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過去ログNo1
温故知新  Name:うてきなぷりぱ
サクが「医者」になろうとした理由 Name:Ken
推察するに、サクは亜紀の死後、亜紀のが闘病生活の間、実際には自分が全く役に立っていなかったことを悔やんでいたようです。

下記シーン参照

先生、俺、医者になろうかなって。
え?
やっぱり、無理ですか?
そうじゃなくて、人を救う仕事でもあるけど、看取る場所でもあるんだよ
結局、アキに何もできなかった気がするんです。
まぁ、まずは授業出なさいよ。
はい。

本当は、亜紀にとってサクちゃんの存在はすごく大きくて、治療をしている医者よりも心の支えになっていたのですが、不器用で鈍感なサクちゃんにはそれが分からなかった様で・・・。
矢田部先生との会話にもあるように、サクちゃんにとっては、自分が亜紀に行ってきたことは、子供っぽくて、亜紀の治療には何の役にも立てなかった・・・としか受け取れなかったようです。
その為にも、もっと役に立てる存在になろうと医者の道を目指したのではないでしょうか・・・。


...2004/09/14(Tue) 00:05 ID:DdXgxWsg

最近過去ログにはまってます。「温故知新」というとちょいと大げさではございますが。
 ところでドラマ朔太郎はいつ頃、医者になることを決心させたのだろうか。
 初めて、医者という言葉が出てくるのは、確か最終回で校庭で谷田部先生に話すシーンですよね。亜紀との別れからそんなに月日はたってません。もしかしたら、亜紀の生前からうすぼんやりと考えていたのでしょうか。
...2006/02/03(Fri) 21:48 ID:lMfWiLWw    

             Re: 温故知新  Name:しお
 医者(病理)になろうと思ったのは、消極的理由ではないでしょうか。
 亜紀のいなくなったあと、朔は事実を受け入れることができずに、現実逃避に入ります。
のちに、「夢の中なら亜紀に会えるんだ」といっています。
 しかし、少し時間がたつと、親や学校(出席日数の問題)など、周りの環境からも、現実逃避を続けるわけにはいかなくなってきます。
 でも、何かのために、自分を忙しくさせていないと、心が、壊れてしまう。そういう心境だったと思います。
 17年後にも朔は同じことを言っています。亜紀の誕生日に「忙しいのは、ありがたい」と語っています。17年前は、ものすごい心理的重圧であったと想像できます。
 亜紀の亡き後の、高校2年生(もうすぐ3年生)の朔にとって、現実逃避を続けるわけにはいかず、かといって、今までのように普通の生活を送ることもできず、残された選択が、「毎日を忙しくして、考えないようにする(考えられないようにする)」しか、なかったのではないでしょうか。
 その方法として、親や学校にとがめられずに、忙しくできるのは学生なので勉強をたくさんすることしかありません。しかし、目標のない勉強はしんどいものです。
 朔は、亜紀の闘病中に「そのうち特効薬ができるかもしれない」と、わずかに希望を抱いていました。その仕事をすることを勉強の理由にして、無理やり自分を納得させることにしたのではないでしょうか。
 忙しくすることで、自分の形ばかりの居場所を作って、心が壊れることを防ぐことができたのではないかと思います。
 
...2006/02/05(Sun) 05:04 ID:CejblE5U    

             Re: 温故知新  Name:にわかマニア
 ドラマ第1話の「忙しいのは(あれこれ考えなくて済む分:引用者註)ありがたい」というナレーションにも見られるとおり,しおさんの言われるように,サクはわざと忙しい世界に身を置くことで現実の世界から逃げていたのでしょう。

 ここのところ,原作(173頁)では,自分の中が空っぽで,会話すら楽しむことができず,他人が煩わしく感じられて,独りを好むようになったと心境を述べた後,感情を差し挟む余地のない分,難問を解くのに没頭するのは苦痛ではなく,むしろ楽だったと述べています。つまり,ここでも,しおさんの言葉を借りれば,「忙しくすることで形ばかりの居場所を作って」いるのですね。
 しかも,次の段落(174頁)では,「連続的な時間」という感覚が失われ,「未来はなく,どんな展望もひらけなかった」と延べ,「壊れる」寸前の状態を表現しています。それでも,夢を見たり,何かのきっかけに「過去」を思い出すことがあって,それと現実との間には「涙なしに跨ぎ越せない亀裂」があるというのが,亜紀を喪くした後のサクの毎日です(原作173頁・3頁,ドラマ第1回・最終回)。
 ちなみに,ドラマのナレーションで「未来」という言葉が重い意味を持ったものとして使われているのは,ここのところを意識してのことかもしれません。

 さて,病気や事故や事件でたいせつな人を喪った人が医師や刑事や新聞記者になるという展開はそんなに珍しいものではありませんが,このドラマの特徴は,医師は医師でも,恋人を奪った病気と最前線で立ち向かう臨床ではなく,病理に進んだということなのですね。大人サクが病理医として登場するのは初回の数分間だけですし,第1話の後半以降は「高校生サクのその後」としてしか登場しませんから,気付かずにスルーしてしまうかもしれませんが,最終回の担任の「人を助けると同時に「看取る」場でもある」というセリフの意味がここに表現されているのでしょう。
 つまり,過去を引きずりながらも,一定の「ケジメ」をつけた上で,過去に向き合うことにつながるライフワークを目指したというよりも,そういう職についてすら,なお過去と向き合えない,そういう微妙な位置を表現しているのが「臨床ではなく病理」という設定なのでしょう。

 このあたり,謎解きスレにも,なぜ大人サクには覇気がないのかという問題提起を受けての議論が交されていますので,ご参照いただければと思います。
...2006/02/05(Sun) 05:58 ID:DImNB0sU    

             Re: 温故知新  Name:ぱん太
にわかマニア様

 こんばんは。
 一外科医の戯言だと思って聞いてください。
 「医師になってすら、過去と向き合えない微妙な位置」。難しいですねぇ〜。たー坊様の物語にあるように、もし亜紀が生き長らえていて、朔が「医師になる」と言い出したら、亜紀はどのように応えるでしょうね。基礎か臨床か、難しい判断ではあると思います。
 これを書いているアホ外科医は、初恋の女性の心臓疾患死をもって心臓外科医になることを決めました。1988年(昭和63年)当時、僕は高校2年生で、初恋の人を失いました。父が医師だったり、兄が医学部に進んだことも逢って、漠然と医師になることを決めていても、この時点で将来の専攻まで決めさせた一件でした。彼女は拡張型心筋症で心臓移植が出来れば助かっていたかも知れない病気でした。悔しかったですねぇ〜。泣きました。数日間は放心状態にあったのではないでしょうか。彼女の言っていた「ぱん太君、良い医師になってね。立派にならなくても、ぱん太君なら大勢の人の力になれると思うし、幸せに出来ると思うよ」という言葉を胸に刻み、ただひたすらに勉強しました。地元の某J大学に絶対に合格するんだと言う信念みたいなものがありましたね。筑波や名古屋の推薦の話を悉く断り、某J大学一辺倒の1年間でした。高校3年生なんて色恋沙汰に花の咲くところ。そんなのを尻目に四六時中勉強している僕を見て、周りはどう思ったでしょうね。亡くなった彼女は違う高校の生徒でしたから。僕の理想論はスペシャリストを極めつつ、ゼネラリストであらたかった。残念ながらゼネラリスト養成の某J大学に落ち(父親が教授にも関わらず.......、あっ!兄貴も落ちて上洛したんだ)、東大、慶応と落ちまくり、やっと滑り込んだのが都内の某国立大学。当時はセンター試験の初年度で、某国立大学は横浜市大と並んでB日程だった記憶しています。東京の人間は東大に落ちれば、若しくは危なければ千葉大に流れます。まぁ〜、色々と派閥がありますので。
 そんなこんなで滑り込んだ医学部ですが、朔のように引っ張った思いは無かったですね。まぁ〜、亡くなった彼女の言葉の一言一言が自分を押してくれたとは思って感謝しています。一応、年2回の墓参も欠かしません。お盆と命日には花を手向けています。1学年上だった彼女が二十歳になるはずだった誕生日には、ワインを買って墓参に行き、墓石にかけてあげたのを思い出したら、涙が出てきました。
 医学部に入ってからも、普通に恋もしましたし、色んなアルバイト経験を通して社会を知りましたし、26歳で結婚もしました。研修医生活が終わってすぐ、心臓移植の勉強のために渡米しました。地元の某J大学を出ていれば、9年間は地域医療に貢献しなければならなかったこともあり、自分の中では複雑そのものです。自分としてはゼネラリストになろうとしているのに、自分の敷かれた線路はスペシャリストへの道。きっと、志半ばでなくなった彼女が、僕に「早く心臓移植を浸透させなさいよ」とでも言ってくれているだろうと勝手に解釈しています。
 やっぱり朔は逃げているんでしょうね。誰でも身内が亡くなるのは悲しいもんです。僕の親父は満州で4人兄弟の末っ子が衰弱して亡くなっていく姿を見て医師になろうと決めたようです。若干10歳だったと聞いています。医師になってからも、自分の大学病院に入院していた叔母さんや義母を看取り、祖父に至っては自宅で看取っています。今の世の中、自宅で看取れるのも、医師の特権かも知れませんね。しかし、時に医学は無力です。医師を志さなかった兄は末期がんでホスピスで亡くなりましたが、親父、兄夫婦(二人して医師です)、僕、婚約者だった現彼女(保健師です)と医療関係者に囲まれて、痛烈な死に立ち向かっていきました。ほとんど泣き言を言わない兄でしたが、「チキショウ〜!!仕事してぇ〜なぁ〜!!!」という言葉は、今でも蘇ってきます。両親には言わなかったそうですが、祖母には「痛くて気が狂いそうだから、ホントは自殺したい。だけど、そうすると住宅ローンが払えなくなるから」とこぼしていたようです。僕のところ留守電にも「残された家族を頼むな」と入っていました。失明しているはずなのに、どうやって電話をかけたんだろうと義姉と話し合ったことがあります。
 一方で癌の痛烈な現実もあります。一部には「癌は突然死と違って『死への準備が出来る』」という人がいます。その受け取り方は様々なのでしょう。僕が癌だと認識したとき、初めて電話したのは、学生時代にバイトしていた新聞社の医療担当記者でした。「○○さん、俺、癌になっちゃったよ。」と。4歳年上でしたが、電話の後、すぐに駆けつけてくれ、ただただ淡々と僕の話に頷いてくれました。そこで不覚にも僕は涙を流してしまった。手術の2日前までは、顔見知りの新聞記者がひっきりなしにやってくる。同じ病院で働いてくるから、心臓外科の医師もやってくる。さぞ、僕のベッドは賑やかで他の患者さんに迷惑をかけたことでしょう。手術前前日、お見舞いを整理していると、内側に「ぱん太!頑張れ!!絶対に戻って来いよ!!!!」の某新聞社役員の一言。思わず涙が流れましたね。他のお見舞いをくれた方々にはメールでお礼をつたえたのですが、この某役員にだけは、直筆の手紙で書きました。自分の今の心情を分かって欲しかったから。「がんと向き合って」という著書を書いた朝日新聞の記者がいるのですが、僕と同年齢で彼は2回再発しているとのことです。たまに互いの家を行ったり来たりする間柄なのですが、この方も壮絶な闘病を送っています。「今夜が峠」と言われたことや抑鬱になったことを赤裸々に述べています。この夫婦にとっては病気が知って。片方が逃げ出すなんて論外です。手術を受けて、両親と一緒に告知を受け、その翌日に彼女の方からプロポーズしているんです。実に豪快な姉さん女房です。

 ではでは、また機会がありましたら。
...2006/02/09(Thu) 00:24 ID:YAApxzFM    

             Re: 温故知新  Name:佐藤城太郎
>ばん太様。

貴兄の書き込みを読んで、当方も、かつてなぜ自分が大学教員を目指したのか、改めてその「初心」を思い返しました。ありがとうございます。
...2006/02/14(Tue) 19:14 ID:DB6czVRc    

             Re: 温故知新  Name:ぱん太
佐藤城太郎様

 こんばんは。一アホ外科医の見解にコメントをいただき、ありがとうございます。僕も一応は大学教員(助手ですが..........)です。佐藤様の「初心」という単語を見て、自分でも思い返してみました。人の役に立つ仕事がしたくて医師になったんだと改めて思い返した次第です。いつの間にか、諸事情から循環器一辺倒の専門バカになっておりますですが........。 
 教員への思いと言えば、人を後進を育てると言うことでしょうか。実のところ、自分が癌で入院した際、主治医でもあった上司に相談したことがあります。「移植医療を離れてホスピス医になりたいんですけど。癌患者じゃなければ分からない心理や精神状況もあります。それらに応えられるべく、ホスピス医になりたい」と懇願しました。教授からは「先生は5年間も移植医療のために留学し、経験を積んでいる。あなたの医師人生の中で、最も長い時間を移植医療のために携わってきた。それを還元する必要があるし、後進を育てる義務もある」と返され、否定されました。そのまま、心臓外科に居座っている次第です。国費留学した訳ではないので、やりたいように生きる人生もあったのですが、教授からの「経験を還元し、後進を育てるべき」との言葉が重くのしかかったような気がします。
 人生色々と難しいですね。

 では、また。
...2006/02/14(Tue) 23:59 ID:vZXES.1s    

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