ
(永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」)

( ´~`)ノハーイ
この世の中には
悪いことをしてはいけない
という常識があります
(o゜~゜)oホエ?
ではなぜ悪いことをしてはいけないのでしょう?
(゜~゜)
・人としてよくないことだから
・社会の秩序を乱すから
・法に反すると罰せられるから
・天罰が下るから
などが挙げられるでしょう
(゜~゜)
そうして人々の悪行を戒めて
善く生きさせようとする規範を
道徳・倫理・モラルなどと言います
(o゜~゜)o
そんな道徳が
何の根拠もない幻想に過ぎないことがわかるのが
この本です
(´~`)
そもそも悪いとか善いというのは
価値観に過ぎないので
ある人にとって悪いことが
ある人にとっては善いことである
という事態が常に起きるわけです
(゜~゜)
そう考えると
道徳というのは一体何を根拠にして
これは悪いことだ
これは善いことだ
と判断しているのでしょう?
(o゜~゜)oホエ?
つまり人類に共通する
絶対的に悪いこと
絶対的に善いことが
存在しえないことが
悲劇の始まりでした
(ノд-。)クスン
しかし現代社会には
法律というものがあります
(o゜~゜)oホエ?
なので法に反することは悪いことだ
と言えるのだけど
それはあくまでも
法に反することは社会全体にとって悪いことだ
ということであり
法に反するけれど自分にとっては善いことだ
というケースもありえるわけです
(゜~゜)
なので罰せられることを承知の上で
法に反するけれど自分にとっては善いこと(社会にとって悪いこと)をしようとする人がいたら
もはや道徳などは効力を持ちません
(´ロ`)
そこには
社会全体にとって善いことを優先するか
自分自身にとって善いことを優先するか
という対立的な問題があります
(o゜~゜)oホエ?
社会全体を主体として見て
社会にとって善いことを各個人が目指せば
安全な善い社会になるでしょう
(゜~゜)
逆に自分を主体として見て
社会規範などは無視して
あくまでも自分にとって善い生き方をみんなが目指したとしたら
社会全体にとっては悪い方向に進み
治安の悪い生きにくい社会になるでしょう
(´ロ`)
なので社会の中で自分が安全に生きていくためには
道徳というものが嘘や幻想に過ぎなくても
みんなが道徳を信じていた方が好都合なのです
(´~`)
つまり
自分がそれを信じていても信じていなくても
「悪いことをしてはいけない」
といった道徳を
言い伝え広めることには
誰にとっても合理性があるので
「悪いことをしてはいけない」
といった道徳は
人間が社会を構成している限り
永遠に言い伝えられ続けます
(´~`)ノハーイ


「倫理とは何か」名言集

この本が対象とする読者は、その内容が何であれ、悪いことをしたくない、できるなら善いことをしたい、という願望を持って「いない」読者である
その手前で、そもそもそのような願望を持つべきかどうか、
なぜ持たねばならないとされるのか、という段階の問題を感じている読者である
(p.5)

道徳的に正しく生きるべきなのは、そう生きることが自分自身の幸福になるからだ、
ということなら、本当に最終的に大切なのは、自分自身の幸福のほうだということになるじゃない
そして、道徳的に正しく見せかけるだめでは駄目で、内面的にもそうでなくてはならないとしても、
最終的に大切なのが自分自身の幸福だというそのこと自体は変わらないよね

そう、そしてその考え方だと(中略)道徳性ぬきで幸福であるような人も存在しうることにはなる
逆にもし、道徳性は幸福にとって文字どおり内的な構成要素で、そのことに例外はありえないのだ、と言うなら、
それは「幸福」という言葉を新しくそう定義してしまっただけのことだ

いろいろな種類の幸福があって、どれが本当の幸福ともいえない、というだけだな
道徳的観点が本質的に関与してくる可能性は、まずないだろうな
そして、そんなことはみんなもう知っているから、現にいろいろな種類の人がいるわけだ
(p.49-51)

たくさんの人間の中の<私>というあり方をした特殊な位置に現に自分がいるんだけど、
そこに内属した視点から全体を見れば、この特殊な人の快楽や利益や幸福が重要性を帯びてくるのは当然のことだけど、

そこを超越した鳥観的観点に立って全体を見れば、その<私>の快楽や利益や幸福を特に重視する理由はない
むしろ、その幸福が全体を悪化させることがわかっているなら、それを避けようとするのは当然のことだ

どちらの判断にも立派な合理性がある
(p.53)

おまえの言うとおりで、それが道徳的であるべきことの理由なら、だれでもはじめから問題なく道徳的であるはずではないか
そのほうが楽しく有意義で、何も悪いところがないのだから
そもそも道徳などという縛りが必要である理由すら存在しないではないか

道徳がなぜ縛りとして存在するのか、縛りとしてしか存在しえないのか、
そのことを少しでも考えてみれば、おまえの言うことが体のいいごまかしにすぎないことがすぐにわかる
(p.218)

自分自身の存在意味を根底から肯定できるような
その意味での本当に直接的に善い生きが
社会の道徳規範から見ても善い生き方になるなんて
そんな都合のいい話は、みんなも本当は信じてないのさ

そして結局それは、世界というものの見方の違いに帰着する
世界を、俺の世界というものを含んで、結局のところは
他者と共存する世界こそを最終的なあり方として見るか、
他者と共存する世界を含んで、結局のところは
俺の世界こそを最終的なあり方として見るか、その違いだな
(p.220)

引用文献
永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(2003)

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