世界の中心で、愛をさけぶ
「世界の中心で、愛をさけぶ」の純愛について

ABOUT "PURE LOVE".  (8/12up)

「世界の中心で、愛をさけぶ」は”純愛”の物語だと言われています。
他にも「恋人の死」「喪失感」「1980年代」等の要素はありますが、ここでは純愛について考えます。

ドラマ以外はネタバレありなので未見の方は注意してください。


Q1. どこが純愛なのか? 〜原作編〜

私は初めに原作を読んだのですが、読んでいて特に純愛ということは意識しませんでした。
それよりも、亜紀が死に向かっていくクライマックスと、その後のサクの喪失感の印象が強かったので。
でも言われてみると確かに純愛なので、何が純愛なのか?を考えてみます。

1.一途に愛するサク
人を好きになるってことは、自分よりも相手の方が大切だと思うことだ。
もし食べる物が少ししかなければ、ぼくは自分のぶんをアキにあげたいと思うよ。
限られたお金しかないなら、自分のものよりもアキの欲しいものを買いたいと思う。
アキが美味しいと思えば、ぼくのお腹は満たされるし、アキが嬉しいことは、ぼくが嬉しいことなんだ。
それが人を好きになるってことだよ。
これ以上大切なことが、他に何かあると思うかい?
(p.70)

原作・ドラマ・映画どれでもいいですが、見ればわかるように、サクは亜紀に一途であり、心から大切に想っています。10代だからこそのストレートな愛情とも言えますが、何を犠牲にしても相手を一番に想えるのは純愛ですね。


2.喪失感に襲われるサク
毎日を生きることは、一日一日、精神的な自殺と復活を繰り返すようなものだった。
夜眠る前に、ぼくは自分がこのまま二度と目覚めないことを願った。
少なくとも、アキのいない世界へ、二度と目覚めることのないように。
しかし朝が来ると、彼女のいない、空虚で冷たい世界に目覚めている。
そして絶望したキリストのように復活を果たすのだった。
(p.171)

喪失感も「世界の中心で〜」の大きなテーマのひとつです。
恋人を亡くしても何ともないのであれば、そこに愛情はなかったということ。
亜紀の死後にサクを襲う絶望的な喪失感は、純粋に愛したからこそ。
見ていてその哀しさ、愛おしさが私たちにも伝わってくるから感情が揺さぶられるんですね。


3.祖父の純愛

祖父は純愛の体現者です。
何しろ50年間に渡ってかつての恋人を想い続けたわけで、これは並大抵のことではありません。
そんな祖父だからこそサクの喪失感を理解し、サクに救いの言葉を投げかけるという展開になっていきます。


4.遺骨に祈りを込める
なあ朔太郎、好きな人を亡くすというのは悲しいものだ。 この思いは、どんなふうにしたって形では表せない。 形で表せないからこそ、形に就くのではないだろうか。
(p.49)

「遺骨」はこの物語の重要な要素です。
祖父がかつての恋人の遺骨と、自分の死後の遺骨を混ぜて、一緒に撒いて欲しいとサクに頼みます。
亡き相手への届かぬ想いを、骨という物質を介して繋がろうとする。死後も永遠に結ばれたいと願う。
それほどの想いは確かに純愛です。
サクもまた心の空洞を埋めるように、亜紀の遺骨を持ち続けることになります。



Q2. どこが純愛なのか? 〜映画編〜

映画では原作にプラスして、より”純愛”を意識した作りになっています。

1.ウォークマンによる交換日記

原作では普通の交換日記をする場面が少しだけありましたが、映画ではウォークマン&テープ録音による交換日記になって、「二人のメッセージ交換」がより重要度を増しています。
声をテープに録音しても相手に届くのは翌日以降なので、携帯による即時性がないという点が、今の時代からしたら新鮮と言えば新鮮です。
障害があって、そのぶん相手への想いを育める点が純愛。


2.夢島で結ばれない二人

原作では(解釈にもよるけど)結ばれたように描かれていましたが、映画では二人は結ばれません。
そうすることによって、性欲とは無縁なプラトニック・ラブ=純愛を描こうとしたのでしょう。
ただ、性的な繋がりがあっても純粋に想い合えるのが真の純愛かな、と個人的には思います。


3.1986年という時代設定

原作では高2の時代設定は1992年頃で、時代背景の描写もあまりありません。
それが映画では1986年という設定になっていて、まだスレていないピュアな時代を背景にすることで、二人の純粋さが強調されています。
舞台が都会ではなく田舎である点も同様です。



Q3. どこが純愛なのか? 〜ドラマ編〜

ドラマは原作映画の純愛のエッセンスを両方生かしているので、上で書いたこととだいたい同じです。
ただ、大人になったサクが17年間忘れられずにいるのが、ドラマに特徴的なところです。

1.忘れられないサク
(サク) ずっと一人でやっていこうと思ってたんです。
毎日忙しくしてれば、人生なんてあっという間だって。
で、気づいたら17年で…。
(谷田部) もう?
まだ…まだなんです。
死ぬまでに、あと17年、何回あるんだろうって思って。
ありもしない現実に期待して、夢から醒めると泣いてて。
あと何万回、僕はこんな朝を迎えるんだろうって。
もう…無理だと思ったんです…。
(4話より)

亜紀の死後、17年経った今でも、強く引きずりながら生きるサク。
これは原作にはなかったサクの哀しみです。
相手を忘れることができないという一途さが、純粋に愛したことの証拠。


2.サクから明希と一樹への無償の愛情

この点は閲覧者の方(TOMさん)からご意見をいただいたので追加します。(8/12追記)

ドラマでは、更に「恋愛感情に基づかない純愛」が色濃く出ていると思います。朔の明希と一樹に対する愛情です。
過去を引きずる朔にばかり目が行きますが、別に好きではなかった明希とその子供の一樹に朔が、大きな愛情を注いできたのは、朔失踪後の明希と一樹の行動を見ると明らかでしょう。

朔の無償の愛情に明希は、朔を秘かに想い、一樹は朔を父親と見なしています。
純愛と聞くと男女間の愛情に限定しがちですが、「純粋な愛情」は、家族間、夫婦間、友人間でも成立します。

ここで思い出すのが、朔が亜紀に傘を差しかけてあげた場面です(1話)。 あの時も朔は、そのやさしさから傘を差しかけています。 亜紀もまた朔の無償の愛に惹かれて朔を想うようになったようです。

この3人の関係もドラマに特徴的なところですね。確かにシングルマザーの明希を支えてきたサクは、打算的ではない愛情を注ぐことができる人物です。そんなサクだからこそ、亜紀も惹かれた。
この3人がどういう結末になるのか楽しみですね。


A. 純愛まとめ

どこにでもいるような二人の高校生の恋愛なのに、なぜこれほどの純愛になったのでしょう?
「世界の中心で〜」の最大の特徴は、愛した人を亡くした後の、残された者(サク)の喪失感を描いたところにあると思います。

「恋人の死」が重要な位置を占めているのは確かですが、そこで終わらずに、残されたサクの喪失感や哀しみを描く。 また、祖父が数十年間に渡って想い続ける姿も描いている。
そこに私たちは純粋さや、刹那的ではない本物の愛情を感じる。

人間は何かを失って初めて、その大切さに気づくということがよくあります。
失われるものであるからこそ、サクと亜紀のキラキラした恋愛が、とてもせつなく大切なものに思えるのではないでしょうか。




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