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過去ログNo1
謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:騰コ
謎解き世界の中心で愛をさけぶスレでの最後では、AAがゆがみ、見苦しく(もともと私の投稿自体が見苦しくございますが・・・(^^;))なり、失礼しました(お詫びしようと思いましたが、前スレには書きこめないのでここで失礼させていただきます・・・(^^;))。

謎解き世界の中心で愛をさけぶスレも2スレ目となり、新しく参加される方にも最初の出発点を知っていただく事も必要かと思いますので、最初の文章をコピー&ペーストさせていただきます。また、にわかマニア様が前スレで疑問を提起されていますので、それを2番目にコピー&ペーストさせていただき、みなさまの参加をお待ちしたいと思います。


1.謎解き世界の中心で愛をさけぶ [レス:300] [FULL] Name:騰徳 - 2004/10/01(Fri) 10:03 ID:HfF8JzBs 編集/削除

なかなか面白かったです。よく分析できていて、参考になりました。自分も色々な知識に関してはそこそこ自信がありましたが、ライターズジムさんはやっぱりプロですね。自分にはあれだけの文章はとても書けないです。

細かい部分では見解の違いもありますが、とても良い本だと思います。セカチューの原作を読んで、批判(非難?)的な人達や表面的な理解(天国があると解釈した人達や悲恋に涙するだけで終わった人達など)で終わってしまっていられる方には、ぜひ読んでもらいたいですね。特に最後のほうで、アマゾンのユーザーレビューや2ちゃんねるの書き込みに対する見解を書かれていますが、大体妥当な見解だと思いました。ライターズジムさんのように深く本を読める方には、あのような書き込みはあまりにも表層的な理解しかされていないと感じるのも無理はないと思います。

最後に、どこ(色々な雑誌やサイト等)を見ても書かれていないので自分の見解をひとつ。

朔太郎は人に聞かれても、自分の名前の意味を深く説明できないでいますが、これは本当の自分を分かっていない、理解していないと言うことを暗示していると思います。また 亜紀 を 秋 と勘違いしていた時点で、アキの事を誤解して本当の廣瀬亜紀を理解できていなかったということも言えると思います。

こういうことからもこの作品は、本当の自分探しというのが本来のテーマであると言えるのじゃないかと思っています。(恋するソクラテスという原題にも象徴されるように)
...2005/08/12(Fri) 04:19 ID:HvBvECiM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:騰コ
以下、にわかマニア様の前スレでの問題提起です。みなさまの見解をお待ちしております

[296] 根拠探し2題 Name:にわかマニア - 2005/07/31(Sun) 01:26 ID:bZtqmoD2 編集/削除

 いつも,どんな議題でも,二言目にはすぐ「根拠は?」って口走ってしまう「ミスター・根拠」です(^^ゞ
 今日は,どうしてそういう設定になったのか,うまい答が見つからない問題(映画・ドラマそれぞれ1つずつ)について,皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

【映画の亜紀が葬儀で生徒代表に選ばれた理由】
 暗い冬空の下で雲の間から陽が刺すか,急な雨に襲われる梅雨時かはともかく,亜紀が弔辞を読み通さないことには,この物語が成り立たないことは確かです。では,何故,亜紀だったのでしょうか(物語の進行の都合上というのはもちろんですが)。
 原作は,亡くなったのが亜紀が学級委員をしているクラスの担任でしたから,自然な人選と言えます。ドラマでも亜紀は学級委員でしたが,亡くなったのは直接の担任ではなく学年主任でした。これについては,別スレですが,亜紀は生徒会の副会長だったのではないか(「うてきなぷりぱ」さん)とか,教員の役割分担の中で谷田部が司会を引き受けたため,弔辞も谷田部のクラスから出すこととなったのではないか(「しお」さん)といった説得力のある解釈が示されています。
 ところが,これに対して,映画では,亜紀は学級委員ではないのですね。ですから,原作がそうだとか,主役だからという先入観を取り除いて観た場合,亜紀が生徒代表に選ばれる合理的な理由に乏しいのですね。
 もちろん,孤高のヒロイン像を強調した映画での描かれ方からすると,亜紀は抜きん出た存在ではあっても,学級委員とか生徒会長といったそれなりに大衆基盤を持つ存在ではない方がピッタリ来る感じはするのですが,その分,なぜ弔辞の役目が亜紀に回ってきたかの理由付けが苦しくなっているのですね。
 まさか,ジュリエット役の決め方のように,投票で決めたのでしょうか。

【ドラマのサクが臨床ではなく病理に進んだ理由】
 亜紀を亡くしたサクは,医師を志します。亜紀に結局何もしてやれなかったというのが動機ですが,実際に進んだのは,亜紀を奪った病気に最前線で立ち向かう血液内科ではありませんでした。
 なぜ,臨床ではなく病理を選んだのでしょうか。
 別スレで,続編のメイン・ライターの朔五郎さんが正岡徹博士の著書を引用しつつ,現代医学の基礎には「決意と失意の連続した夜明け前」の「刀折れ、矢尽きた数多くの尊い敗北」の繰り返しがあったと述べておられます。
 夜が完全に明け切っていない状況では,個別の患者に個々具体的に対応する臨床よりも,医療水準総体の底上げを図ることが自らの使命だと感じたのでしょうか。ただ,それにしては,拒否反応等の研究に打ち込むというならまだしも,骨髄バンク設立前後という年代設定との関係がスッキリしないのですね。
 あるいは,進路の志望を聞いた担任が「人を助ける仕事であると同時に,看取る場でもある」と言っていますが,亜紀を亡くしたトラウマを抱えた状態で,人を看取る臨床の最前線に立つことに「躊躇」なり「恐れ」を感じていたのでしょうか。遺灰の入った瓶を持ち歩いて亜紀が死んだことを絶えず確かめていたことと顕微鏡の中の癌細胞を見ることを関連付けておられた別スレの朔五郎さんのご意見もなかなか魅力的です。


[297] Re: 謎解き世界の中心で愛をさけ... Name:にわかマニア - 2005/08/03(Wed) 04:06 ID:w3LaUyE6 編集/削除

 心中行とも言えるような重病人を伴っての病院からの脱出行をあえて決行するような間柄でありながら,実は,その相手の名前を最後まで勘違いしていたというおよそありえない設定から,この物語のテーマとして「自分探し」ということもあるのではないかというのが,スレ起こしにあたっての問題提起でした。
 映画では,さすがに「名前の種明かし」を最後まで引っ張るのは不自然だし,学校探検のシーンで名前の落書きを見た時に初めて知ったという訳にはいかないという判断もあってか,「名前の種明かし」そのものは夢島のシーンに持ち込まれました。その際,この夢島のシーンと,冒頭(時系列的には17年後)に,サクは自らの名前の由来となった作家の名前だけは知っているが,その代表作すら知らないというシーンを入れることにより,このテーマを強調した形となっています。

 これに対して,唯一,名前の勘違いが登場しないのがドラマなのですね。むしろ,亜紀が悲観して入水しようとした場面で,サクの口から亜紀の名前の由来が語られ,「そういう亜紀を信じる」という流れになっています。名前談議のこういう転用の仕方もあったかと感心した反面,原作や映画が語ろうとしたテーマはどう処理するのかという点が気になっていました。
 もちろん,不自然さをなるべく排して,丁寧に描いていけばいくほど,名前の勘違いという「漫才」的な要素は入り込む余地がなくなってきます。とはいえ,あれだけ緻密に構成されたドラマが,このテーマを全くカットしたとも考えられません。

 そこで思い浮かんだのが,人物像が一人称小説の視点人物から見た姿としてしか伝わってこない原作と違って,登場人物がそれぞれ個性を持って描かれているドラマでは,その描かれ方にヒントがあるのではないかということなのです。
 亜紀は,父親からの重圧もあって,「無理をして自分ではない自分を演じ続ける存在」として描かれています。これは,名前の持つ呪術(原作を評した謎解き本の記述)以上に,親から込められた期待の重さを「命名」という17年前の「一過性の行為」以上に,「具体的」に「反復・継続」して表現しているとはいえないでしょうか。
 どうも,父親の厳しさと「無理をして頑張る」ヒロインの姿というのは,単なる思春期の親子関係一般に解消される問題というよりは,「恐竜のように栄えるように」ということを原作や映画とは違った形で表現したものという気がしてならないのですが,皆さんはいかがですか。

 原作だけでなく,映画やテレビドラマも含めて,あちこち寄り道してきたこのスレも,間もなく満杯になりますので,スレ主さんの「しめ」に期待しつつ,再びスレ主さんの提起された問題に戻りました。

 (補論)
 本稿投稿後,亜紀の命名と原作・映画&ドラマの関係で,ちょっと気付いたことがありますので,補足します。

 原作だと,サクや亜紀はオイルショック後の1975年生まれですが,ドラマや映画では「人類の進歩と調和」をテーマに大阪万博が開かれた1970年かその前年の生まれということになります。
 その1970年頃,鈴木健二アナの司会で「70年代われらの世界」という番組があって,「公害原論」の宇井純さんたちをゲストに迎えて,よく地球環境の問題を取り上げていました。確かテーマ曲の歌詞も「青い地球は誰のもの」というものでした。
 そこで,登場人物の名前との関係なのですが,確かに,朔太郎や龍之介など文豪の名前から命名するというのも珍しいですが,白亜紀から「亜紀」と命名したというのもちょっと「コジツケ」っぽい設定です。
 でも,資源が有限であることや,高度成長から低成長への転換を誰もが意識せざるをえなくなった頃(原作)と,「高度成長」に浮かれつつも,いろいろ矛盾が表面化してきて,問題提起がなされた頃(映画・ドラマ)とを比較すると,後者の方が「亜紀」という命名がピッタリくるような感じがしませんか。
...2005/08/12(Fri) 04:28 ID:HvBvECiM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:hiro
hiroです
騰コさま、パート2突入おめでとうございます。
パート1では、特に「ドラマの舞台は愛媛」説、それに絡む「交通機関及びダイヤ」話でお世話になりました。
「交通機関及びダイヤ」話では、にわかマニアさまの新たな一面を見させていただきました(^_^;)
不二子さまには最後に名前を出していただき、少々照れました。お返事を書きたかったのですが、パート1は既にスレッドが残り僅かでしたので、こちらでの書き込みになりました。

にわかマニアさまが「正統派」であれば、私は「亜流派」ということで、今後もよろしくお願いします。

さて、ドラマ開始から1年が経ち、セカチュー関係の個人サイトでも、そろそろ閉鎖するところ、更新が少なくなったところがある一方、新たに立ち上げられたサイトも出てきております。
(こちらのように、最初からずーっと継続されているところは稀だと思います)
新しいところは、DVDを何度も観て感動された方が多く、最初から深い内容のものが多いです。
私も気に入った意見がありましたので紹介します。

最終話で、ウルルでの真パパと綾子ママのセリフより
(真)「アボリジニは遺体を2回埋葬するらしい。
    肉も骨も全て大地に戻すためらしい。
    大地に戻った人間は新たな命を育む。
    アボリジニにとって生と死は一体なんだよ。」
(真・綾子散骨)
(綾子)「花を・・・咲かせるかしら」
    「土に返って、あの子は命を・・・
     あの子は命を育てて、母に・・・」
とあります。
一方、2話アジサイの丘で、
(亜紀)「紫陽花って不思議な花でね、土壌の酸性度によって色が変わるんだって!
     青い紫陽花は酸性 ピンクはアルカリ性
     ちなみに植物がよく育つのは弱酸性なんだって!」
そして、2話ラストで
(サク)「だけど・・・
     あの日亜紀と見た・・・ピンクの紫陽花は一本も無かった・・・
     目の覚めるような青だった・・・
     僕の目を覚まさせる鮮やかな青・・・
     亜紀などいなかったのだと言われている気がして・・・
     僕は撒くことが出来なかった・・・」
とあります。

サクは青いアジサイを見て、「亜紀などいなかったのだと・・・」と感じていますが、アジサイが青くなっているということは、「植物がよく育つ」状態になっているわけです。
つまり、土を良くして花を咲かせたのは亜紀であり、
「亜紀などいなかった」どころか、すぐ傍に居たのに、この時のサクは気付けなかった。

というものですが、いかがでしょう?

さて、本題の「亜紀」の名前の由来ですが、
意見1
 この物語は「秋」の匂いが強く、秋の季語でもある「新月=朔」と「秋=アキ」をベースとし、
後付けで「朔太郎」「亜紀」となった?
蛍の種類によっては、秋の新月の夜集まるようです。
夢島のシーンが連想されます。

意見2
 ドラマ版にしか当てはまらないのですが(意味なし)
雨の中で弔辞を読むシーン、ある歌が浮かびませんか?

雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ〜、私のいい人連れて来い〜♪

そう、歌っているのは「八代"亜紀"」
・・・っていうのは、ダメですか??(^_^;)

真面目なスレなのに、叱られそう(-_-;)
...2005/08/13(Sat) 02:23 ID:.BulULmU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 「アナザー系」に比べれば地味な「謎解き系」ですが,パート2突入を皆さんとともに喜び合いたいと思います。
 「スレが一杯になるってェのは,エライこった。俺たちにできるのは,書き込むことだけだ」と老写真館主から祝辞が届いていませんか。もちろん,これは冗談ですが・・・

 土に返って,命を育てて,花を咲かせるということと,アジサイの色の話の関連付けというのも,なかなか魅力的な解釈だと思います。そういう目で見ていくと,民族によってさまざまな葬送の風習がある中で,なぜアボリジニが選ばれたのかということも何となく見えてきます。もちろん,死と再生という死生観も大きいとは思いますが,そういう死生観は何もアボリジニに限ったことではありません。
 亜紀の遺言どおり亜紀の両親とウルルに散骨に行ったものの,違和感や躊躇を感じてサクだけが遺灰を持ち帰り,ふさわしい場所を探した後,学校で2回目の散骨をするという原作やドラマの構成からすれば,2回埋葬するというところにもう一つのポイントがあったのかもしれませんね。
...2005/08/14(Sun) 12:55 ID:QCGg4OuM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:say
不二子さんは遠慮されているのだと思いますが、前スレ298番の不二子さんの書き込みはにわかマニアさん提起の質問への直接の答えではありませんが興味深い内容ですし、且つこのスレに含めるに適切なものだと思います。
そんな訳で勝手ながら名前に纏わる感想以降を以下へ貼り付けさせていただきます。
不二子さん、不本意であるならばゴメンナサイ。

================================================


[298] Re: 謎解き世界の中心で愛をさけ... Name:不二子 - 2005/08/04(Thu) 11:59 ID:fkp2F60g 編集/削除


<<<< 前半省略 >>>>

先日より、にわかマニア様が上げておられる「名前」の件で、私が思っていることを書かせて頂きます。とても謎解きのレベルまでは達していないのですが、これは私が映像を観て直接感じたことです。

映画の夢島のシーンは大変印象的でした。中でも亜紀が自分の名前の由来を明かすシーンは、長澤さんの亜紀が素晴らしいと感じたシーンの一つでもあります。
あのシーンは光の加減もあってか、非常に幻想的なシーンでした。亜紀は自分の名前を指文字で書いて見せて、サクに柔らかく微笑む。確か白い服を着ていたと思います。月の明かりが室内まで差込み、その影がまるでジャングルの奥地に足を踏み入れたようにも見えました。明らかに別世界でした。そこに、白い服を着てたたずむ亜紀は、すぐそこにいるのにまるで手の届かない様な存在に見えたのです。
そしてこれは、後から思ったことなのですが、そもそも亜紀が、サクの手の中にあったことはあっただろうか?亜紀を捕まえたように見えて、サクの腕の中からはスルリと居なくなってしまうような実体の無さを、映画の亜紀には感じていました。
「恐竜」。確かに過去には地球上に存在した生き物。しかし、本物を見たものは誰も居ない。繁栄の時代を極めたと言われながら、鮮やかなまでの散り様。その時私は、白い服を着てたたずむ亜紀が、まるで太古からの精霊の様にも見えたのです。
「掴めそうで掴めない存在=亜紀」。

対して、ドラマの綾瀬さんは確実にサクに近い存在だったと思います。それは映画とドラマの時間的な差で、描く内容にも大きな違いあったことと無関係ではないと思います。私がドラマと映画をはっきり分けて考えられるのは、サクと亜紀の関係性について、同じ作品とは思っていないからかもしれません。同じ原作を扱っていながら、また、ドラマは映画を踏襲しながら緻密に創られていると思いますが、私には別の作品、という印象の方が強く残りました。その理由が、「サクと亜紀」なのだろうと思っています。自分のことなのに、理由がよく分かりません。何故だかよく分かりませんが、空気が最初から違っていた様に感じたのです。

それで私の中では、映画の亜紀が幻の女という位置づけなのに対して、ドラマの亜紀はどこまでも「人間=廣瀬亜紀」という印象を持っています。それはサクに対して「本当の私はこうではない」と明かし、恐れながらも「本物の自分」を見て欲しいという気持ちを「亜紀自身が持っていた」ことで、サクも虚像ではない亜紀の真の姿に近づこうとしたことに由来すると思っています。ドラマが「本当のアキを知らない、サク」という描写を取り入れなかったのは、サクが最初の時点でそれを気付いていたことが大きな理由と思っているのです。
にわかマニア様が「亜紀」についてお考えになっている「無理をして頑張るヒロイン像」は、サクと出逢ったことで「無理をしなくてもいい」に変化しつつあることからも、確かに「自分ではない自分」からの解放という大きな意味も感じます。

と・・・、ここまで書いてはみたものの、取り止めのないことになり、申し訳ありません。
ちょっとだけ書いてみようと思ったら、こんなになってしまいました。
長文失礼致しました。
...2005/08/14(Sun) 13:41 ID:LYpIxAl6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:say
さて改めてこのスレに対して自分の意見を書かさせていただきます。
何かを祝うとか祝福するといった行動や発言に違和感を憶えやすい価値観の持ち主であるため、そういった直接的な事は書きませんが、興味深いスレッドがまた開始されたことを喜ばしく思っています。

取り敢えずすべてを書き上げるには時間がかかりそうですので1つ1つ書いていこうと思います。
まず最初は「映画の亜紀が葬儀で生徒代表に選ばれた理由」です。
「先生がいつもおっしゃっていた『始まりはすべての続きに過ぎない』という言葉の意味を考えます」とまたそれに続く言葉「私たちは先生との思い出の分だけ涙を流(す事よりも ...?)その死を受け入れて明日を生きていくことを強く心に誓わなけれ(ば ...?)先生はお別れを言って下さらないでしょう」という悼辞からすると少なくとも教科(悼辞からすると国語か社会?)担当か何かの接点があったように思います。
ここで亡くなった先生が国語の先生で、弁論大会に亜紀を抜擢(もしくは「やってみない?」と持ちかけた)というようなより強い接点があったとしたらどうでしょうか。
抜きん出た存在ならそのような抜擢(持ちかけ)もあり得ると思います。
...2005/08/14(Sun) 15:14 ID:LYpIxAl6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 満杯となった前のスレの178番目で,hiroさんから「カンタス航空のチケットは22:30成田発で,亜紀が倒れた稲代空港のカウンターの案内板は「羽田行19:45発135便」とあるが,松山→羽田は1時間半,羽田→成田のリムジンバスが75分だから成田発に間に合わない」とのご指摘がありました。
 調べた結果が184番ですが,列車番号と同じく飛行機の便名も東京方面行が偶数なので,羽田行の奇数便というのは,そもそもありえない番号でした。

 その際,「ちょっと気になるのは,夕食のドサクサに紛れて病院を抜け出す原作もまた,ダイヤをわざと無視した書き方になっており,実際は,列車が宇和島から松山に向かっている最中に最終便が松山空港を飛び立っているというダイヤなのです。ひょっとすると,ありえないダイヤを提示することで,「どこへも行けない」という文章には計画どおりに物事が進んだとしても「どこへも行けない」という意味がかけてあるのかもしれないという解釈をドラマのスタッフもとっていたのかもしれません」と書きました。
 先日,改めて映画のDVDを見たところ,こちらも台風で欠航となった羽田行は奇数便でした(雨平写真館から律子を追いかけて着いた空港ロビーに流れるアナウンス)。とすると,映画の製作側も同様の解釈をとっていたのでしょうか。

 その関連で,もう一つ気になる会話が浮かんできました。映画版の夢島では,名前の由来談議の他に,2人ともこれまであまり遠出をしたことがないというやりとりがあります。盆・暮れの里帰りや遠足・修学旅行(陸上部なら合宿だってあるでしょう)を考えると,およそありえない会話です。それをあえて,2人に語らせているというのは「どこにも行ったことがない」=「どこにも行けない」という伏線として位置づけたということなのでしょうか。
...2005/08/16(Tue) 13:03 ID:LkVX1m6I    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:hiro
ウルル行きで一番現実的な時間構成だったのが映画版でしたが、ここにも足止めをする要素があったのですね。

映画版では、二人訪れたが最も遠いところが「夢島」でしたね。
「夢島」=「冥界の入り口」と考えると、ここより遠い所は「あり得ない」という解釈もできます。
ただ、原作・ドラマ版に比べると、映画版では「夢島」=「冥界の入り口」のニュアンスは薄いかもしれません。
にわかマニアさまのおっしゃるように「どこにも行けない」の伏線だったのか、
或いは、原作を知っている人向けに、「冥界の入り口」のニュアンスを伝えようとしたのか・・・
いずれにせよ、無駄なセルフの少ない映画版ですから、
「2人ともこれまであまり遠出をしたことがないというやりとり・・・」には、何か意図があるのでしょうね。
...2005/08/18(Thu) 01:53 ID:xf2OyELg    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 ズバリ「夢島」をテーマとした別スレに書いたことの再掲になりますが,原作の舞台は宇和島がモデルと言われていますが,夢島の対岸が石応ということ以外,あえてどこと特定できる表現は巧みに避けています。登場するのは,「城山」とか「空港のある地方都市」といった普通名詞ばかりです。
 そうした中で,夢島だけは,2人にとって特別な位置づけの場所ということもあってか,「無人島」という無機質的な名前ではなく,「夢島」という固有名詞が与えられています。では,なぜ,夢の世界とは程遠い廃墟なのに「夢島」なのでしょうか。

 ここでの出来事としては,電話の幻聴と蛍の幻想的な光景があげられます。よく,亜紀の肩にとまった蛍は亜紀の運命を予言する存在としてとらえられますが,蛍に「死者の国とこの世を往来する存在」という意味があるとすれば,なおさらです。
 つまり,このシーンを冥界からの呼び出しのようなものとして位置づけたこととの関連で,その舞台である無人島全体を日常空間とは時空を隔てた「異界」と見立てた上で,「現実世界」の反対概念として「夢島」と名づけたのでしょう。

 だから,この作品の映像化にあたっては,異界に足を踏み入れた者が去ろうとして再び引き戻されるような感じで,帰路におこるアクシデントを原作のような単なる船の故障ではなく,亜紀が倒れるという設定にしたのでしょう。
 また,ドラマでは,電話の幻聴のエピソードを全巻に膨らませて,亜紀が空港ロビーで倒れた時のカウンターの電話,容態が急変した時の幻聴と,精密検査の呼び出しも含めて,電話の呼出音を冥界からの呼出音的に使ったのでしょうし,「あの世」や「神様」についての会話(原作では,祖父に墳墓窃盗を持ちかけられた頃と亜紀の入院後の病室に登場)も,ここに持ってきたのでしょう。もちろん,今サクによるナレーションが,「死の世界への入口」的な表現をしているのも,このためでしょう。

 その上で,改めて映画の夢島のシーンを見ると,ここはこの世の果てであって,これより遠いところはありえないという意味も込められていたような感じもあります。ただ,それを哲学的な会話で表現するのではなく,ちょっとコミカルな会話でさりげなく示しているのかもしれません。

 これに限らず,原作とドラマを比較して見た後で,「さて映画はどういう解釈をしているのか」という目で見ていくと,最初は気にもかけずにスルーしていた何気ないシーンの中にさりげなくヒントが示されていることに気づくことがしばしばです。
 前にも書いたとおり,原作にしても,映画やドラマにしても,少なくとも,寝転がってビールでも飲みながら見ていたのでは,作中に込められたメッセージを見過ごしてしまうことだけは確かなようです。
...2005/08/18(Thu) 08:42 ID:md0r7C4Q    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
久し振りにやってきました。
最近気になっていることがあります。
それは「散骨の意味」についてです。
原作では、サクは新しい恋人らしき女性と故郷を訪れ、中学校の校庭で散骨に至ります。
しかし、このラストシーンを良く読んでみますと、故郷を訪れたのは別に散骨が目的というわけではありません。サクは「アキを忘れよう」とも「アキと決別しよう」ともしていないのですね。むしろ「この世界のすべての事象にアキは宿っている。新しい恋人ですらその例外ではない」ということを実感したからこそ、その一部を瓶の中に閉じ込めておいても無意味であると思い、自然に返したと思うのです。
それに対して、映画とそれに続くドラマでは「決別のセレモニー」としての位置付けになっています。
抽象的な問いかけになってしまい申し訳ないのですが、それぞれの「散骨の意味」について、皆様はどうお考えでしょうか。
ちなみに舞台では原作と同様の意味合いを持たせていたように思いました。そもそも舞台では新しい恋人は登場しないのです。
...2005/08/20(Sat) 20:30 ID:juX.pDTM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作,映画,ドラマともに散骨で幕を閉じる物語でありながら,その描かれ方はまさに三者三様ですが,それでも,それぞれの物語の中に相互の接点を見つけることも不可能ではありません。

 「たまたま」帰省中に,亜紀の「点在から遍在への遷移」を意識したがゆえに「散骨」に至った原作ですが,その前の3頁にわたり,散骨のために夢島に渡りながらも決心がつかず,気持ちの整理がついてからにすればいいという大木のアドバイスで引き返す場面が描かれています。これは,時系列的には散骨の10年前であり,亜紀の両親とウルルに行ってからそんなに時間の経っていない頃のことです。
 この場面があるため,サクが亜紀の入った瓶を持ち歩いていることが読者に提示される訳ですが,その位置づけは明示的には書かれていません。ごく自然な解釈としては,大切な人をしのぶアイテムだからということになるのでしょうが,「現実にはありえない夢」という大木との会話をはじめ,「ありえない夢から現実に戻るために亜紀が死んだことを確認するアイテムとして」というドラマの解釈につながる素材も用意されています。

 ところで,思い出すためにせよ,夢から現実に戻るためにせよ,瓶を常時持ち続けるということは,亜紀を引きずっているという点では大差ありません。その場合,引きずったまま「再婚話」がどんどん進むのはいかがなものかということを気にしたのがドラマなのかもしれません。
 原作は新しい恋人を連れての帰郷ですし,映画はもっと進んで,挙式の段取りも決まり新居に引越しさえしているのですが,これに対して,視聴者には「この人が再婚相手」と印象づけながらも,本人は未だファーストネームで呼ぶことさえしていないのがドラマです。そして,ドラマでは,サクが心の整理をつけて散骨に至る過程において小林に背中を押してもらっている部分も大きいのですね。このあたり,「失くす痛みを知り,新しい愛をつかむ」という主題歌の世界です。
 ただ,これは,原作とドラマの間に根本的な違いがあるというよりは,原作の中に用意された解釈の糸口を突破口として,ドラマは原作の世界を視聴者が違和感を感じないように映像的に表現したということもできるのではないでしょうか。
 ドラマでは夢島は散骨場所の候補としては登場しませんでしたが,原作の夢島再訪はその後10年にわたり瓶を持ち歩く出発点という位置づけでもありますから,亜紀の残したテープを探しに行き,それを聴いて再び暗闇に引き戻されるというドラマの展開も,意味合いとしては原作から外れている訳ではありません。

 散骨をサクの帰郷の理由付けにしていないという点では,映画はドラマより原作の近くに位置していますが,律子を追っての帰郷が律子のみならず亜紀と向き合うことを意味するという点では,映画とドラマにも通じるものがあるとも考えられます。 
 それでは,全ての点において映画の方がドラマよりも原作に近いかといえば,むしろ,最も独自の展開をしているのが映画です。例えば,唯一,亜紀を持ち歩いていないのが映画なのですね。散骨という遺言も,届けられなかったテープの中でのことでした。律子と「後片付け」をするという位置づけといい,手品のようにあっけなく飛んでいった映像といい,最もドライな「決別のセレモニー」が映画だということもできますが,これは,律子と他の二者を比べた場合の「新しい恋人」がサクや物語全体に占める重さの違いということなのかもしれません。
...2005/08/20(Sat) 21:37 ID:F6vw4xCw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:say
映画は亜紀の死をきちんと受け止めきれていなかった朔が律子の事故によって朔へ伝わっていなかった遺言に従いまた亜紀の死を正面から受け止め、悲しみを乗り越え新たなスタートを切る、区切りの散骨だと思います。
映画は決別的な印象が強いですね。

ドラマは残された者が精一杯生きることが去っていった者とその死の尊さに繋がり、再び合うその時に顔を上げていられるよう精一杯生きるためにしばしのお別れ...という印象でした。
...2005/08/20(Sat) 21:48 ID:Cq4sMcRY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 律子との「新たなスタート」への「区切り」と,「精一杯生きた」その先に「再び会う」までの「しばしのお別れ」に対応するかのように,亜紀の遺言も「あなたはあなたを生きて」と「お前の脚はあの子の脚だ」という違いを見せています。
 ドラマでは,これを受けて,サクの側も「走り続けることが亜紀がいた証だから,走ることをやめない」と語っています。智世も娘に亜紀と命名し,大木も船に夢島の写真を飾るなど,登場人物が多彩なこともあって,亜紀は,サクだけでなく,みんなの中で行き続けているという描かれ方です。これだけのインパクトを残された者に与えたという点では,ある意味,映画以上に「人が死ぬってえのはエライこった」という表現がピッタリくるという側面もあります(もっとも,祖父が早くに他界しているため,そのセリフを語る人物がいないのですが)。

 これとどこまで関連するのか十分に詰めきっていないのですが,映画の今サクの空港でのセリフに気になる点があるのです。
 遅れて届いたテープのことを詫びる律子に対して,最初,サクは「『亜紀は』怒っていない」という言葉をかけるのですが,次の「後片付け」に行く話になった時には,「『彼女は』ここ(空港)までしか来れなかった」と言っているのですね。
 謝る律子を慰める場面と,「事実経過」を語るのとでは状況が違うと言ってしまえばそれまでですが,律子の前で亜紀のことを「彼女」という第三者的な表現をしていることは,サクと亜紀と律子の微妙な位置関係とその変遷が反映されているのでしょうか。
...2005/08/21(Sun) 06:58 ID:J2nyTBTU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:say
変遷かどうかは不明ですが、「亜紀」と呼び捨てにすることで律子に亜紀への想いを意識(再認識)させてしまっては壁を作られかねないので言葉を選んだようには思います。

私には実は重じいに「後片付け」の事を言われる以前に朔の気持ちは時の流れによってかなり癒されていたように思います。
それがテープを聴いたことで当時の鮮烈な記憶を呼び起こされ、感傷的になり、またずっと亜紀の死から逃げてきた事から心乱れた状態に陥ったのだと思っています。
だからこそ重じいに「後片付け」の事を言われた後、短い時間で自分がすべき事を決心することが出来たんだろうと。
逆に言えば律子のことをそれだけ強く想う気持ちがすでにあったからなのかもしれませんが。
...2005/08/21(Sun) 15:20 ID:iRHdENs6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:不二子
遅くなりましたが、本スレッドのパート2突入おめでとうございます。
そして、先日より騰徳様には、ありがとうございました。
また多くの皆様の意見を読ませて頂くのを楽しみにしております。

hiro様にも、say様にも、お気遣い頂き、ありがとうございました。
私の場合、普通に書いていても、「見解」というよりかは「感想文」になってしまう傾向があり・・・、まあそれでも、思うことは色々ありますので、自分なりに考えをまとめることが出来たら、その都度書かせて頂くこともあるかと思います。
前スレを読み直したりしては、興味深い意見の数々に改めて頷くことが多く、また皆様の考えの深さに唸ったりもしています。

それで、折角の議題に割って入ってしまって申し訳ないのですが、先日の追記というか、名前のことで「サク」について私が思っていることを書かせて頂いてよろしいでしょうか。


人が人を愛すると、必死で相手のことを理解しようとします。それを究極に突き詰めていくと、愛する人に「同化する」ことを本能的に求めたりはしないでしょうか?

私がこの作品のことを知ったのは、ドラマが始まる直前といっていいと思います。主人公の二人が「サク」と「アキ」という名前だと聞いた時の、初めての感覚を覚えています。とても爽やかだと思いました。それは多分「サク」という音の響きが持つイメージが大きかった様に思うのです。
「サク」というのは、音の使い方では「サクッと」とか「サクサクと」とか、原作にもある様に、ビスケットを食べる時などの噛み砕く様な軽い音を示し、同時に湿り気のない乾燥したイメージを与えると思います。好きな女の子から自分の名前を「サク」と呼ばれることの、何ともいえない軽やかさを最初に感じました。
この物語の中では「朔太郎」は萩原朔太郎から命名したことになっていますが、片山さんご自身は、この「サクッ」という音こそ、この物語に取り入れたかったのではないかと思ったのが、第一印象でした。それで、原作を読んでみて初めて、この時に感じたことの理由が少しだけ分かったように思ったのです。
サクはアキが亡くなったら、その骨を食べたいと言い、それは愛した人を自分の中に取り込みたい、という願望のようにも思います。そうする事で、自分がアキに同化していくような、自分の細胞の中でアキが生き続けるような錯覚を欲したのではないかと。つまり、身体はなくなっても、精神を受け継ぐことと同じ意味を持つような。
原作の「サク」という音には明らかに骨を食べる音の意味があると思います。(これは、前スレでにわかマニア様も仰っていました。)

自分の中に取り込む愛。愛を咀嚼する人「サク」。

分からなくなったら取りあえず最初に戻ろっか、というのが私の定石なのですが、これは、そういえば「サク」という名前を最初に聞いた時私はこう思った、というところから発展させた、私的「松本朔太郎」の由来でしょうか。
...2005/08/22(Mon) 14:48 ID:WOEl1D0U    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作では,祖父の恋人の墓をあばいた(41〜51頁)後,「いっそのこと食べちゃえば」というセリフまで飛び出す(55頁)のに続いて,亜紀の両親と一緒の散骨行や亜紀を見舞った病室でのビスケットの咀嚼音が登場(63〜66頁)します。原題の「ソクラテス(頭でっかちの象徴か。謎解き本51〜52頁)」との発音の類似性といい,死と再生というモチーフを想起させる「新月」を意味する「朔」といい,どうも,まず「サク」という略称が決まり,次に,それらしい名前として「朔太郎」と命名されたような印象はあります。
 そうでなければ,星の数ほどいる文学者の中から,よりによって病気の子どもを放ったらかしにするような人物の名前を純愛物語の主人公にしたことに違和感を感じてしまうのです。
 また,同じく文豪の名に由来する大木ですが,原作・映画・ドラマともに,時代の閉塞感に苦しんで睡眠薬を飲むようなキャラではありません。これも,サクと子音の構成が同じというところからきているのかもしれません。
...2005/08/22(Mon) 22:52 ID:Fe396cWw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:騰コ
hiro様、不二子様、みなさま、応援の書きこみありがとうございます。

来月父親と伊豆に旅行に行こうか!と相談している日々です。この前の西伊豆の素晴らしさに始めて気づいたので、父親にはセカチューの事は何も話していませんが(たぶん、話しても興味を持たない)、いいところだよ〜と連れだし、自分がもう一度西伊豆とセカチューの良さも体験してこようかなあと思っています。

もう他スレで既出かもしれませんが、映画でのサクとアキの会話(夢島での遠くに行った事が無い)は、将来アキがウルル(遠くの場所)に行きたいと言う気持ちになる理由付けもあるかもしれませんね。

あと不二子様の解釈ですが、それに似たような解釈として、前の謎解き世界の中心で愛をさけぶで、私も書いた記憶があります。少し表現や意味合いは違いますが、アキがサクの心そのものだったから、アキが死ぬ事によりサクの心も死んでしまい、灰色の世界になってしまったという部分です。

恋というのは素晴らしいですね。相手のために死ぬ事もいとわないと言う気持ちにさせます。こんな部分が、セカチューが多くの人を引き付けた一つの理由だと思います。

ところで、今度西伊豆に行きますが、父親が宿泊する場所での食事で、動物性のものをあまり食べたくないと言っています。食事の良い宿などご存知の方はいらっしゃいますか?
...2005/08/22(Mon) 23:13 ID:5SQ6Kyj.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:hiro
不二子さま、にわかマニアさま
「朔太郎と亜紀」より先に「サクとアキ」ありきというのは、私も同意見です。
白亜紀→亜紀よりは、亜紀→白亜紀(理由付けとしての)の方が自然です。
「サクとアキ」の組み合わせについてはこのスレの[2]に私見を書いています(八代亜紀の方ではありませんよ(^_^;))。

騰コさま
西伊豆への親子旅ですか。いいですね。
是非是非、楽しんできてください。
...2005/08/23(Tue) 01:30 ID:z1yoGFFA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:騰コ
hiro さま、ありがとうございます。
普段は内陸(海が無い)所に暮らしているので特に港などがあるところにはあこがれ?のようなものを感じます。

おととい江ノ島経由で三浦半島を巡ってきましたが、たんに海水浴場だけでない港がある場所はいいですね。三浦半島の漁港を見て、松崎の港を思い出してしまいました。
...2005/08/23(Tue) 23:27 ID:9IgGuJsQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 相手と同化したいという願望について,不二子さんが14番の後半で述べておられます。

 70年代に放映された「ただいま恋愛中」という番組で,司会の笑福亭仁鶴から「どれくらい好きか」と聞かれて「食べてしまいたいくらい」と答えていたカップルが結構いました。まあ,これは「もののたとえ」であって,実際に実行したら「猟奇事件」になってしまう訳ですが・・・
 もっとも,呪術的な意味で,「同化」のために遺灰等を口にするという葬送儀礼も存在するようです。

 さて,同化願望を亜紀の側から表現したのが「ソラノウタ」の結びに登場する「おまえの脚はあの子の脚だ」という一節です。これは,「助けてください」のシーンの後,担ぎ込まれた病室での会話に登場する「ここからいなくなっても,いつも一緒にいる」という原作160頁のセリフの映像的表現でしょう。
 また,映画版の届けられなかった最後のテープも,このセリフを下敷きにした上で聞くと,単なる一方的な別れの宣言とは別の意味に解釈することもできます(もっとも,あの時点でサクがこれを聞いたとして,そのメッセージを受け止められたかどうかは別の問題ですが)。

 ところで,ここでは,亜紀は「自分がどこへ行くかわかっているから」,「また私を見つけてね」とも言っているのですね。これは,一見すると,いつも一緒にいるはずの「私」とは別の「私」が存在することを前提に,それを探し出せという論理的には矛盾した内容になっています。恐らく,ここの真意は,サクにとって亜紀と同じくらいの位置づけを占める人が登場した際には,その人と「再婚」していいよと予め許可したものと考えられます。
 これを額面どおりに受け取って,「ありもしない現実に期待して」,似た人を見かけては瓶を眺め,実際には亜紀がいないことを自らに言い聞かせているのがドラマの今サクですが,そのドラマは,「何かを失うことは何かを得ること」をキーワードとして,主題歌の中で「なくす痛みを知った貴方は他の愛をつかめる」と言わせています。
 律子にしても,小林にしても,そうした文脈の中で登場しているのでしょう(映画における律子の描き方には説明不足の感もありますが,意味合いとしては,そうでしょう)。
...2005/08/26(Fri) 04:14 ID:nCIniha6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:不二子
この前書かせて頂いた内容を、後で考えていたら、「これって、何かに似てるよね・・・」と思いながら、暫く思い出せないのが私のスゴイところなのですが、「そうだ!『ソラノウタ』まんまじゃん。」と後になって、私も気付きました。(笑)
「サク」という一方向からばかり考えていたので、『ソラノウタ』のことを見事に忘れていました。「そういうことか・・。」と膝を打った次第です。

↑で、にわかマニア様が仰っていることは、律子や小林明希の存在について考えるとともに、今の私へ大きなヒントを与えて下さったものと読み取りました。ありがとうございます。


それからこれは上の話には関係ないことなのですが、過去ログで探し物をしていたら、偶然に騰徳様がお名前を変更された時の書き込みに出会い、「たか → 騰徳(たかのり)に変えます。」と書かれてありました。
「エーーーーーーーーーーーッ!!」
私は今まで、騰徳様のことは「とうとく」様だとばかり思っていたので、びっくりしました。
というのも、この前スレで、哲学・宗教学や仏教に大変精通しておられると思って、たとえば仁徳とか安徳とか(ちがうか・・)のように、「騰徳=とうとく」様とお読みするのだと思い込んでいたのです〜。ごめんなさい〜!

なんだか、「本当の貴方を知らない」実例になってしまいました。
本当に失礼しました、もう間違えませんっ。
「騰徳=たかのり」様。
...2005/08/26(Fri) 12:28 ID:03RtckyA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:8月の蛍
お久しぶりです。時折訪れては、皆様の意見を読ませて頂くのを楽しみにしておりました。
このスレッドもついにパート2に突入し、うれしく思っております。

>朔五郎さんの「散骨の意味」
についてヒントになればと思い書かせていただきます。なぜサクは肌身離さず持っていたアキの遺灰を散骨したのでしょうか?
実はこれは作者が託した問いのだと思っています。物語の中でアボリジニの世界観、アキの死後観や最期の言葉、またおじいさんとの会話でサクにヒントを与えていますが、十数年後サクは鮮明にアキを思い出すということでやっと理解する訳です。
しかしながら現在の私達には理解しづらいことです。なぜなら私達は遺骨は故人の拠り所として崇め1区画が何百万もするお墓を建立しているのですから。でも時代をさかのぼり中世までは遺体は野ざらしに近い状態でした。京都の化野念仏寺なんかも有名ですね。この頃はお墓という発想自体もなく実際貴人ですらどこに埋葬されているのか不明なことが多いのです。「遺骨は故人の拠り所」と思うようになったのは江戸時代の檀家制度によるところが大きい訳ですが本筋から外れてしまうのでこのくらいにしておきます。
すなわち遺灰は必ずしも故人の拠り所ではないということです。サクは十数年間遺灰をアキの一部と思い肌身離さず持ち続けましたがそこにアキを見つけることは出来ませんでした。サクがアキを見つけたのは「鮮明に思い出した」このことで気づく訳です。
そのことが理解で来たから遺灰を散骨する。つまり死を受け入れ送ることが出来たのだと思います。
私自身は散骨場所や新しい彼女の存在はあまり意味がなく理解できたのが中学校の校庭であり、彼女が近くにいたのだと思っています。
また、パート1の前半に関連したレスもあるので参考にしていただけたらと思います。
...2005/08/28(Sun) 02:15 ID:9rfd3h46    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
8月の蛍様
丁寧なコメント、ありがとうございました。原作については読むたびに新しい発見があり、楽しく思っております。
皆様のご意見を頭に入れた上で、また読んでみようと思っております。
ちなみに原作で、アキの死から3ヶ月くらいで夢島に渡り、散骨しようと思ったがやめた、という場面は、ドラマで言えばおじいちゃんの遺灰を撒く場所をあちこち探し回ったシーンに対応するのではないかと思います。
「景色のいいところに撒いて」という生前の希望に添うような場所を探していたという雰囲気で、ドラマで17年後の朔が亜紀と「別れる」場所を探し歩いたのとは少し違うような気がします
...2005/08/28(Sun) 02:48 ID:R6NrMCR.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
(8月28日投稿)
 原作が多用する「反復の構図」の適用範囲を「散骨」にまで拡げ,祖父を早々に他界させたのがドラマです。

 原作では,祖父はサクに散骨を頼むものの,実際に他界するのは亜紀の死後からサクの帰郷までの間のことという設定になっています。このため,「散骨場所探し」も祖父とサクの「想定問答」の上でのやりとりになっていますし,実際にサクが祖父(と恋人)を「送った」かさえ明示的には描かれていません。
 その一方で,亜紀の散骨も,その場面に「新恋人」は登場しているものの,「散骨」そのものはサクの単独行為であり,その過程で「新恋人」が何らかの重要な役割を果たしたという描かれ方ではありません(新しい恋人の登場そのものに意味があるという突っ込みは,この際,ひとまず脇に置いておくとして)。

 亜紀の存命中に祖父を他界させたドラマでは,「想定問答」の中ではなく,「実際に」散骨場所を探し回ります。しかし,結局のところ,一人で撒くことができず,亜紀に背中を押してもらうことになります。
 この時の「一人ではできない」というナレーションが亜紀の散骨のことを予言し,実際にも,事故に遭った小林との病室での会話で散骨に踏み切ります。それも,事故の際に瓶を落として割ったため,改めて廣瀬宅を訪ねて遺灰を分けてもらうことで,「亜紀と向きえるようになった」ことを印象付けるという手のこみようです。
 亜紀を撒く場所を探すシーンは,第2話と最終回に登場しますが,前者が「忘れなければいけないと思った」と苦悩するサクを象徴するのに対し,後者は既にケジメはついており,いわば「ここだ」という結論を示す上での映像上の演出になっています。

 サクが亜紀を持ち続けた意味付けは,最終回の担任との会話で提示されていますが,その亜紀を「無理して」撒こうとしているサクを表現しているのが「忘れなければ」とか「別れる場所を探した」というナレーションです。サクの帰郷も,そのためのものという位置づけになっています。
 しかし,それだけでは結局は撒ききれず,自ら見つけたか誰かの助力があったかはともかく,「亜紀を見つけた」から撒けたという点では,ドラマも原作を踏襲したつくりになっています。その上で,帰郷の動機付けなどが無理なく説明できるような描き方をしていると言った方がいいかもしれません。

 ところで,「亜紀はサクの中で生きている」ということを意識するまでの経過は小林のセリフ等を通じて描かれていますが,祖父はどうだったでしょうか。祖父の散骨は単なる「別れの儀式」や「遺言の実行」に過ぎなかったのでしょうか。
 注目したいのは,画面が松本家のシーンに切り替わった時に登場する仏壇なのです。仏間という特定の空間であるがゆえになかなか気付かないのですが,そこで祖父と会話し,サク名義の通帳を受け取ったりもしているのですね。つまり,祖父もまた「サクの中で生きている」ことが表現されている訳です(散骨のタイミングとの前後があるにせよ)。
 散骨を際立たせるために「反復の構図」として祖父を早々に他界させたドラマですが,何気ない仏壇のシーンにも「反復の構図」が潜んでいたのですね。


(9月4日追記)
 学校を舞台としているため,原作,映画,ドラマともに授業の場面が登場しますが,古典の授業で使われる教材は,原作が竹取物語,映画が奥の細道,ドラマが源氏物語と,微妙に異なります。飄々と旅にあった芭蕉の「奥の細道」を取り上げた映画はヒロイン像を反映していると言うこともできますし,手の届かない所に行ってしまった人への思慕をテーマとする「竹取」や「源氏」を取り上げた原作やドラマも,物語にふさわしい選択という感じがします。

(8月30日追記)
 今頃になってという感じではありますが,季節や天気の違いこそあれ,原作も映画やドラマも,サクが亜紀を異性として意識するきっかけとして弔辞の場面を取り上げています。その際,誰も持ってきていなかった傘を差し掛けたことで2人の仲が進展するというのがドラマのオリジナルですが,その傘は母親が持たせたものでした。
 とすると,初回冒頭の母がサクに傘を持たせるシーンにも,「一人では何もできない」という意味が込められているとも解釈できそうですね。
(9月10日追記)
 なお,これに関連して,別サイトで,サクが進み出なければ誰も傘を差しかけてやらなかったのかと,この場面を映画だけでなくドラマの亜紀も孤高の存在であったことの傍証として取り上げている方もいらっしゃいます。しかし,もともと雨が予想されていたのならともかく,「河岸の人」でなければ想定だにできなかった急な雨ですから,この場面だけからは即断できないでしょう。
 それに,第2話で「秘密のお気に入りスポット」である「あじさいの丘」にサクを連れて行った際,亜紀が「独りになりたい時によく来る」と言っていることの反対解釈として,「いつもは独りではない」という理解も成り立つのではないでしょうか。
...2005/09/10(Sat) 21:27 ID:USWawJrQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:しお
>(9月10日追記)

@@ネコ氏のブログのことですね。
確かに、朔と(倉庫からたくさん出してきた)ボウズ以外は傘を持ってなかったようでしたね。(それどころか、皆さん手ぶらで、カバンなども持っていないようです。亜紀も手ぶらですが、カバンはどこにおいていたのでしょうか。)
 みな傘を持っていなかったということは、天気予報で無視されるような、県のはずれだったのでしょうか。原作の宇和島地方は天気予報でずばり前の日に流れますが。それとも、天気予報が外れたのでしょうか。

 あじさいの丘に
>「独りになりたい時によく来る」と言っていることの反対解釈として,「いつもは独りではない」という理解も成り立つのではないでしょうか。

についてですが、いつもは、うるさい智世が近くにいたと思います。お弁当も2人で食べていることが多いですし。
 智世の周りには介ちゃんがいますし、朔やボウズもいますから、かなり亜紀の周りは騒々しかったのではないでしょうか。
 こういう環境だから、亜紀は朔のことを前々から身近に感じていたのではないでしょうか。
...2005/09/14(Wed) 04:44 ID:UAnag9i6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>みな傘を持っていなかったということは、天気予報で無視されるような、県のはずれだったのでしょうか。

 県立高校や総合競技場が置かれ,郡の名を冠した総合病院もあることから,宮浦は稲代郡の中では中心に位置すると考えられますが,そもそも稲代郡が県のどのあたりに位置するかは判りません。
 ただ,練馬や中野の一部だけを局地的に集中豪雨が見舞うということがあるように,東京でも23区を一まとめにできない場合もあります。この場合も,何県とか稲代地方(ローカルニュースでは県内を細分化して予報を出すこともありますよね)というくくりとは別に,「山の天気」・「海の天気」といった地元の人の間に言い伝えられた局地的な天候の変化があるということなのでしょう。
 母が「河岸の女の勘」と言ったのも,メディアは伝えないが「古老の言い伝えでは」こういう日は雨が降るという意味であり,それなるがゆえに,他のみんなはまさか雨になるとは思いもよらず,傘を持っていなかったのでしょう。

>皆さん手ぶらですが、カバンはどこにおいていたのでしょうか。

 この日は日曜日だったので,手ぶらの人が多かったのでしょうが,それでもバッグ類を持ち歩いている人もいたでしょう(現に,亜紀も防波堤では持っていましたね)。あくまでも一般論ですが,葬儀や通夜の会場には,弔問客が記帳したり香典を渡したりする場所に荷物置場も用意してあります。

 以下余談
 亜紀が「ひとりになりたい」と言うのは一般的な「独り」だけではなく「絶叫マシーン」から逃れるという個別具体的な意味も込められていたのではないかというのは,なるほどなと思いました。(まさか,スケちゃんも絶叫マシーンから逃げたくて東京に脱出を試みたなんてことはないでしょうが・・・)
...2005/09/14(Wed) 08:34 ID:EtPIoLbQ    

             映像における時間の経過  Name:にわかマニア
(映画から)
 以前,別スレで,重ジイの所にパスポート用の写真を撮りに行き,結婚写真まで撮って病院に帰ってきた場面の「時の流れ」について,次のような書き込みをしました。

 カメラの切り替わりもなしに,階段を登って行ったのと同じ人物が同じ服装で同じ階段から降りて来たら,この一連の場面を連続したものとしてとらえてしまうのが自然です。
 しかし,階段を降りて来た亜紀は,同じ病気の手品仲間の患者が亡くなったと告げているのですね。「倒れて集中治療室に移された」というならまだ判りますが,病院を脱け出す直前,手品の話をし,検査をサボる算段までしていた人が,その日のうちに容態が急変して亡くなるというのは,それこそ「有り得ない」展開ですよね。
 よくよく注意して見ると,亜紀が階段を登って再び降りてくるまでの間,登場人物(廊下を通る人)の動きが不自然に遅くなっているのですね。間にスローモーションを挟むことで,連続した場面の間に実はそれなりの時間が流れているということを表現しているのでしょうか。

(ドラマから)
 ドラマの方でも,時間の流れの解釈が難しいシーンが第2話に登場します。

 3人の立候補者の中からロミオ役が亜紀の裁定で同じ学級委員の安浦に決まった後,亜紀はサクのフォローという意味もあってか,「連れて行って欲しい所がある」と言って,松本写真館を訪ねます。
 なぜ松本写真館なのかということも一つの謎なのですが(もっとも,そうでないと物語の進行の上で困るのですが),それはさておき,写真館を辞去して,純愛談議を交わしながら田んぼ道を亜紀の家に向かうシーンでは,あたりは真っ暗になっています。夏の日が長い時期ですから,かなり長時間,写真館にいたことになります。画面に出てくるシーン以外にも,祖父の話をあれこれ聞いているうちに,ついつい長居してしまったということなのでしょうか。

 もう一つは,これも祖父がらみなのですが,サトさんの墓を暴きに行くシーンです。夜陰に乗じて行なう行為ですから,暗くなるのを待ってから出かけるのが普通です(原作もそうなっています)が,まだ明るいうちに出発しているのですね。実際には,墓地のシーンは原作や映画と同様,真っ暗ですから,どこかで時間をつぶしていたのでしょうか。それとも,かなりの遠隔地に墓地があったということなのでしょうか。
...2005/09/18(Sun) 01:53 ID:4pQ2N8WU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:うてきなぷりぱ
亜紀の自宅前まで二人で帰るシーンは1話の「朔って呼んでもいい」の雨の帰宅シーンとこのシーンだけですよね。祖父の話の後、二人が夕方まで写真館で時間を過ごしたのだろうなとおおよそ視聴者は感じているでしょう。もしこの帰宅が日没前のシーンだと二人の純愛談義の会話の印象はどうだったでしょうか。見る人によってそれぞれ印象は異なるでしょうが、私自身の感想では、田んぼで蛙が鳴いていつつも、夜ということで何かしら厳粛な静寂の中で交わされたあの会話は、とても印象深く感じられたのですが。まわりが明るいと何かしらぼやけてしまうような気がします。 
 墓に向かうシーンの件ですが、まず朔太郎が祖父を自転車に乗せて走るシーンは確かこれだけだったですよね。後に何度か出てくる回想でも後ろに乗るだけのシーンですよね。だから、このシーンは墓に向かっていると言うよりも、3話での終盤の回想シーンをより印象づける意味合いと、墓を暴きに行くという二人の決意のようなものを表情から感じられました。
 それにしても我ながらつまらない解釈で相すみません
...2005/09/18(Sun) 08:55 ID:gOBuYjPQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:どんき
 突然の割り込みで失礼します。以前、ドラマの主題歌「かたち あるもの」の題名は、「かたち」と「あるもの」の間に空白が入れてあるのはなぜだろうか、謎解きが必要かもしれない、という提起がにわかマニアさんの方からありました。この問いはずっと気にかかっていたのですが、またぞろ原作を読み直していたところ気づく部分がありましたのでご報告しようかと思います。以下原作P178の冒頭から引用します。

「見えるもの、形あるものがすべてだと考えると、わしらの人生はじつに味気ないものになるんじゃないかね」と祖父は言った。「わしの好きだった人が、かつて知っていた姿かたちのまま、再びわしの前に現れることはないだろう。だが形を離れて考えれば、わしらはずっと一緒だった。この五十年、片時も一緒でなかったときはなかったよ」

 かなりベタですが……上記の引用の中で「形を離れて考えれば、わしらはずっと一緒だった」とあります。これが答えということではいかがでしょうか。すなわち原作のこの部分を根拠にして「かたち」からあえて離すことで合一を強調したもの、という解です。
...2005/09/21(Wed) 01:43 ID:dxjcSOe2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 どんき様
 お久しぶりです。
 他のスレでも同様の議論がありましたが,やはり,この物語における祖父の位置づけや,物語全体のテーマとの関係で考えると,祖父との会話の中に主題歌の題名を解くカギがあると考えるのが順当なのでしょうね。皆さん,ありがとうございました。

 うてきなぷりぱ様
 やはり,あの議論を交しながら帰るには,映像的に「厳粛さ」が表現される分,あたりがすっかり暮れてからの方がふさわしいのでしょうね。タコ焼き屋ほどではないにせよ,あの写真館も主人公たちの一種の「溜まり場」的な側面も持っていましたから(亜紀にとっては初めての訪問でしたが),すっかり話し込んでしまうということは不自然ではないですね。
 それにしても,最初,「連れて行って欲しいところがある」と言った亜紀は,何の用事で写真館に行こうとしたのでしょうか。フィルムを現像に出すとか,現像の上がったものを引き取ってくるといった用件なら,何もサクと同伴という必然性はないでしょうし,ひょっとして,サクやスケちゃんたちの溜まり場になっている場所に自分も行ってみたいということだったのでしょうか。

 さて,墓に向かうシーンについて,もう少し考えて見ました。
 あの墓は,松本家の墓ではなく,サトさん一家の墓ですから,物語の日常が描かれている場所の近くに限定される必要はありません。そこで,回り道にはなりますが,祖父とサトさんの思い出の場所である百瀬駅での散骨シーンから考えてみることにしました。

 スケちゃんの東京行きのシーンにも登場するように,現在の宮浦付近は海岸線沿いに線路があるという設定になっています。これに対して,百瀬というのは山あいに位置しています。もちろん,物語にもアジサイの丘や稲代病院など,坂道を登っていくシーンは登場しますが,いずれも街の中にある小高いところという設定であり,物語の中で「山間部」が登場するのは百瀬だけなのですね。
 また,百瀬に行くのに,サクと亜紀は休日を利用していますが,それだけまとまった時間が必要な場所とも考えられるのですね。それに,帰り道にへたり込んで泣いて,亜紀に抱擁される「あの名場面」でこそ重要なアイテムとして自転車が登場していますが,百瀬駅を探すシーンでは2人は歩いているのですね。つまり,宮浦駅に自転車を置いて,別の移動手段で百瀬近くまで行き,廃駅を探し歩いたとも考えられるのですね。
 とすると,百瀬と宮浦の間にはそれなりの距離があるとも考えられます。もちろん,結婚したサトさんがどこで暮らしていたかという問題は残りますが,サトさんとの思い出の地やサトさんの眠る場所は,宮浦から離れたところという解釈も成り立つのではないでしょうか。
 もう一つ。墓を暴いた後,一旦は家の前まで戻りますが,一休みすることなく,そのまま亜紀の家を訪ねており,2人がアジサイの丘に着いた時には夜明けを迎えています。もちろん,「祖父の話を受けての純愛談議と夕闇」という厳粛な雰囲気と同様,「2人の距離がぐんと縮まる場面と夜明け」という映像的効果もねらったものでしょうが,これも墓の場所を考える上での傍証になってきます。
 つまり,墓を暴くという行為自体は夜陰に乗じて行なったとしても,夜中に行って帰ってくるという距離ではない。暗くなる前に出かけ,明け方に帰ってくるという程度に離れた場所にあったと考えられるのですが,皆さんは,いかがでしょうか。
...2005/09/25(Sun) 10:13 ID:1Q7HIQV.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:しお
 1話や3話の自転車のシーンより、おそらく朔の家は宮浦の集落よりは南にある(なおかつ自転車通学が許される遠距離)という設定ですね。
 おじいさんとサトさんの墓に2人乗りしていくときは、マルテンと木の橋をバックに南に進んでいますから、朔の家の方向である南の方角にサトさんのお墓があるのでしょう。自転車で行ったということは、バスなどの路線もないところですね。あるいはもうバスの時間が終わるということだったかも。

 サトさんのお墓から骨を取り出したあと、サクはおじいさんを乗せて、自宅周辺を通り越し北方向の宮浦の集落の写真館までおじいさんをのせて帰ったと思います。そしてまた南方向の自宅へ帰り、そこでやっぱり、亜紀に話したくなって、また北方向の宮浦集落の近くの亜紀の家にいきます。
 こう考えてみると、朔はずいぶん行ったりきたりしています。自転車を遠くまで2人のりして、深夜になってずいぶん疲れているのに、さっき走ってきた方向にまた戻って、合えるはずのない亜紀の家に深夜に行こうと思ったということがわかります。
 
...2005/09/26(Mon) 11:00 ID:e10rY766    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:たこ焼兄さん
宮浦の町の位置関係についてのレスを拝見していて、駅の事について疑問が出て来ました。

このドラマに登場する駅は宮浦、宮浦南、稲代の3駅(百瀬も含めると4駅)ですが、稲代駅は病院の最寄駅という設定なので、ここからウルルに向けて旅立つという事で違和感が無いのですが、宮浦と宮浦南の位置関係が微妙に感じます。

宮浦南はご承知の通り第4話で龍之介が東京に旅立つ駅として登場しますが、ここは陸上競技場の最寄駅という設定なのでしょうか?とは言っても自転車や陸上部の脚力で30分掛かるので5〜6km、若しくはそれ以上離れているという事ですよね。或いは龍之介の自宅の最寄という設定??ただ彼は旅立つ前に宮浦高校に一礼して出発しているので、高校が町の中心部から離れていないとすると宮浦駅を使うのでは自然なのでは無いかと・・・以下自分なりに仮説を立ててみたのですが、皆さんのご意見も伺えれば幸いです。

<仮説1>
龍之介は旅立つ前に智世を応援しようかどうか迷いつつ陸上競技場の近くまで来ていた。

<見解>
龍之介は前日松本写真館を訪れた際に朔から集合時刻は聞いているので、その時間に宮浦南に居るという設定は可能ですが、逆に(出発時刻も含めて)その事を知る由も無い朔達が何故迷わずに宮浦南を目指したのか疑問が残ります。ここで行き違いになっては智世との涙のシーンは無くなってしまうのですが・・・

<仮説2>
宮浦駅は東京(空港)方面に行く列車が停車しない。

<見解>
大人朔が17年振りに降り立ったのも、特別編で卒業式に出なかった朔が東京に旅立ったのも宮浦駅なので、これは無いですね。

4話はサイドストーリー的要素が強いので大目に見て・・・という気持ちも有りますが、皆さんはどう思われますか?
...2005/09/27(Tue) 00:27 ID:IsCqGicM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 まず,競技場の最寄駅(A駅)と大木が乗ると予想される駅(学校または自宅の最寄駅:B駅)の関係を考えてみます。

@ケース1 B駅がA駅より東京寄りにある場合
 競技場からB駅に向かったのでは大木に追いつけない可能性がありますから,競技場からA駅に向かい,A駅からB駅には列車で向かうのが合理的です。

Aケース2 A駅がB駅より東京寄りにある場合
 競技場からB駅に向かったのでは間に合わない可能性があるのはケース1と同じですが,A駅からB駅に列車で移動すると,その間にすれ違いになるおそれがあります。
 しかし,B駅発の列車は必ずA駅を通るので,この場合はA駅でB駅からの上り列車を待つのが正解でしょう。もちろん,みんなで手分けして各車両の停車位置に分散して探すということは必要ですが。 

 いずれにしても,まずはA駅に向かうのが合理的です。実際の物語でも,みんなが向かったのはA駅であり,そこで大木を見つけています。つまり,結果的にA駅=B駅となっています。

 さて,大木は旅立つ前に学校に立ち寄っています。では,宮浦南駅は学校の最寄駅でもあったのかと言うと,そこは一筋縄ではいかないというところが,このドラマの奥の深いところなのです。
 大木が去った後,急げばレースに間に合うかもしれないからとサクは亜紀の手を引き,競技場へと促します。この場面で,登場人物の後に映っていた駅名票を見ると,宮浦南の上り方面の次の駅は「県立高」になっているのです(小さく映っていたので見誤りの可能性もあります。大画面でご覧の方に確認して頂ければ幸いです)。とすると,大木は学校を訪ねた後,一度は競技場方向に足を向けたことになります。結果的には,このために宮浦南駅で会えた訳ですが・・・

 〜その後,しおさんのご指摘により,見誤りと判明
  失礼いたしました〜

 このあたり,さりげなく駅名票を映すことで,「学校に立ち寄った後,結局は来ないでベンチで写真を眺めるだけだったけど,競技場方面にも一度は足を向けたんだよ」という無言のメッセージを視聴者に伝えているのですね。さりげない1つのカットにも,これだけの重みが込められているというのが,ものすごいところです。

 ところで,みんなは,宮浦南駅に着いた時に,切符なしでホームに駆け込んでいるのですが,何故でしょうか。
 それは,大木がここから乗ると判断していたためだと考えられます。見に来てくれるという確信があったというのでは,理由としては薄弱です。みんなは大木が出発前に学校に寄るなど想像だにしていませんから,ここが大木の家の最寄駅でもあったと考えた方が自然です。
 そのヒントが原作に登場します。宇和島を舞台とする原作では,大木の家は夢島の対岸とされています。数少ない手がかりから,この位置関係を推理したものが謎解き本の32頁から38頁に地図付きで載っていますが,それによると,大木の家は市の中心部から南西方向にかなり行ったところとされているのです。そのため,大木の家の最寄駅に「南」を冠したとも考えられるのです。

 最後に,宮浦と宮浦南の間に別の駅まであるという設定における問題として,「学校が町の中心から離れていないとしたら,なぜ宮浦駅ではないのか」という点について触れておきます。
 これについては,以前,宮浦=今治説を採った場合にそれぞれの場所をどこに比定するかという議論に関連して書いたものがありますので,再掲します。

 ある都市の代表駅(宮浦南)とその都市の名を関した駅(宮浦)が別に存在するという点に関しては,以下のような例があります。

 (門司:鹿児島本線・福岡県)
 関門トンネルの開通に伴い,トンネルの出口付近にあった大里を門司と改称するとともに,従来の門司を門司港と改称

 (宇部:山陽本線&宇部線・山口県)
 本線上の駅が市街地から大きく西に離れたところにあったため,中心部にある宇部線の駅を宇部,本線上の駅を西宇部と称していたが,後に,宇部駅の名称を本線に譲り,旧宇部駅は宇部新川と改称

 (和歌山:紀勢本線・和歌山県)
 天王寺(大阪)方面に直通する阪和線との接続駅は,和歌山港を擁する市中心部から東に離れた所にあるため東和歌山と称していたが,後に和歌山を称するようになり,従来の和歌山(行き止まりの終着駅)は和歌山市と改称

 このほか,横浜(東海道本線)と桜木町(初代横浜駅・根岸線),鹿児島と西鹿児島(現鹿児島中央)等もあります。

 なお,宮浦南駅と「本家」宮浦駅の関係ですが,例えば,港湾地区=宮浦,文京地区=宮浦南といったようなことが考えられます。この場合,大木が一度学校に寄った上で宮浦南から乗っていることから,宮浦南と隣接駅の駅間距離は短いものと考えられます。もっと言えば,もともと学校は宮浦南駅利用だったところ,通学の便のために宮浦と宮浦南の間に新駅ができたと考えて差し支えないでしょう。
...2005/09/27(Tue) 02:28 ID:pCbWj1wo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:うてきなぷりぱ
このサイトの趣旨とはいささか(かなり?)脱線いたしますが、にわかマニアさんの駅名改称の文章を読ませていただいて、私が学生時代に旧国鉄の駅の入場券を必死に収集していた時のことを思い出してしまったので、失礼を省みず投稿させていただきます。この場合に関しては岩国駅(山口県)も該当すると思います。現岩国駅は(麻里布駅)、現在は地名を残すのみ。
旧岩国駅は現西岩国駅です。錦帯橋の最寄り駅です。
西岩国駅の駅舎は私自身、門司港駅と並んで好きな駅舎です。
...2005/09/27(Tue) 21:46 ID:euM2pGzc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:たこ焼兄さん
にわかマニアさん、いつもながらの明確なご見解に脱帽です。私は亜紀の「大木君に走ってるとこ見せに行こう」の言葉に促され彼らが半ば突発的に行動を起こしたしたとだけ思っていました。

宮浦駅=龍之介の自宅の最寄駅だからこそ皆迷わずにそこを目指し、龍之介自身も学校の最寄駅から即東京に向かわず、少しの間でも(気持ちの上で)智世の近くに居ようという思いも有って、敢えて一駅逆行したのかも知れませんね。その時きっとバイト先の店裏でのボウズの言葉が心に響いていたはずです。そして結果的に間に合いはしたけれど、カッコ付けの性格が災いして列車から下りる事無しに扉が閉まってしまったんですね。ドラマでは唯一龍之介の自宅の場所のみ明かされていませんが、原作での位置関係を踏襲して駅名に反映させているというのは見事な場面設定だと思います。どうも有難うございました。

ところで私は鉄道は余り詳しく無いのですが、私の住む近郊の地域でもこんなかつて駅名変更が有りました。有名な話なのでご存じの方も多いと思いますが・・・

(東急東横線/大井町線・自由が丘駅)
九品仏(くほんぶつ)が最初の駅名でしたが昭和4年二子線(現大井町線)沿線の九品仏浄真寺近くに駅が出来た為同駅に名を譲り、この地にあった自由ヶ丘学園から取って現駅名になったそうです。因みに当初は自由ヶ丘と表記していたようです。
...2005/09/28(Wed) 00:48 ID:zuR.z3Kk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:たこ焼兄さん
>宮浦駅=龍之介の自宅の最寄駅

↑すみません「宮浦南駅」の誤りです。
...2005/09/28(Wed) 00:53 ID:zuR.z3Kk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:しお
>大木が去った後,急げばレースに間に合うかもしれないからとサクは亜紀の手を引き,競技場へと促します。この場面で,登場人物の後に映っていた駅名票を見ると,宮浦南の上り方面の次の駅は「県立高」になっているのです(小さく映っていたので見誤りの可能性もあります。大画面でご覧の方に確認して頂ければ幸いです)。とすると,大木は学校を訪ねた後,一度は競技場方向に足を向けたことになります。結果的には,このために宮浦南駅で会えた訳ですが・・・

 DVDを見てみたんですが、朔が「レース何時から?」と聞いて、亜紀の手を引いて競技場へと走り出すシーンの後ろの駅名看板ですね。
 上りの次の駅は「月之河 TUKINOKAWA 」ですね。(下りは「仙里」)
 宮浦南駅のような山と海に囲まれたところに駅があるくらいですから、商店街のある集落(またはその近く)には駅があると考えるのが普通ですね。
 2話で今朔は「ようこそ宮浦町へ」の看板のある「みやうら駅」に降り立ちますから、ここが商店街のある大きな集落の最寄り駅だと思います。
 すると、やはり、介ちゃんは1度「宮浦南駅」に電車に乗っていったという解釈は正しいのだと思います。
 競技場の場所と宮浦南駅の関係ですが、駅に向かう4人が海をバックに右から左に走っていることから、
・宮浦南駅のすぐ北には川があり、その川沿いの道の上流に向かって自転車で30分ほどの距離に、競技場がある。このため、競技場の最寄り駅は「月之河」ではなく「宮浦南」
 ということではないでしょうか。

 「宮浦」よりは南にある朔の自宅とこれらの駅の位置関係がいまいちわかりませんが。

 
...2005/09/30(Fri) 03:13 ID:ZBGUBDQo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 この物語を代表する名場面の一つに皆さんおなじみの「助けてください」のシーンがありますが,病院を脱け出した亜紀は,空港まで辿り着いたところで力尽きて倒れてしまいます。そして,再び病院に担ぎ込まれるところまでは,原作も映画やドラマも同じです。

 さて,その亜紀が再び担ぎ込まれた病院ですが,原作では空港近くの病院,映画とドラマでは元の病院になっています。
 この違いは,空港までの距離の違いによるものと考えられます。原作では,亜紀たちの住む町から空港のある地方都市まで電車で2時間の距離(67頁)ですから,とりあえず現地の病院に搬送されるのも無理はありません。ドラマでは病院も空港も亜紀たちの住む宮浦町も「稲代」の名を冠していますから,早朝に病院 を脱け出しながら,日が暮れてから空港に着いた点については別の謎解き(本スレのパート1参照)が必要だとしても,距離的にはそんなに離れている訳ではなさそうです。
 いずれにしても,原作でもドラマでも,急を聞いた亜紀とサクの家族は,その日のうちに病院に駆けつけているのですね(原作159頁・ドラマ11話)。これに対して,唯一,家族の姿が見えないのが映画なのです。雨平写真館から空港まで17年後の値段でもタクシーで1000円ちょっと の距離なのにもかかわらずです。

 最初,ウルル行き決行の日(亜紀が倒れた日)と最後のテープを律子に渡した日は同じ日という前提で,こう考えていました。
 7時前に出発する便に乗ろうとしていたということは,飛行機の場合,列車と違って改札は30分くらい前に締め切られますから,空港に着き,荒天による欠航の知らせがあり,亜紀が倒れるという一連のシーンは6時頃のことと考えられます。とすると,7時過ぎには病院に戻っていたとも考えられ,律子の登校前にテープを吹き込むことも無理ではなかったろうと。
 ところが,この解釈だと,2つの決定的な矛盾が生じてしまうのです。
 一つは,病院に担ぎ込まれた後,診察や検査を受ける時間が割り込む余地が全くないこと。もう一つは,家族の姿がそこにないことです。サクの気が動転していて,身元が確認できないまま,家族に連絡を取るのが遅れたという解釈も成り立たない訳ではありませんが,救急車に同乗して(させられて)病院に向かったはずのサクの姿もないのです。「最後に会おうとしなかった」という点を強調して描いたものだとしても,人事不省の状態では拒否権の行使のしようがありません。
 あるいは,台風のため電話回線が不通になり,連絡が取れなかったという解釈もあり得るものの,強引さは否めません。

 そこで,改めて注意してストーリーを見直してみました。最初,倒れた日とテープの日が同じ日と即断したのは,@時間帯が連続したものと見える流れになっていることと,A決行日がどちらかの誕生日だった原作(亜紀)やドラマ(サク)に解釈を誘導され,映画も全てを10月28日のことと思いこんでしまったためでした。
 ところが,よく注意して聞くと,ウルル行き決行を告げる前夜のサクのテープでは,「付き合って初めての誕生日」と切り出しているものの,それが明日だとは一言も言っていないのですね。むしろ,「もうすぐ」17歳とすら言っているのです。ということは,常識的に考えて,今日・明日のことを「もうすぐ」とは言わないでしょうから,これは数日前と考えた方が自然なのではないでしょうか。
 さらに,2人の誕生日から始まって「サクが生まれてから亜紀がいなかったことは1秒だってない」というやりとりにおいても,一言も「今日」というコトバは出てこないのですね。これも,当日だとしては,余りにも淡々とした言い方です。

 このように,ウルル行き決行の日(亜紀が倒れた日)と最後のテープの日の間に時間差があると考えると,律子にテープを託す際に家族の姿がなかったことの矛盾もある程度は解消できるのです。つまり,急を聞いて駆けつけたが,小康状態を得たので,一旦家に帰った間の出来事だと。
 ところが,この解釈だと,逆に,台風が何日も同じ場所にとどまっているはずがないから,律子が豪雨の中を車に跳ねられたことの説明が難しくなってきます。あるいは,律子の事故は 亜紀が倒れた(台風が上陸した)日の翌日で,まだ台風の余波が残っていたということなのでしょうか。

 以前の書き込みで,重ジイのところに写真を撮りに行く場面から同じ病気の患者が亡くなる場面の問題として取り上げたように,映画では,一見連続して見えるシーンでも,その間にそれなりの時間が流れているというケースがあるので,注意が必要のようです。
 皆さんは,どのように考えていらっしゃいますか。
 (既出のテーマでしたら,ごめんなさい)

(10月3日追記)
 大人サクと大木との会話では,亜紀の命日は最後のテープを吹き込んだ10月28日とされていますが,そのテープを律子に託す際,亜紀は手品まで披露しています。人事不省となって病院に担ぎ込まれた人が自分でテープを吹き込み,手品まで披露しながら,その日のうちに亡くなるという描き方なのですが,1日のうちにこうも容態が二転三転するものなのでしょうか。それとも,亜紀=手品というイメージが脳裏に焼きついている律子の心象風景なのでしょうか。
 ますます判らなくなってきました。
 映画ファンにして医療関係者の朔五郎様。助けてください!!!
...2005/10/03(Mon) 08:41 ID:8qYhRZEg    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニア様
私がいつも悩ましく思うのは「白血病」という病気を描く時に(言葉が適切かどうかわかりませんが)どこまで本当のことを書いていいかということなんです。つまり、この病気に何らかの形で関わっている方が読まれたときに、強いショックを受けられるようなことがないかということが気になるのですね。まあ、1970年代というような過去のことなら比較的自由なことが書けるわけですが。
まず、瀕死の状態のはずの亜紀が元気に手品を披露するというのは明らかに律子の心象風景、あるいは心に焼き付いた記憶やイメージだと思います。律子にとって「亜紀ねえちゃん」はこういう人だった、ということだと思うのです。
実は昨年、劇場公開されていた時は、律子が飛び出していった後、閉じて行く扉のガラスの向こうには亜紀の影が映っていない、という映像だったと記憶しております。つまり、本当は亜紀は横たわっており、手品をして見せた姿は幻だったのですね。
それがDVDからは、先日放送されたような映像に変わったと思います。その意図はわかりませんが。
さて、容態の変化についてです。友人の「カワノ君」が死去したシーンにも関係するのですが、白血病の場合「突然死亡する」という可能性は全くないわけではないと思われます。ただ、上に述べた理由により、あまり詳細なことを書くのは控えさせて頂きます。
...2005/10/04(Tue) 00:04 ID:gsR32xGo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 しお様

>上りの次の駅は「月之河 TUKINOKAWA」ですね。(下りは「仙里」)

 辛うじて字の輪郭だけが映っている状態で,解読ミスを犯してしまい,ご迷惑をおかけいたしました。
 ご指摘ありがとうございました。


 朔五郎様
 ドラマだけでなく,映画もDVD化にあたっての映像差し替えがあったのですね。
 全く気付きませんでした。ご指摘ありがとうございました。
...2005/10/04(Tue) 20:10 ID:ZF2pbiPo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:しお
 競技場に向かって、朔と亜紀が自転車で2人のりをして走るシーンで、川沿いに川下に下ってました。
 なので、上流に競技場があるという予想は訂正します。
 (いったいどこにあるのでしょう)
 スタッフは仮想地図を作ったのでしょうか?
 作ってなくて、あてずっぽうにロケしていたら、このなど探し自体が意味を成しませんが・・・・
...2005/10/05(Wed) 03:05 ID:1I7mSVoo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>仮想地図を作ってなくて、あてずっぽうにロケしていたら・・・
>脚本とロケハンがリンクしているかどうか・・・

 宇和島(原作の舞台)から東京に向かう場合,瀬戸内海が進行方向左手にくるということに配慮して,伊豆急の列車を上下逆に撮っている(第2話・第4話)くらいですから,全くの「あてずっぽう」ということはないでしょう。それに,競技場のバックの富士山など「あってはならないもの」が映らないように,スタンドから公園の出口とは逆の奥の野球場の方に向かわせるなど,アングルも工夫しているようです。

 さて,第1話でサクがお寺に向かう場面で,家の前の坂道を下ったところで一瞬,海が映ります。私たちは,実際はここが土肥から松崎に向かうバス停で,松崎は左方向だということを知っていますが,どちらに曲がるかまでは映さず,解釈の余地を残したまま,カメラは田園風景に切り替わり,その後再び海岸から「はまちょう橋」へとたどっていきます。
 このことから,宮浦という町は,かなり複雑な地形をしていることが推測されます。

 また,第2話でサクが17年ぶりに降り立った宮浦駅も海のそばです。第4話で,宮浦南駅に向かう4人は海べりの橋を渡っており,大木を乗せた列車も海岸線を走っていますが,宮浦南駅に入る直前,トンネルを抜けています。
 その第4話で一瞬映る駅名票によると,宮浦南駅の上り方面の隣駅は月之河(しおさん,ありがとうございました)ですが,特別編のサクの上京シーンを見ると,宮浦駅の下り方面の隣駅は田野浦でしたから,両駅の間には,少なくとも2つの駅があることになります。

 とすると,土肥から松崎に向かうバスをイメージすると判りやすいかもしれませんが,点在する海沿いの集落それぞれに駅があり,それぞれの集落は山によって隔てられているというのが「宮浦町」のイメージなのでしょう。もっとも,そうなると,これだけのエリアを持ち,総合病院や総合競技場や県立高校まである宮浦が,なぜ「市」にならないのかという別の問題も生じてくるのですが・・・

 海沿いの駅から競技場に向かう場面で,なぜ川下に向かって走っていたのかという問題も,線路はしばらく海岸沿いに走った後,山あいに入っていって次の集落(ここも海沿い)に向かい,その「山」から岬の先に向かうところに競技場があると考えると,何とか矛盾を解消できそうです。
 ちなみに,実際には宇和島は行き止まりの終着駅で,窪川に向かう予土線とは一つ手前の北宇和島で分かれますが,並走する国道は宇和島駅の先,半島状のところを通り,再び海をかすめた後に南に向かっています。原作の舞台のこんな配置も,あるいはロケハンのヒントになっていたのかもしれません。
...2005/10/06(Thu) 03:34 ID:wMGKjj0A    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:しお
>宇和島(原作の舞台)から東京に向かう場合,瀬戸内海が進行方向左手にくるということに配慮して,伊豆急の列車を上下逆に撮っている(第2話・第4話)くらいですから,全くの「あてずっぽう」ということはないでしょう

 ずっと疑問があるロケ地があります。
 亜紀が入水自殺しようとする海岸は、夏に朝日が昇る方向=北東むきなんですよね。しかも、遠くまで見通せる海岸です。宇和島周辺で東北に長距離見渡せる海岸というのはありえません。隣の県の足摺岬をこえて東側まで行かないといけません。
 このロケ地を選んだのはなぜでしょう?
 どうしても、わかりません。
 
...2005/10/08(Sat) 03:36 ID:qTKzm0zQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>夏に朝日が昇る方向で遠くまで見通せる海岸は宇和島周辺ではありえません。

 いつも出てくるおなじみの港は夕陽の沈む方向ですし,あるいは,ドラマでは,瀬戸内海に北方向に突き出した半島ないし岬を宮浦町として想定していたのかもしれません。
 また,あまり非科学的な弁明に逃げ込みたくはないのですが,ひょっとすると空の色や月の満ち欠けが登場人物の心理状態を象徴するものとして描かれていたのと同様,入水を思いとどまって海からあがってくる場面を「陽はまたのぼる」ととらえた心象風景という側面もあるのかもしれません。また,遠く稲代病院を見通せる場所でもあることとも無関係ではないかもしれません。あくまでも推測ですが・・・
 まあ,二見浦の注連縄の間を陽が昇るのは初日の時期ではないけれどもシンボル的な存在になっているというケースもあることですし・・・

(10月9日追記)
 既出ですが,カルテに記載された市外局番から判断して,ドラマでは同じ愛媛県でも,松山・今治付近を想定していたのかもしれません。
 また,四国の大半が未電化だった1987年の映像の矛盾には目をつぶるとして,2004年の段階でも予讃本線の電化区間は松山以東ということも,松山・今治説に有利と言えるでしょう。

(10月11日追記)
 映画のメイン・ロケ地が高松近郊だったとしても,愛媛県庁をはじめ愛媛県側にもロケ地があり,画面に某新聞「松山支局」の看板まで映っているにもかかわらず,映画の舞台設定はなぜ愛媛ではなく香川にしたのでしょうか。当時の高松空港はプロペラ機しか飛んでいなかったにもかかわらず。
 ひょっとして,原作との違いを意図的に出そうとしたのでしょうか。
...2005/10/11(Tue) 12:28 ID:9hSU2Tz6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニアさま
>なぜ香川?
これは、ロケに協力した地元(香川県)への「恩返し」ではないでしょうか。
地元としては当然、地域おこしのキッカケが欲しい。そのためにロケを誘致している自治体もある位ですから。
事実、長澤さんは香川県の観光PRポスターに登場したり、東京駅での香川県のキャンペーンイベントに出たりと多大な貢献をしています。
庵治に行くと地元のタクシー会社の車のリアウィンドーには「庵治」の文字が入っているのですが、映画の中でも「庵治」の文字はそのままです。これも「お礼」ということなのだと思うのですが、いかがでしょう。
...2005/10/11(Tue) 23:23 ID:oI8I5ZJY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 英訳本が「恋するソクラテス」の原題で出たので,まとまった時間が取れたら,大きな書店の洋書コーナーをまわってみようと思っています。もう既にお読みになった方はいらっしゃいますか。
 前置詞の微妙な使い分け等にも解釈の糸口が隠されているのではないかと期待しているのですが,どちらかと言えば英語は苦手科目だっただけに,読破するまでにはかなりのエネルギーが必要となりそうです。
...2005/10/19(Wed) 12:58 ID:ZrvRwk4.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:どんき
私も手に入ったら読んでみようと思っています。

英語版には日本語原作にない、作者前書きがついているそうですね。
(私の場合、前書きだけ読んで本編読破は永遠の課題になったりする可能性が高い……)
...2005/10/19(Wed) 22:10 ID:Q2UQTJwc    

             「世界の中心」英訳版を求めて  Name:にわかマニア
 金曜日の国際反戦デーの集会の前後,丸善や紀伊国屋に立ち寄ってみたのですが,見つかりませんでした。書店のホームページの在庫検索でも,「店頭在庫あり」の表示は米国内の支店だけで,どうやら,国内の店頭で入手するのは至難の技のようです。
 という訳で,ネット通販で手配しました。届いて読み次第レポートします。
...2005/10/23(Sun) 00:58 ID:xvBczAPc    

             Re:Socrates in Love  Name:どんき
"Socrates in Love" は、私も某ネット通販で注文して、昨日届きました。注文してから5日間です。

先に、作者前書きがついているそうです、と書きましたが、前書きではなく、後書きでした。もちろん即座に読みましたが、私にとっては謎解き的になかなか強いインパクトがありました。

2ページに足らない短い文章なのですが、簡潔に書いてあるだけに核心をズバリと表現してあるような、そんな気がしました。

にわかマニアさん、"Socrates in Love"のスレを立てて下さると嬉しいのですがいかがでしょう?
...2005/10/26(Wed) 15:08 ID:JxjMtsDY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 どんき様
 確かに"Socrates in Love"については,本来的には独立したスレを立ててもいいかなとは思っています。ただ,どんき様も私も入手するのに苦労しているように,未だそれほど広まっているとは思えない状況の中で,今すぐ新たにスレを立ち上げても,限られた人しか書き込みがないままに過去ログの中に埋没してしまう惧れもあり,判断を迷っています。
...2005/10/29(Sat) 08:16 ID:xaoTDHzE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 昨日,私のところにも「Socrates in Love」が届きました。ちょうど,どんきさんの倍の日数がかかった計算になります。
 まだ,拾い読みの斜め読みという段階ですが,「あと書き」では,「愛」と「思索(その対象には亡くなった者も含む)」をキーワードとして,ソクラテスを持ち出した原題の由来や執筆の動機について触れてあります。もちろん,新聞や雑誌のインタビュー記事等で既出の内容かもしれませんが,改めて自著の中でご本人自ら語られているのを読むと,解釈の上で参考になります。

 一点気になったのが,誰もが名場面集の上位に必ず揚げるあの「助けてください」のところです。ここを「Help her」と訳したのはどうだったかなあと・・・
 これだと,日本語の字面に引っ張られたような感じで,運命に抗う者の巨きなものに対する叫びというニュアンスが亜紀個人に対する心情に矮小化されたきらいがするのですね。もちろん,直後のト書きの部分には,「save us both」という表現も出てくるのですが,そこを強調するなら,セリフの部分も「her」を省略するか,「神を信じるか」という問答を脇に置くことになりますが「Oh,God」とでもした方がスッキリするのではないかということを感じました。
...2005/11/01(Tue) 08:39 ID:Hx/mtxCA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:どんき
>ここを「Help her」と訳したのはどうだったかなあと・・・

 いつもながら鋭いですね。
 確かにこの部分は、主語や目的語をバンバン省略できるという日本語の特性をフル活用した形で原作は表現していますよね。それによってある種の奥行きが生み出されています。そしてその奥行きの深さで「人知を超えた巨きなもの」を暗示しているはずだ、というのがにわかマニアさんのご指摘だろうと思います。こういう言語の特性に依存しているような部分がおそらく翻訳の最も難しいところであり、かつまた翻訳者の腕の見せ所なんでしょうね。

 私もこの部分、原作・英語版ともに何度も読み返し、読み比べてみました。で、そのとりあえずの結論としては、1.訳者も相当に苦心したらしく思われる、2.にわかマニアさんのご指摘もうなずけるが、それでも「Help her」が最適なのかもしれないと思われる、というところです。
 まず1.についてですが、にわかマニアさんも述べておられるように、「神を信じるか」という問答がこの作品全体を貫いて存在しているため、訳者は「God」という言葉を使うのにたいへん慎重になっている様子がうかがえます。わたしもまだ最後まで読み通したわけではないのですが、大胆に意訳している部分とあえて直訳にこだわっている部分が混在しているように思えます。この作品は感覚的な美しさの背後に哲学的な難しい内容が多々隠れており、1単語のありようが作者の意図をぶち壊しにしかねないデリケートな翻訳者泣かせの作品です。意訳と直訳の混在はそのあたりの苦しい事情を反映しているのでしょう。私は英語力がないので、この部分で「her」を省略して単に「Help」にしたときに語感がどうなるのかがわかりません。ただ慎重に意訳を避けているように思える訳者が、むしろここでは直訳を捨てて「her」を付け足しているということは、単に「Help」では何か不都合があるのかもしれません。
 つぎに2.なのですが、日本語原作P158ではサクの意識が迷走するさまが表現されています。たとえば最初の「助けてください」は「取り囲んでいる人たちに向かって言っ」ていますが(6行目)、2番目の「助けてください」に続く8〜10行目では、周りの人々の反応に疑問と否定を呈し、3番目の「助けてください」を経過した13行目ではもはやアキからも周りの人々からも意識は離れて思考抑制に陥っていきます。この経過に即して英語訳をみてみると、「Help her,」>>「Please help her.Please.」>>「Please.」となっていて、現実を意識した(=目的語を持つ)「Help her」が、漸次、目的語を持たない(=思考抑制)の「Please」に移行しています。この変化によって通読したときの印象は、少なくとも不自然ではありません。翻訳はサクの意識の変化に主軸をおいているように思えます。 問題は、「巨きなものに対する叫びというニュアンスが亜紀個人に対する心情に矮小化され」ているきらいに関してなのですが、先にも述べましたが、英語の語感上、単に「Help」とすると一般的には「me」が省略されている意味になってしまうのかもしれません。だとすれば、「us」か「her」しか選択肢がなく、この局面で「us」を使ってしまうと利己的なニュアンスが逆に入り込んでしまうのを恐れたのではないでしょうか。つまり訳者としても「巨きなもの」を暗示しなければならないのはわかっていても言語の壁はいかんともし難く、「Help her」で妥協せざるを得なかったのかなぁ、と思っています。

 にわかマニアさんからは様づけで呼んでいただいておりながら、こちらはさんづけでお呼びするのは甚だ失礼なのですが、できればもう少しフランクにいきたいなぁと思ってあえてさんづけにさせてもらっています。ごめんなさい。私のこともさんづけで呼んでいただけると嬉しいです。
...2005/11/03(Thu) 21:16 ID:EgDnLZi.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 実は,「Socrates in Love」を一読した時の第一印象は,直訳が多いなあというものだったのですが,どんきさんのご指摘を読んで,改めて,日常の使い慣れた用語にも頻繁に「神様」が登場する国の言語への翻訳の難しさという事情が見えてきました。何せ,別れ際の挨拶にも「神様」が登場するのが英語ですからね。何気なく外来語をそのまま使って「バイバイ」と口にしている人たちで,「Good Bye」の原義が「May God be with Ye(神が汝と共にあるように)」であることを知っている人がどれくらいいるのでしょうか・・・
 「あの世を信じるか」とか「ここが天国」といったやりとりを正確に訳そうとすると,「原作者の国の一般的な宗教観はこれこれだが,原作者はこのように考えている」という脚注でも付けないことには難しいのでしょうが,論文ならともかく,小説にしょっちゅう脚注を入れる訳にもいかないですしね。そういう意味では,不用意に「神」を意味するコトバは使えないし,内容は恐ろしく哲学的だし,本当に翻訳者泣かせですね。
 例の場面についてですが,述語−目的語というセンテンスが目的語を持たないセンテンスへと移行していくことで変化をつけているということで納得しました。

 ところで,作者自身が付けた「恋するソクラテス」という原題で出版された英訳本の「あと書き」では,「日本では諸般の事情から別のタイトルで刊行された」とあるだけで,その名称が「世界の中心で・・・」であることには言及されていません。1箇所だけ,表紙カバーに「セカチュー」という表現は出てきますが,日本語の題名と略称をそのままローマ字表記しただけで,英訳は付されていません。
 これは,ひょっとすると,「世界の中心で・・・」を英訳すると,英語圏の読者は無差別大量殺人を扱ったエリスンのSFを真っ先に思い浮かべ,そういう本だという先入観を持たれかねないため,あえて触れなかったのかもしれませんね。

 さて,その「世界の中心で・・・」というタイトルですが,このスレでも,映画・ドラマ鑑賞のスレでも,映画のラストの大沢サクのセリフや連ドラ第3話の終盤のナレーションの解釈とともに,「世界の中心とは何(どこ)か」についての議論はかなり重ねられてきました。
 しかし,それに比べると,タイトル後段の「愛を叫ぶ」の意味(「愛の対象の名前」や「愛に陥っている状態」を「叫ぶ」ことはあっても,「愛」自体は「叫ぶ」ものではありませんよね)については,謎解き本の80〜83頁を除いては,あまり議論になっていないようです。謎解き本では,これを絶叫ではなく,亜紀に捧げる弔辞(静かな叫び)であると解釈していますが,この点について,皆さんはいかがですか。
...2005/11/04(Fri) 05:34 ID:YD9aSwkE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 いささか旧聞に属しますが,このスレがパート2に突入した頃,「サク」という名前についての議論がありました。要約すれば,主人公の「頭でっかち」の性格を表現するために哲学者の名前を持ち出したことと,ビスケットの咀嚼音から,原題ともなった「ソクラテス」に語感が似ている「サクタロウ」=略称「サク」が先ず決まり,後追いの理屈付けで,文学者にあやかった命名ということで「朔太郎」にしたのだろうというものでした。

 さて,そうなると,「亜紀」の方はどうだったのだろうかということが気になってきました。
 スレ起こしの問題提起にもあるように,確かに,名前の勘違いというのは重要なモチーフなのですが,謎解き本の62〜63頁にもあるように,「白亜紀」は「白亜・紀」であって「白・亜紀」ではありませんから,「亜紀」の名前が「白亜紀」に由来するというのは説明としては不自然な感じが否めないのですね。名前の勘違いを表現するなら,「秋」と「亜紀」以外にも,いろいろな組み合わせがありえたであろうに,なぜ「亜紀」なのでしょうか。
 どうも,「朔太郎」と同様,むしろ,「アキ」という発音が先に決まり,これに対応する「秋」以外の漢字表記としての「亜紀」に対する後付けの理屈として「白亜紀」が持ち出されたような感じがしてならないのです。以下は,その推理です。

 まず,サクがヒロインを異性として意識するきっかけとして,冬の曇り空の下で弔辞を読むヒロインに陽がさす場面が用意されています。しかし,これは,それと同時に,ヒロインもまた2学期の初めに入院し,暮れに亡くなるという反復の構図の一端でもあります。つまり,ヒロインの命日が年末であるということが先ず決まったのではないでしょうか。

 次に,サクにとっての「世界」=ヒロインのいる世界という定義づけを提示するために,ヒロインが倒れる直前の空港に向かう車中で,「生まれてきたのはヒロインのいる世界だった」とか「生まれてくるのを待っていた」(154〜155頁)という会話が交されます。この会話自体は特定の日に交さなければならないというものではありませんが,その意味合いを強調するとしたら,いずれかの誕生日というのが最もそれに相応しい日ということになります。
 もちろん,これはヒロインの誕生日でなくても,サクの誕生日でもいいのですが,相手がいない時間を過ごすのが「これからずっと」に対応する設定としては,2人の誕生日はそんなに離れていない(1週間)という設定がピッタリとなります。つまり,いずれにしても,ヒロインの誕生日は年末ということが決まってきます。

 その上で,名前の勘違いをどう演出するかです。年末に誕生日を祝いながらの会話ですから,152頁のように「冬なのに○○?」という会話の切り出し方が効果的です。ということで,実際の誕生日である冬以外の季節の名前と同じ発音の名前という設定が最後に決まり,それに合うものとして「アキ」・「秋」・「亜紀」が選ばれたのではないでしょうか。

(11月21日加筆)
 ちなみに,映画もドラマも,「旅立ち」の日に「ヒロインのいる世界に生まれてきた」というやりとりを交す点は原作と共通していますが,「旅立ち」決行日と2人の誕生日,ヒロインの命日の関係は微妙に異なっています。
 原作は,決行日=ヒロインの誕生日であり,これとヒロインの命日との間には若干の時間差があるような描かれ方です。映画は,ヒロインの誕生日=ヒロインの命日という設定ですが,決行日については,当日やその前夜の会話やテープには,誕生日のことを「今日」とか「明日」とは表現しておらず,いろいろな解釈がありそうです。
 これに対して,ドラマでは,「その後の17年」を描く上での都合からか,決行日=サクの誕生日=ヒロインの命日(厳密には翌日未明ですが,意味合いとして)という設定に変更され,ヒロインの誕生日は告白の日へと繰り上げられています。これは,ひょっとすると,原作におけるヒロインが倒れてから亡くなるまでの時間差を1週間と解釈(根拠として,@ヒロインが弔辞を読んだのが2年前のクリスマスということの反復の構図とA年末に葬儀という原作168頁の記述)した上で,原作ではサクの誕生日がクリスマスイブとされていることからヒントを得て,ヒロインの命日=サクの誕生日という設定にしたのかもしれません。その際,逆にヒロインをほぼ「即死」状態にしたのは,その後の17年を描く上で,サクの自責の念を強調させるための設定変更でしょうし,そうなると,ヒロインの誕生日が「宙に浮いた」形となるため,特定の出来事に特定の日付を対応させて意味合いを持たせる上で最もふさわしい日として,告白の日=ヒロインの誕生日としたのではないでしょうか。

 また,名前の勘違いのやりとりは,ここまで気付かないというのはいかにも不自然なためか,映画では夢島の場面に繰り上げられ,ドラマではカットされています(もっとも,ヒロインの名前の由来は,別の場面でサクの口から語られる形で転用されています)。
...2005/11/21(Mon) 08:32 ID:PLXvulxU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:トリケラトプス
アキ→秋→亜紀というふうに名前が決まったとして
その説明づけがどうして恐竜なんだろう?
そりゃ一時期栄えたかもしれないけど
結局は滅んでしまったのだから・・・
作者のメッセージとしてならともかく
親が子に名づける理屈としては
ちょっと不吉なような・・
まあ結局のところヒロインの生涯は
そのようなものになった訳だけど・・・
こうしてみると
新恋人の名前が明るい希望ってのも
何だか意味深な感じがする
...2005/11/24(Thu) 08:24 ID:FjstThm.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 別スレでも何度か出された(今も現に出ている)論題に,174頁から183頁にかけて展開されるサクと祖父とのやりとりにおける「最後の時,会おうとしなかった」の解釈についての問題があります。それについての解釈は,私見も含めていろいろな議論が当該スレで展開されていますので,それをご覧頂くとして,改めて読み返してみて,エピソードの並べ方も解釈を複雑にさせている要因の一つなのではないかということが妙に気になってきました。
 もちろん,散骨行の光景と2人の交際の回想が交互に展開されるという構造がこの物語の特徴なのですが,それにしても,空港で倒れてから葬儀までの場面の展開が気になるのです。

 おなじみの空港ロビーでの「助けてください」の後,場面は亜紀が担ぎ込まれた病院へと切り替わります。そこで2人は「ここが天国」とか「また見つけてね」といったやりとりを交します(160頁)が,そのまま臨終のシーンにはストレートには移らず,「あの夏の日を覚えてる?」というセリフをきっかけに,夢島からの帰路のアクシデント(船の故障)というエピソードが7頁にわたって挿入され,168頁の葬儀のシーンへと進みます。
 全体を通した解釈として,夢島の位置付けや帰路のアクシデントの意味については議論され尽くした感がありますが,では,なぜ,このエピソードが夢島本編と亜紀の入院の間という時系列上の本来の場所ではなく,臨終と葬儀の間に挿入されたのでしょうか。
 単に,たいせつな人を喪うということとの対比において,「あそこにはすべてがあった」という一文を持ち出すためだけにここに置いたのでしょうか。それとも,もっと何らかの深い意味があってのことなのでしょうか。

(11月30日追記)
 謎解き本の72〜74頁では,「あの夏の日を覚えてる?」から夢島を回想し,「あそこにはずべてがあった」と結んでいる部分について,「世界の中心」の解釈と散骨場所の選定における「読者へのフェイント」と解説しています。それと同時に,別スレのスレ起こしで†Infinity Heaven† さんが「あの夏の日」以下,亜紀の声が聞き取れなくなっていく描き方から,これを臨終直前のことと受け取られたように,亜紀の「死亡推定時刻」を判断する上でのフェイントにもなっています。
 亜紀が倒れたのは,亜紀の誕生日(車中でのお祝い)ですから,12月17日のことです(152頁と154頁)。しかし,その一方で,168頁を見ると,葬儀は12月末と明記してあります。
 もし,亜紀が17日の夜半から翌日未明にかけて亡くなったとした場合,20日前後(当日か翌日が通夜で,その翌日が本葬というのが一般的)に行なわれたであろう葬儀を月末とか年末と表現するには無理があるし,葬儀が年末であったとすると,なぜ1週間前後も間が開くのかという問題が出てきます。空港で倒れたこととの関係で,「不審死」として解剖に回されたということも考えられなくはありませんが,その場合には「被疑者=サク」となりますから,寺での葬儀の後,斎場(骨あげ)まで同行したことや,亜紀の両親と一緒にオーストラリアに散骨に行ったことと矛盾します。
 とすると,「死亡推定時刻」の方を数日繰り下げた方が,ここの矛盾を解消できるほか,理由付けの解釈はともかくとして,最後に会えなかったこととの整合性も解決することができます。

 さて,亜紀が空港で倒れてから臨終までの「時間差」については明記されていないため,解釈で埋めていくしかありませんが,そこで注目したいのが,亜紀の担任が亡くなったのがクリスマスであること(22頁)と,2人の誕生日が1週間違いであること(154頁)なのです。反復の構図にこだわった構成から考えると,亜紀の葬儀もまた年末であったことと無関係とは考えられません。そして,サクの誕生日に「亜紀のいる世界に生まれてきた」こと以外の意味が込められているとしたら,このこととも無関係ではないでしょう。
 とすると,亜紀の命日はサクの誕生日かその前後という解釈も成り立ちそうですし,その場合,単に自分の誕生日が相手の命日というだけでなく,ほぼ即死状態だったことにすることで,「その後のサク」の姿を「止めを刺した(最終回の父のセリフ)」という思いを引きずって生きているものとして描いたのが森下脚本ということになるのではないでしょうか。

(12月4日追記)
 サクの誕生日が12月24日というのは,3日後か10年後かの違いはあるものの,「復活」を意識したものなのでしょうか。もっとも,「心中」と「贖罪」とでは全く意味が異なるのですが・・・ 
...2005/12/04(Sun) 06:38 ID:YD9aSwkE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:どんき
>単に,たいせつな人を喪うということとの対比において,「あそこにはすべてがあった」という一文を持ち出すためだけにここに置いたのでしょうか。それとも,もっと何らかの深い意味があってのことなのでしょうか。

 これは超難問ですね。わたしももう長いことこの問題を考えていますが、いまだ答えが出る気配すらありません。どなたかサクっと解釈してくれませんか。
 
 誕生日および命日問題は、わたしもちょうど「復活」ということを考えていたところですので、少し長くなりますが書いてみたいと思います。

 12月17日
 ・アキの誕生日

 12月22日前後
 ・アキ死亡日(推定)

 12月24日
 ・サクの誕生日
 ・リクエスト葉書が読まれる
 
 12月25日
 ・アキのクラス担任だった女の先生の死亡日(葬儀日)
 ・アキの葬儀日

 上記のうち、まず問題になるのは22日をアキの死亡日と推定したことかと思います。もちろん原作中にアキの死亡日については言及がありませんので、すこし説明いたします。
 まず、季節の描かれ方ですが、サクとアキの仲が発展する季節は春から夏であり、秋へ入ると病気と死のエピソードの季節になります。この季節の変化は、第2章第2節の冒頭で「夏に向かって、日の長くなる季節だった」と日照時間によって明示されています。つまり12月の下旬に誕生日と命日が集中するのは、まさにこのころが冬至、すなわち昼が最も短く夜が最も長くなるころだからなのではないでしょうか。
 一方、P142,3の「ぼくの誕生日?」「わたしの誕生日?」の対句で明らかにされているとおり、この物語ではサクが生を、アキが死を象徴する人物として設定されています。すなわちアキという名前はまさに日照時間が短くなっていく季節の秋を意味しており、(恐竜のように)滅亡を象徴しています。
 こうしたことを前提にしてアキは冬至の日、すなわち22日ごろに他界したのであろうと推定したわけです。

 これに対して24日は冬至を過ぎて日照時間が長くなり始めるという日です。サクの名前、朔太郎の朔は新月を意味しますから、日照も月の満ち欠けもここが出発点であるわけです。そしてサクが14歳になるこの日は、リクエスト葉書が読まれてアキの運命が規定される日になります。
 また、25日という日はキリストの誕生日とされる日ですが、物語ではサクが15歳、および17歳になっている一日目です。15歳のときにはアキへの恋心に目覚める画期的な転換があり、17歳のときにはアキはすでに死霊となって霰を降らせサクの新たな人生の始まりが暗示されます。つまり24,5日は新たな段階へ入る日、復活と再生の日として設定されているように思えます。

 以上、牽強付会の説ですので、ご参考までに。
...2005/12/04(Sun) 23:59 ID:UsxPu2n6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 どんきさん
 「牽強付会」とは,またご謙遜を。
 しかし,こうしてカレンダー形式に整理して見ると,なるほどという感じなのですね。
 冬至や日食を太陽神の死と再生と見立てた神話が各地に伝承されている(ドラマの亜紀は,これを採録して絵本にまとめたかもしれません)ことからも,冬至命日説はかなり有力な仮説だと思います。そういえば,過去ログのどこかに,2人の誕生日や命日を24節季や太陽・月の運行との関係で分析したものがありましたね。
 改めて,このカレンダーをながめてみると,クリスマス前後には,担任の葬儀,サクの誕生日,亜紀の命日または葬儀と,いろいろなものが集中しているのですね。冬至をはさんで2人の誕生日を配置したというのも絶妙と言えるかもしれませんね。

 ところで,原作では,リクエスト葉書はクリスマス・サプライズという位置づけだったのですね。クリスマスなら,自分で自分に誕生祝を贈ったということにはなりませんからね。映画では,誕生日からもクリスマスからも離れた時期だったため,「景品獲得競争」ということにされていましたが,別の事情から亜紀の誕生日を告白の日に繰り上げることで,あの葉書(ボウズに頼まれての代筆ではありましたが)を誕生祝と結びつけたドラマの設定も絶妙でしたね。
...2005/12/05(Mon) 12:25 ID:cNhDRx/k    

             与えられた未来?  Name:朔五郎
久しぶりに疑問を提起させていただきます。既出だったらお許しください。
最終回、路上で割れた瓶のかけらを拾う場面で、

「与えられた未来と奪われた過去の狭間で・・・」

というセリフがあるのですが、制作者は、なぜ「与えられた未来」という表現を用いたのでしょうか。
これは、朔がなぜ医師になったのか?ということにも関係してきますが、17年前、空港で亜紀が倒れたとき、普通の高校生に過ぎなかった朔は、人間の力が及ばぬ「巨大な存在」に助けを乞うことしかできませんでした。
しかし、2004年の朔は(臨床経験に乏しいとはいえ)医学の専門的知識と医師免許という強力な武器を持ちながら「戦闘意欲」というものが全く感じられません。緊急オペに参加することは出来ないにせよ、専門書をひっくり返したり、自分の職場のER担当の医師にいろいろ訊いたり、絶対に助けてやると叫んだり、何か行動してもよさそうなものだと思うのですが・・・

医師になった理由の中には、「巨大な存在」に対する反発とかリベンジというような意味合いは「全く無かった」ということなのでしょうか。

さらに、明希が助かった後でも「自ら掴んだ」でも「自ら選んだ」でもなく「与えられた未来」と受動的な言い方をしているわけです。これはもう、人間というちっぽけな存在は、いくら努力しようが進歩しようが所詮は無力なのだ、という諦観を表現するための演出上の手法なのでしょうか?

もしそうだとすれば、《なんで医者になんかなったんだい、おまえさん。ただ亜紀の命を奪った白血病細胞をいつも見ていたかっただけなのかい?》という疑問に行き当たってしまうのですが。
...2005/12/10(Sat) 18:46 ID:0RS/aYTU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 朔五郎さんとは,伊予大洲編で,「決意と失意の連続した夜明け前」の「刀折れ、矢尽きた数多くの尊い敗北」の繰り返しの上に築かれた現代医学(正岡徹博士)というモチーフとの関連で,サクが何故,臨床ではなく病理に進んだのかについて議論したことを思い出しました。
 医師を志した動機は,亜紀に結局は何もしてやれなかったというものでしたから,その限りでは,「巨大な存在に対するリベンジ」という意味合いは「全くなかった」という訳ではなかったでしょう。しかし,進路志望を聞いた担任が「人を助ける仕事であると同時に,看取る場でもある」とも言っているように,亜紀を亡くしたトラウマを抱えた状態で,臨床の最前線に立つことには「躊躇」なり「恐れ」があったのでしょう。
 最終回の最後の最後で亜紀を送るまでは,昼は職場で顕微鏡の中の癌細胞を見,夜や休日は自宅で遺灰の入った瓶を見ることで,亜紀が死んだことを絶えず確かめていたというのがドラマの大人になったサクの描かれ方でした。とすると,未だ過去を封印して逃げ続けている人間が前向きな「戦闘意欲」を持てるのかということになってくるのでしょう。
 その上で,最終回冒頭のナレーションで「未来」のことを「掴んだ」でも「選んだ」でもなく,「与えられた」という受け身の表現にしたことの意味です。サクが亜紀の死を受け止め,きちんと向き合うのは,割れた瓶を探して雨に濡れて病室に戻ってからの小林との会話で背中を押された後のことでした。
 つまり,同じ最終回でも,冒頭のナレーションの時点というのは,まだ過去ときちんと向き合うことのできない存在であった頃のことだということになります。ワイツゼッカー流に言うならば,過去と向き合わずして現在や未来を切り拓くことはできませんから,したがって,その時点での未来とは「自ら能動的に切り拓くもの」ではなく,どこかから(人知を超えた存在から)「与えられるもの」という意味で,このような表現になったのでしょう。
 もちろん,ラストシーンの後では,自ら未来を切り拓き,掴みとるようになったことでしょうし,ひょっとしたら,続編スレのように,病理から臨床に転身したのかもしれません。

 それにしても,この物語では,「与えられた未来と奪われた過去の狭間」(最終回)の他にも,「未来は静かに暮れていく」(第6話)とか「明日には喪う未来」(第8話)など,「未来」という言葉にはつくづく考えさせられることが多いですね。
...2005/12/10(Sat) 22:46 ID:USWawJrQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニアさん
なるほど、自己の再生の過程で、あのような段階を通過したということですね。
とても参考になりました。ありがとうございました。
...2005/12/10(Sat) 23:20 ID:0RS/aYTU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一介のファン
こちらへの投稿は殆どなかったと思いますが、私の意見を若干書き込むことをお許しください。
きわめてシンプルなのですが、「与えられた未来」とは、2004年の緒方サクの時点から見て未来のことを言っており、「奪われた過去」とは、同時点から過去のことを指していると私は思います。ですから、「掴んだ未来」や「選んだ未来」という表現にはならないのです。更にもっと直接的に言い換えるなら、ここでの「未来」は小林明希との関係、「過去」は廣瀬亜紀とのそれです。そして、「与えられた未来と奪われた過去の狭間」という言葉で今サクが語っているのは、簡潔に言えば、自分は廣瀬亜紀を忘れつつある、忘れようとしてしまっている、ということでしょう。しかしこれは、「世界の中心で、愛をさけぶ」の原作小説がそもそも主題の一つとしていたと考えられるものです。ただこの、「亜紀を忘れる」ということ自体を、ここでサクは恐れているのです。瓶が割れてしまうことによって、「亜紀の忘却」という事態が更に進行していってしまうような不安にさらされたのでしょう。その一方では、今まさに意識を取り戻し、再び生を歩き始めようとしている小林明希がいる。そういう未来が自分の眼前にあるという感覚もあり、その狭間にあってサクは、このシーンで、ある種整理のつかない状態にあるのだと思います。

それから「戦闘意欲」のことですが、確かにこのドラマで表れている緒方サクからは余り感じられませんが、実際には、それはあったのだと思います。(そもそも第1話で、サクが突然倒れてしまうのも過労のためですから)。別の観点から私の考えを述べさせてもらえば、「巨大な存在に対するリベンジ」という要素は、亜紀が亡くなって以降のサクには十分にありましたし、「亜紀の死を忘れないため」といって、サクが亜紀の遺灰を常時持ち歩いた最大の理由も、事実上そこにあり、さらには、小林明希に対してただ一人サクだけが、一樹を産むよう進言したというのも、この彼の心情と密接な関係があったのだと私は考えています。

亜紀の遺灰は、長らくサクにとって、まさに「戦闘」のためのアイテムという意味合いを(ほぼ自動的に)持ってしまっていたのではないかと思います。しかし、今のサクは「生きている者への思いは死者への思いに勝っていく」という状態です。それを嫌悪する思いを抱くたびに、サクは亜紀の遺灰を取り出して見、そして悲しみ、苦しみ、呵責、後悔の念の中に沈んでいく自分がいたのでしょう。でもここでは、ついに瓶は割れてしまった。そして、自分と亜紀とを理解してくれた小林明希、そして一樹との未来が目の前にある。最終回冒頭のサクは、今そういう現状におり、そのことに対する偽りのない言葉が、朔五郎さんが挙げられた台詞になっているのだと私は思います。
...2005/12/11(Sun) 03:34 ID:W30gqzx6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 映画やドラマに対する「思い入れ」は百人百様ですが,「脚本がいい」とか「俳優(の演技)がいい」といった視点とは逆に,「減点法」で評価した場合にドラマに対して一歩引いてしまう人の多くは,その要因として大人サクの「ダメぶり」を取り上げます。
 しかし,よくよく考えてみれば,大人サクが最初からきちんとしていたら物語として成立しないのですね。過去を引きずって(というよりも,過去を封印して逃げ続けて)いる人が,最後に過去ときちんと向き合うことで人間的に成長する(再生する)模様を描いている訳ですから,ラスト以外は生きているのか死んでいるのか判らないような感じの人物として登場するのは,むしろ当然ということになります。
 もっとも,こうした表情は物語の展開の節目・節目で示されるというだけで,24時間365日終始そのままという訳ではありません。映像として提供されるのは定点観測カメラの垂れ流しではなく,物語の進行に伴って必要な部分だけを集めたものですから,いろいろな表情を持つ人物のある特定の部分だけをデフォルメして描いたという側面もあります。

 さて,その大人サクにとって,過去=亜紀=奪われたもの=封印の対象であり,その「対極」(二項対立・トレードオフではないという意味でカッコ書きにしました)に位置するのが小林であり,一樹であるということになります。ただ,この物語の進行中は,まだ小林&一樹は,視聴者にはそのような存在として提示されているものの,大人サク自身が主体的・能動的に「選び取った」という位置付けにはなっていません。それは,一介のファンさんがおっしゃるように,大人サクの中で「過去」についての整理がついていないためであり,そうした「狭間」の状態では,「未来」についても能動的な表現ができないということになります。
 もっとも,大人サクの変化は,最終回の終盤でいきなり核融合的に進んだという訳ではなく,「小さな小林が大きく見えた(第5話)」というように,その萌芽は,かなり前から見ることができます。そして,最終的に「亜紀を送る」ことができたきっかけが小林との病室での会話であったのと同様,封印した「押入れの中の缶のふた」を開けて写真やテープを取り出すことができたのも,「米屋」云々という小林とのやりとりで背中を押されてのことでした。

 これも別スレでも議論になったことがありますが,小林が一児の母であるという設定は,祖父・亜紀と続いた「後ろに乗る人」=「喪くす人」という「反復の構図」から小林を外す必要があったという「構成上の問題」に加えて,「大切な人を喪くした」大人サクを「そのまま」受け止める存在として,人生の辛酸を経験した人であることを必要としたものとも考えられます。
 ところが,その小林がなぜ一児の母であるのかということになると,ここでも大人サクとの関わりが出てきます。これも別スレで議論になったことですが,ただ一人サクだけが産むことを勧めたのは,大切な人を喪ったからこそ,いのちの重さを人一倍感じていたためだと考えられます。
 つまり,亜紀を喪くしたがゆえに持っている「何か」が10年の時を経て小林に伝わり,その6年後に,今度は小林から再びサクに伝えられたということになります。このあたり,サクの「再婚相手」を字こそ違え発音は同じという設定にしたのは,なかなかファーストネームで呼べない(両親も名前を聞いた瞬間,表情が変わりましたね)ということも含めて,絶妙という感じがします。
...2005/12/11(Sun) 09:42 ID:zLiXDAHw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
みなさん、こんにちは。
もうひとつ、疑問を提出してみます。2004年、朔は「忘れなければならない」と思って、亜紀の灰を撒こうと故郷に向かいます。そのキッカケのひとつは谷田部からの手紙というのもあったわけですが、宮浦に行ってからも、なかなか撒く場所がみつからず、悩むことになります。
それで疑問なのですが、朔の胸中には「もう一度ウルルに行ってみよう」という選択肢はなかったのでしょうか?1987年、朔はウルルでは亜紀を送ることはできませんでした。その理由が、ウルルという場所に違和感を覚えたのか、亜紀の灰を撒くという行為そのものが耐えられなかったのかは、はっきりとしていないと私は思います。それならば、2004年、宮浦においても散骨する場所が見つからないのなら、迷路に入り込んでしまった、その場所、その時点に戻ったとしても不思議ではないと思うのです。
亜紀はあくまでも「ウルルに撒いて」と望んだのですから。
その上で、再度「ここではない」と思ったのなら、改めて宮浦を訪れればいいと思うのです。
これは「なぜ散骨するのか?故人の願いと、送る者の価値観の、どちらを優先させるのか?」という既出の話題にも関連するとは思いますが。
...2005/12/17(Sat) 03:17 ID:0PCWIsSM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 さすが朔五郎さん。痛いところを鋭く突いてこられますね。

 まず,本来なら,大前提として「故人の願いと、送る者の価値観の、どちらを優先させるのか?」という問題から整理すべきなのでしょうが,@最後の願いも果たせないまま病気に斃れた恋人を,A歳月を経た後に「再婚相手」を伴って郷里を訪れ,B思い出の場所で送るという原作の骨格との折り合いの問題かもしれません。一応の説明として,謎解き本では,心神耗弱状態での意思表示は無効という立場を採っているようですが,サクがその実現のために奔走し,結果的に亜紀の寿命を縮めてしまった「病室から抜け出す」という「願い」も「心神耗弱状態での意思表示」ではないかと突っ込まれると,非常に苦しいところです。

 アボリジニの聖地で撒かなかったことについて,原作では,「ここがどこであろうと,そこはどこでもない」(59頁=謎解き本による「場所の違和感」説の根拠の一つ)と語られると同時に,「ひんやりとした白っぽい粉」が「なんであるのか」,「頭では理解できても,感情がその理解を拒んだ。受け入れると(自分自身が:引用者注)壊れてしまいそうだった」(191頁)とも語られています。
 ドラマの描き方は後者の側面を強調したものと言えます。そこでは,亜紀を亡くしたことを「受け容れられない」状態のサクが,いかにしてそれを「受け容れる」ようになっていくかが主たる問題となります。
 もちろん,「受け容れられる」ようになった時には,亜紀の遺灰は「重要な意味を持つアイテム」から「単なる物質」へと転化しているため,極論すれば,ウルルに撒こうが学校で撒こうが,道端に落として流されようが同じことということになりますが,ケジメとしての「儀式性」を考えると,何らかの形で(自分自身と同化した)亜紀の存在を感じることのできる場所という意味で,学校という「日常生活圏」にある「思い出の場所」が選ばれたのでしょう。

 しかし,最終結論がどこであるにせよ,「明確な否定」ではないか,場所ではない別の動機(受け容れられない状態)による否定であったとしたら,ウルルも選択肢の一つであることは,おっしゃるとおりです。ただ,その場合の問題は,候補地の一つとはいえ,最初からウルルに行くことを選んだかどうかです。
 つまり,「忘れなければいけないと思った」とはいえ,その時点でのサクは頭と感情が乖離した状態にある訳です。亜紀の遺灰は,確かに「亜紀の不在を再確認するためのアイテム」ではありますが,同時に,「ありもしない現実に期待」する「もう一人のサク」がそこにいる訳です。
 ラジオで読まれたハガキを聴いたサクは,「ありもしない現実に期待」して,サテライトスタジオに行き,そこで亜紀の幻影を見ます。逆に言えば,亜紀の幻影に会えそうな場所に向かうのがサクの行動パターンとも言えます。とすると,郷里からのハガキが「どこかへ行く」動機だったとしたら,亜紀の幻影に会えそうな学校やアジサイの丘にまずは向かったとしても不思議ではありません。何しろ,亜紀はウルルには行っていないため,そこで亜紀の幻影に会うことはできないのですから。
...2005/12/17(Sat) 07:02 ID:kolKlces    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニアさん
丁寧なレス、ありがとうございました。
亜紀の幻に会えそうな場所を探した、という朔の心情について、説得力のある説明だと思います。

さて、オンエア終了から一年以上が経過し、DVDもあらかた売れてしまったでしょうから、もう時効だと思い、ここは「清水の舞台から飛び降りる覚悟で」森下脚本に異論を唱えてみましょう。

朔の心情を肌理細かく浮き上がらせていく、という側面から見ると、このドラマは確かに見事な作品であったと思います。
しかし、それに比べて、送られる方の亜紀の扱いについては無神経な描写が散見されるような気がします。
そもそも、亜紀はなぜウルル(聖地)での散骨を望んだのでしょうか?それは、アボリジニにとっての「二度目の埋葬」「魂のための埋葬」に相当すると考えたからでしょう。
アボリジニの死生観に傾倒していた「わけではない」映画版亜紀はともかくとして、原作とドラマでは「二度目の埋葬によって死者は地下の泉に向かい、そこで精霊として永遠の生命を得る」という背景があってこそ、聖地での散骨を望んだのではないでしょうか?
逆に言えば、これが「世界の中心で、愛をさけぶ」という物語のツボ(の一つ)であり、その良し悪しはともかく、これを省いてしまったらもはや「世界の〜」ではないのだと思います。
原作では、ここらへんの亜紀のデリケートな心情というものが見事に表現されています。朔があまり魅力的でない分を補って余りあると思います。
映画ではそこがバッサリ切り捨てられてしまっているので、これは別にします(これは、世界の中心で、愛をさけぶ“風”の物語というべきでしょう)
さて、ドラマではどうでしょうか。いかなる演出上の意図があったにせよ「二度目の埋葬」を望んだ亜紀の遺灰を排水溝に流してしまうことには、私は異和感を感じざるを得ません。これは人間の意志に対する冒涜であると思います。両親が実行したから、もう十分だということなのでしょうか。

もうひとつ「え!?」と思ったのは、亜紀の死後イジイジしている朔をスケがぶん殴る場面です。
「亜紀の一番欲しかったもの持っている」という非常に強いインパクトを持ったセリフで、生への欲求というものを表現しています。
ですが、これは物語の全体の流れからして、明らかに矛盾を抱えていると思います。
(その良し悪しはともかくとして)「世界の中心で、愛をさけぶ」という作品は「肉体的な存在から精神的な存在への遷移」の物語なのです。
ドラマの中でも、亜紀は「何かを失うことは何かを得ること」というプロセスを経て「死を避けられなくなった時、どのような死を・・・」というようにスピリチュアルな方向へのシフトを見せています。
ところが、その流れの中で「亜紀が欲しかったもの」つまり生命の象徴として出てくるのは生物学的な、本能的な事象ばかり。
これは、朔に活を入れるためにスケが用いた「方便」ということでしょうか。その演出の意図は痛いほど伝わってきますけど、原作から考えても、ドラマ自体の流れからみても、やはりちょっとヘンじゃないかと思います。

みなさんの評価を見ますと、森下さんのシナリオは「緻密で繊細」ということでほぼ一致しているようですけど、私はむしろ「非常に大胆・奔放かつ男性的」であるという印象を持っております。
...2005/12/17(Sat) 19:55 ID:x7DlEqpQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 亜紀がアボリジニの世界観に傾倒していたことは,映像的には,交換テープに「アボリジニの本を読み了えた」というメッセージが登場することで表現されています。その本を差し入れたのは,「あの父親」でした。
 人に「頑張る」ことを強要し続けてきた父ですが,自分自身に対しても「いい加減」ではなかったという一つの証明が,ドラマの最終回に登場します。アボリジニの世界観でいう「2回の埋葬」について,現地のガイド(あるいは運転手)から説明を受ける原作や映画に対し,ドラマでは父親の口からこの説明が語られます。頼まれたものを単に娘に「差し入れる」だけでなく,自分自身も読み,考えたことがうかがえます。

 父親まで動員して,これだけアボリジニの世界観を印象づけておきながら,ラストシーンのサクによる散骨との間に「跨ぎ越せない断絶」を感じさせるというのは朔五郎さんのおっしゃるとおりです。
 以前,どこかのスレに,原作とドラマでは,@遺言は両親に対するものであって,Aサクは両親による遺言の実行に帯同したという位置付けになっており,B亜紀の遺言とサクによる現実の散骨との矛盾は,散骨を両親による散骨とサクによる散骨の二段階に分割するという解決が用意されていると書いた記憶があります。しかし,一部は持ち帰ったものの一部は確実に現地で撒いた原作と,現地では撒けなくて全部を持ち帰ったドラマとでは,意味合いが異なってくるのですね。このあたり,ドラマは,葬儀からも逃げたことを含めて,亜紀を亡くしたことを「受け容れられない」状態を強調して描いていることは確かです。

 しかし,そうは言っても,その演出上の意図や設定が個別具体的な映像として表現された時に,ストンと落ちない部分があることも事実です。その最たるものが「瓶を落とした」ことである点は,私も朔五郎さんと同感です。もっと言うならば,あそこで小林を事故に遭わせる必然性にも疑問がない訳ではありません。
 あえて「後付け」の説明を試みるとすれば,「生きている者」に対する思いと「死者への追憶」を対比させるために,あえて「究極の選択」を迫るような場面を用意したのかもしれませんし,17年間持ち歩いたものを「なし崩し的に」撒くのではなく,「ケジメ」を強調する意味で,「リセット」する場面を必要としたのかもしれません。
 でも,森下・堤両氏ほどの構想力をもってするならば,同じことを意図するにしても,より衝撃的でないもっと別の表現方法もあったのではないかという気もしています。このあたり,後に行くほど日程が押してきた上,最後の最後まで何度も書き直しがあったようですから,いろいろ激論が交されたのかもしれません。
 あるいは,これは「邪推」かもしれませんが,全集版の付録の関係者インタビューに,当初の予告では森下さんの名前も明記してあったのに,実際の製品には石丸さんしか登場していないことにも何らかの事情があるのかもしれません。

 また,スケちゃんがサクを殴る場面で朔五郎さんが感じた違和感も含めて,森下脚本には「緻密さ」と「大胆さ」が同居しているように感じました。うまく表現できませんが,全体として計算し尽されている感じがする中にも,時として展開が大胆に飛ぶこともあるように・・・ 
...2005/12/17(Sat) 21:05 ID:kolKlces    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 Frohliche Weihnachten!

 今日は聖夜。
 と言っても,長時間にわたる停電等の豪雪被害で,とても「ホワイト・クリスマス」どころではない皆さんもおいでかもしれませんね。被害に遭われた皆さんには,心からお見舞い申し上げます。

 さて,原作では,サクの誕生日は「クリスマス・イブ」であり(142頁と154頁),亜紀の担任が亡くなったのは「クリスマス」のことでした(22頁)。「日付変更線」が夜半ではなく日没に置かれていた頃の名残からか,両者はしばしば混同されますが,ここでは,原作も英訳本も明確に2つを使い分けています。
 とすると,担任が亡くなった日付は12月25日で確定されることになりますが,同時に,その葬儀は終業式の翌日と明記されています(22頁)。ということは,亡くなったその日が通夜で,翌日が本葬だったとしても,葬儀は12月26日より前に遡ることはできません。それと同時に,その前日である終業式も12月25日より前には遡れないことになります。

 多くの皆さんがそうだったと思いますが,豪雪地帯等で夏休みを削って冬休みを長くとっている地域を除いて,通常,2学期は12月24日までで,25日から冬休みではなかったでしょうか。少なくとも,物語の舞台は1992年以前ですから,土曜休校と引き換えに休みが削られたという線も考えられません。
 私の記憶では,1960年代の島根県が2学期は12月25日までで,1学期も4月1日から始まっていたということがありましたが,それは極めて例外中の例外という感じでした。ひょっとして,愛媛県でも2学期が25日までだった時期があったのでしょうか。愛媛県教委や文部省などのホームページにあたって調べてみたのですが,判りませんでした。
 どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら,お教え願います。
...2005/12/24(Sat) 09:44 ID:4/V1juZ6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:小泉八雲
 島根県松江市立白潟小学校卒業生(1969年)ですが当時2学期は25日までありました。
 元日も登校日で「年の初め」(作詞者の千家尊福は出雲大社の宮司で貴族院議員だった人)を歌わされたものです。
...2005/12/27(Tue) 08:34 ID:Uc6tVvaA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 (1月1日未明投稿)
 PROSIT NEUJAHR 2006!

 皆さん。明けましておめでとうございます。
 昨年は英訳本も出ました。
 今年も,いろいろな角度から作品の魅力に迫っていきましょう。

 (1月1日午前9時追記)
 ただ今,午前9時。
 グリニッジ標準時でも2006年の幕開けです。

 (1月4日追記)
 正月休みの間,朔五郎さんからの問題提起にもありましたが,小説・映画・ドラマともになぜ散骨場所がウルル(あるいは遺言の場所)ではなかったのかについて,改めて考えてみました。
 注)一見すると,映画のみがウルルで散骨したような印象を受けますが,よく注意して見ると,ウルルに向かう途中で車が故障して,そのまま,途中で撒いているのですね。詳しくは別スレで。

 死と再生(あるいは永遠の命),二度の埋葬というアボリジニの世界観(及び,それにハマっていた故人とその遺言)を前提にして考えると,なぜ遺言の地・ウルルで撒かなかったのかということがどうしても引っかかってきます。
 ただ,ここで,もっと気になるのは,病人が事態を受け容れる過程で何らかの「宗教的なもの」にすがることはよくあること(典型的な例が末期洗礼)ですが,なぜ「アボリジニ」だったのかということなのですね。その接点を作り出すため,いくらバブルで海外への修学旅行も「ありえた話」ではあるとはいえ,その行き先をオーストラリアに設定したと言っても過言ではないくらいです。

 つまり,ここまでの議論は,アボリジニの世界観をもとに,「なぜ別の展開が」という問題の建て方をしてきたのですが,これとは別に,「なぜアボリジニなのか」という問題の建て方をした場合は,どうでしょうか。
 死と再生というテーマは,多くの宗教や伝承に共通しています。その中で,なぜ,あえて日本にはあまり馴染みが深いとは言い難いアボリジニを選んだのでしょうか。そう考えた時にクローズアップされてくるのが,アボリジニ特有の「二度の埋葬」という点なのです。
 もしかすると,主人公が恋人を喪くしたことを受け容れる過程で再度の散骨を行なうというモチーフが先にあって,それを「葬儀を2回行なった」と見立てた上で,その表現のために「二度の埋葬」というアボリジニの世界観を借用したのかもしれません。
 もっとも,その場合でも,送る側にとっての遺灰の位置づけはともかく,送られる側から見た場合の遺言との調和をどう図るかという問題は残るのですが・・・

 (1月10日追記)
 アボリジニの死生観のうち,「(病気も含めて)この世のすべての事象には理由がある」という部分はサクと亜紀の会話(原作)あるいはテープでのやりとり(ドラマ)の中に登場しますが,「二度の埋葬」という部分については,原作や映画では登場人物間のやりとりとしてその認識が共有化されている訳ではなく,「残された者」たちは,現地のガイド(原作)や運転手(映画)から聞くという展開になっています。
 そして,確かに「故人の遺言」ではあるものの,「とにかく病室から抜け出したい」とか,「写真の場所に行ってみたい」といったふうに,ウルルと亜紀を結びつける線はそれ程強くはありません。

 ところが,ドラマの場合,「二度の埋葬」というアボリジニの世界観は亜紀の父親の口から語られます。つまり,「残された側」も認識を共有していたという設定が唯一ドラマなのですね。その分,「故人の遺言」と「残された側の違和感」についての議論を引き起こす可能性が一番高いのがドラマということにもなります。
 ドラマでのウルル行きの動機付けを「ここが世界の中心だから」とか,「永遠の生命を得ることができるから」といった理屈づけとは別に,「一番青い空を見たい」と語らせたのは,ひょっとすると,こうした議論に発展することを想定していたのかもしれません。
...2006/01/11(Wed) 00:20 ID:FN1g7nbg    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作・映画・ドラマそれぞれ描き方が微妙に異なるとはいえ,物語のラストを飾る散骨のシーンについては,その位置付けや散骨場所の意味も含めて議論が積み重ねられてきました。いささか議論され尽くした感すらあるのですが,新しい恋人(らしき女性)との関連で,なお気がかりな点があるのです。

 このスレの9番目で,続編スレのメイン・ライターの朔五郎さんは,次のように指摘されています。
1.原作の散骨場所は故郷の学校だが,帰省そのものは散骨が目的ではない。
2.原作では,この世界のすべての事象に亜紀が宿っていることを実感したサクは,亜紀を瓶の中に閉じ込めても無意味であると思い,自然に返した。
3.決別のセレモニーという側面を強調して散骨を描いた映画やドラマに比べて,原作のサクは亜紀について,「忘れよう」とか「決別しよう」としていた訳ではない。

 確かに,「後片付けをしよう」という明確な意思の下に婚約者を伴って散骨した映画と比べて見ると明らかなように,原作では,新しい恋人らしき女性は,その現場(付近)に居合わせてはいますが,意思をもって立ち会った訳ではありません。あくまでも散骨はサクの単独行為であって,彼女を連れてあちこち回っている途中での出来事だったために,結果的にその場所にいたという設定です。
 しかも,サクは亜紀のことを「忘れなければいけないと思った」どころか,原作では「顔を思い浮かべるのに」必要な「時間が少しずつ長くなってきている」という最終回の亜紀の父のセリフのような状況です(194頁)。

 では,どうして,新しい恋人の登場を必要としたのでしょうか。両親に紹介するためか「故郷が見たい」と頼まれたかはともかく,帰省させるための単なる動機付けでしょうか。それなら,亜紀の葬儀から散骨までの間に他界したように描かれている「祖父の訃報」の方が無理がないでしょう。祖父もまた,散骨を望んでいたのですから(それにしても,原作では祖父の散骨の実行についての言及がありませんが,祖父と昔の恋人の遺灰はどうなったのでしょうね)。
 とすると,記憶は薄れ掛けているものの,未だサクにとって固有名詞で呼ばれる女性は亜紀しかいないということとの対比上,恋人のようにも見えるにもかかわらず固有名詞が示されていない女性の存在を必要としたのでしょうか(謎解き本135頁)。「散骨」と「亜紀との決別」を一応は切り離したものとして描いたとしても,主人公の内面の変化を具体的・外形的なものとして示していく上で,「散骨」という具体的な行為のほかに,もう一つ「新しい恋人(もしくは,それになりうる者)」という具体的な存在を必要としたとは考えられないでしょうか。
 原作では(映画やドラマでも謎に包まれている部分がありますが),大人になったサクがその女性とどこでどのようにして知り合ったのか,どういう気持ちで過ごしてきたのかは明示的に描かれておらず,「具体的な固有名詞が与えられていない」というところから推察していくしかありません。
 固有名詞が与えられていない状態というのは,その相手ときちんと向き合えていないことを象徴しているものと考えられます。それは,とりもなおさず,亜紀とも向き合えていないことを意味するのではないでしょうか。「瓶を持ち続けていたこと」と「点在」から「遍在」への自覚のもとに「自然に帰したこと」が純粋にサクの内面の変化だったとしても,「祖父の恋人の骨」の話の時から亜紀も巻き込んで展開されてきた「先妻」と「後妻」の関係についての問いかけが,ここでも形を変えて提示されているとは考えられないでしょうか。原作は散骨で終わっているので,散骨の後その女性とどのように向き合うようになったかは推測するしかないのですが・・・

 もっとも,映画では,「配役:謎の人物A・俳優何某」とするのはいかにも落ち着きが悪いので,「律子」という固有名詞は与えたものの,上記のようなことを表現するために,婚約者でありながら素性を知らないという不思議な設定にしたのでしょう。

 ドラマでは,小林は「たまたまサクと一緒の時に」散骨を思い立つというところから一歩踏み込んで,サクの背中を押す存在として描かれていますが,その場には居合わせていません。何しろ,ケガをして入院中なのですから。
 ひょっとすると,「死者への追憶」と「生きている者に対する思い」の究極の選択を迫る場面の描き方としては,もっと衝撃的ではない別の方法もあったであろうに,あえてあのような事故の場面を用意したのは,散骨そのものはサクに一人でやらせるために,小林を「病院の中に隔離」しておく必要があったのかもしれません。

 それにしても,舞台編には,こうした「新しい恋人」に類する人物を一切登場させなかったことについて,皆さんはどうお考えですか。
...2006/01/21(Sat) 05:21 ID:dMZ.dMCY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:†Infinity Heaven†
舞台編はまだ見てないですが、「新しい恋人」に類する人物が登場しなかったことについて自分の意見を書きます^^

本はいつでも好きなときに繰り返し読めますが、舞台はそういつでも見直すことが出来ません。
なので、サクが「抜け殻になっている」状態を見ている人に簡単に理解してもらうには、
新しい恋人を登場させず、サクがアキの死から抜け切れていない(向き合えていない)と見ている人に思わせるのが一番わかりやすいのではないでしょうか^^

対して原作(本)の場合、何回も簡単に繰り返して読むことが出来るので、
にわかマニアさんの仰るように、「固有名詞を持たない女性を登場させる=その恋人やアキと向き合えていない」とじっくり読んで解釈する方が奥が深い(?)ような気がします。

日本語が分かりにくい箇所があるかもしれませんが、申し訳ありませんm(_ _)m
要するに、
「見た人にパッと印象を与えるのが大事な舞台」と
「じっくり読んでもらい奥の深さを味わってもらう本」
の違い…だと思います^^
...2006/01/22(Sun) 22:48 ID:2s9lVCqE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ぶんじゃく
過去ログを読んでいて思いついたんですけど
朔が卒業式の日に旅立ったのは、尾崎豊が退学した
高校の卒業式の日に初ライブをしたのにダブらせて
いるんではないんだろうか、劇中にも尾崎の曲が
使われていたし、ふとそう思いついた
だけなんですけど。
...2006/01/24(Tue) 01:58 ID:.17hGm06 <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
1.新しい恋人について
「新しい恋人」については原作と、映画・ドラマでは、全く意味が違う存在だと思います。
実は「キネマ旬報」の特集の中で、プロデューサー自身が語っていることなのですが「高校生の恋愛映画にしてしまうと観客の層が限られてしまう。大人の恋愛を加えることでそれが広がる」という興行的見地からの戦略なのですね。
そこで映画では律子、映画のイメージを踏襲したドラマでは明希という、亜紀とは別人格の女性が登場してきます。
つまり「大人の恋愛」という要素は映画化の際に「後付け」されたものであるということを押さえておく必要を感じるわけです。
では原作の「彼女」は一体何者なのか?キーワードは「登り棒」です。ラストシーンから引用します。

グラウンドの隅に目をやると、懸命に登り棒に挑戦している若い女の姿があった。スカートをはいた両脚で棒を挟み、左右の手を交互に操っては、少しづつ身体を上に持ち上げていく。日はすでに暗く、こうして見ているうちにも、彼女の姿はグラウンドの遊具と共に闇の中に紛れてしまいそうだ。いつかここからアキを見ていた。夕暮れの光のなか、校庭の隅の登り棒をよじ登っていく彼女を・・・・・・しかし、それが確かな記憶であるのかどうか、もうわからなかった(引用ここまで)

この中で「若い女」という表現が重要で、それが誰であるか特定できない、ということを意味すると思われます。具体的に言えば、それが「新しい恋人」なのか「アキ」なのか特定できない、ということです。
この小説の中で特徴的なのは、登場人物が現世と異界の境界に近づいた時に、別の人格が顔を見せるということです。生前のアキが、神社の石段や夢島で普段とは明らかに違う大胆な行動に出るというところに、それが表現されています。
「新しい恋人」はサクとの会話から、快活で知的な女性だと思われます。ところが、中学校に来た途端、急にはしゃぎだして、スカートのまま登り棒に夢中になり始める。年齢的には二十代半ばと考えるのが普通でしょうから、客観的に見れば、引用したシーンはかなりエキセントリックな印象がします。
そして、この瞬間にサクは、この世界のすべてのものにアキは宿っている。新しい恋人の中にでさえ、実はアキは存在するのだ、ということを実感したのではないでしょうか。
原作の中で「新しい恋人」に固有名が付けられていないのは、このような理由からだと思います。

2、舞台について
朔五郎は二回観ました。話のスジは、亜紀はヒロインではない普通の少女である、というように「原作回帰」が強く感じられるものでした。
散骨のシーンも、彼女の遺したテープを聴いて、彼女の存在を強く感じ、もはや瓶の中に閉じ込めておく必要は無い、という演出だったと思います。
でありますので「新しい恋人」が出てこなくても特に違和感は感じませんでした。
ただやはり「ウルル(聖地)でなくていいのかい?」という思いは残りましたけど。

ちなみに朔五郎がウルル(聖地)にこだわるのは、そこに埋葬されることにより永遠の生命を得る、という亜紀の最後の願いを重く感じるからです。
亜紀の生前には再三セクハラ(?)を繰り返し、ヒンシュクをかっていた原作のサクだけが、自らの手で亜紀の願いを叶えたというのは、何か感慨深いものを感じます。
...2006/01/25(Wed) 01:12 ID:lWeXj/C2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:欠食児童
 ちょっと前のスレに
「二学期はいつまで」というのがありましたが
こんなことも気になってきました。
 原作の中学校での会話の中に
「給食のカレービーンズみたい」というやりとりが出てきますが
1980〜90年代当時
中学校の完全給食はどの程度普及していたのでしょうか。 
...2006/01/26(Thu) 08:51 ID:yslTgtjQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 ぶんじゃくさん

>朔が卒業式の日に旅立ったのは、尾崎豊が退学した高校の卒業式の日に初ライブをしたのにダブらせているんではないんだろうか

 確かに,これまで出されたものの最大公約数である「いやでも亜紀と向き合わなければならない場面を避ける」という説明は,卒業式に出ない説明にはなりえても,「では,なぜ,その日に旅立ったのか」という答えとしては弱いかもしれませんね。劇中に登場する音楽から判断すると,スタッフの中に「尾崎豊」や「ブルーハーツ」の世代がいて,自らの青春にダブらせながら,彼らの曲をBGMとして挿入したという感じがありますね。
 また,物語の前半で,スケちゃんを「式と名のつくものには出ない珍しい人物」として描いたのは,この結末を用意するための布石だったのかもしれませんね。
...2006/01/26(Thu) 20:26 ID:n0uLkA7M    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 喪失感は前作で描いたから今度はそこからの復活を「その後のサク」を前面に打ち出すことで描いたというのが映画のコンセプトだと聞いていたので,「その後を生きる」ということの中には,当然,人(それが異性であれ)との「出会い」も含まれるだろうし,再婚相手を配置した方が主人公の内面の変化や葛藤を観衆に判りやすく提示しやすいだろうから,原作の最後に登場する「名前のない人物」を膨らませて「律子」が出来上がったのだろうと思っていたのですが,観客層が限られないようにとの興行的配慮が働いていたのですか。もっとも,挙式の日取りも決まり,新居への引越しも済ませたという段階に至ってもなお,相手のことを何も知らないというところに「名前のない人物」の痕跡を留めているとも考えられます。
 ただ,営業サイドが「大人の恋愛」の要素を加味しようとしたとはいっても,大人サクと律子のことを「恋愛」と呼ぶには何となく躊躇を感じてしまうのですね。つまり,新婚生活をスタートさせる寸前の段階に至ってもなお相手のことを何も知らないというのは,相互に人格的に影響を与え合うという正常な恋愛感情というよりは,封印した何かからの現実逃避先として「擬似的」に作られた人間関係という感じが否めないのですね。

 それはともかく,具体的な固有名詞が与えられていないがゆえに,それが誰であるのか特定できず,それゆえに,そこに「アキ」を見出しすらしたというのが原作の展開です。
 朔五郎さんがおっしゃるように,原作では,「登場人物が現世と異界の境界に近づいた時に、別の人格が顔を見せ」ます。このあたり,何か「憑依」ということを思い起こさせるものがあります。それと同時に,登場人物の大半が話者から見た相関関係でしか呼ばれない(「祖父」,「教師」,「アキの両親」など)のに,その結界から現世に主人公たちを引き戻す時に登場する人物は具体的な固有名詞で語られます(夢島からの帰路の漂流から救った漁師)。このあたり,なかなか示唆的な構成をとっていると言えるのではないでしょうか。

 さて,「永遠の生命という最後の願い」と散骨場所の問題ですが,確かに「形式的」には,原作では「自らの手で願いを叶えた」と言えなくもありません。躊躇し,違和感を感じて一部を持ち帰ったとはいえ,一部なりとも現地で撒いたことは事実なのですから。ただ,自ら主体的・目的意識的に,その意味付けもきちんと理解した上で当該行為を完結させたかとなると,そこはやや疑問符が付いてきます。そこでの行為の主体は,あくまでもアキの両親であり,それに「随伴」したサクは,その後も祖父との間に哲学的な問答を交したりするものの,依然として迷宮から抜け出せない状態が続いているように描かれています。
 一方,ドラマの流れでいくと,葬式からも逃げたような心理状態では,聖地では絶叫するのがやっとで,とても撒けるような状態ではないでしょうし,2人の思い出の場所で撒くというのも,それなりに絵になっているとも言えるでしょう。その上で,「故人の最後の願い」との折り合いを付けるとすれば,最終回のさらに数年後の「何回忌」かの区切りの「命日」に改めて亜紀の両親とともに(場合によっては再婚相手も伴って)聖地を再訪し,そこでケジメをつけるという展開もありえたかもしれませんね。もっとも,描き方によっては冗長な蛇足に陥りかねないリスクもありますが。

 その点,収束部分の流れが最もきれいだったのに,あまりにもウルルに近づき過ぎたがゆえに車の故障が唐突に感じられ,メッセージ性という点でも「どっちつかず」の印象を与えかねなかったという意味では,映画のラストは画竜点睛を欠いたと言えるのかもしれません。

 (追記)
 散骨場所に関するこれまでの議論の積み上げの参照用に,やや映画版に特化したものではありますが,そのものズバリ「なぜウルルではないのか」を標題とする過去ログ入り寸前で埋もれていた別スレを呼び戻しておきます。
 皆さん,議論の続行を。
...2006/01/26(Thu) 20:38 ID:n0uLkA7M    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ぶんじゃく

にわかマニア様
なるほどそうかもしれませね、尾崎豊ファンの自分は
そこまで考えが及びませんでした、それにしても
スケちゃんを絡ませてくるなんてさすがです。
...2006/01/31(Tue) 00:42 ID:XsTBc.zY <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作,映画,ドラマにそろって登場し,物語の核心に触れるセリフでありながら,発言者が異なっているのが「あの世は,この世の側の都合で創り出されたもの」というセリフです。

 まず,原作ですが,亜紀を喪くした直後の祖父との会話の中で,「最後に会おうとしなかった」とか「かたちあるもの」についての話題に入る前に(175〜182頁)サクの口から語られます。ところが,これより先,祖父から昔の恋人の骨の入手を頼まれた翌日の学校での会話(37頁)では,亜紀がこのセリフを口にしており,それを受けたサクのセリフが「すると,おじいちゃんたちは,あの世でも一緒になれないね」です。
 ドラマでは,夢島での夜の会話(第5話)の中で亜紀の口から語られます。その時のサクのセリフは「(あの世の存在を)信じたい」でしたが,祖父の散骨の願いを「死んで叶えられる夢」(第3話)とも表現しています。また,亜紀の「人生はプラスマイナスゼロ」発言は,原作(26頁)の竹取物語の授業を聴きながら,サクが「もし一人一人に与えられた幸せの量が決まっているのだとすれば,この瞬間に,一生分の幸福を蕩尽しようとしているのかもしれなかった」という確信とも言える感情を抱く場面を話者を変えて転用したものですが,これを受けて,サクは「自分のプラス分を亜紀に回す」と言っています。少なくとも,この時点では,サクは来世や神を否定する立場には立っていないものと考えられます。

 ここで注目したいのは,原作もドラマも,亜紀が来世を否定する発言をするのは倒れる前という点なのですね。つまり,このセリフは「生死」とか「あの世」といった問題を切実に自分自身の問題として考えずに済んだ頃(ドラマでは予兆はあったにせよ)の発言なのですね。もっと言えば,闘病生活を通じて世界観が変わり(そうでなければ,「二度の埋葬で永遠の命」というアボリジニの死生観の入り込む余地はありません),否定されることを前提に,あえて対置する意味で,ここで亜紀に語らせている感じもするのですね。
 ドラマの場合,空港へ向かう車中でサクに「あの世なんてないって言ったくせに」と言われ,「足,速いんだもん」と答えをはぐらかしていますが,「助けてください」の場面まで進んで眼を閉じる直前のセリフが「ここが天国」です(第10話)。原作でも,亜紀は「あの世」や「天国」をこの世とは別に存在するものではないと「再定義」した上で(謎解き本の解釈),「(この世からいなくなっても)ずっと一緒にいる」と述べています(160頁)。ドラマの最終回に登場する「おまえの脚はあの子の脚だ」という「ソラノウタ」の最後の一行もその延長線上に位置するものと考えられます。
 このあたり,闘病生活を通じて,さまざまな葛藤や曲折はあったものの,病気を受容する過程で亜紀の死生観に変化が生じたものと考えられます。

 では,サクはどうだったのでしょうか。
 原作における祖父に対するセリフは,最初からの考え方だったのでしょうか。それとも,亜紀を喪くしたことによって考え方も変わってきたのでしょうか。その場合,亜紀がはまったアボリジニの世界観は,サクにとってはどのようにとらえられていたのでしょうか。このあたり,なぜ最終的にはウルルに撒かなかったのかという問題とも通じているのではないでしょうか。
 また,ドラマでは(そもそも祖父が早くに他界したこともあって)原作のような祖父との哲学的な会話は登場しませんが,亜紀の闘病生活を経て,サクは逆に無神論者に「転向」したのでしょうか。第6話ラストの「祈ることなどなかった」という大人サクの述懐との関係で気になるところです。
 このあたり,皆さんのお考えは,いかがでしょうか。

 最後に,映画では,「あの世は,この世の側の都合で創り出されたもの」というセリフは,「人が死ぬってのはエライこった」という名セリフに続けて,重ジイのセリフとして語られます。
 そのためか,映画では,昔の恋人の骨の入手を頼みはするものの,重ジイの口からは「あの世で一緒になりたいから一緒に撒いてくれ」という依頼は出てきません。ただ「形見の品」として後生大事に持ち続けるという感じの描かれ方です。「後片付け」という発想も,そうした前提がなければ出てこなかったかもしれませんね。
 疾風のごとく走り抜けていった存在として描かれた映画版のヒロイン像からは,「神」や「あの世」が入り込む余地は少ないような感じもしますが,「ウルルに撒いて」という遺言との関係で判断がつきかねています。「ウルルに行きたい」というだけなら,「青い空」とかいろいろな動機もありうるのですが,「撒いて」となるとアボリジニ抜きには説明がつかないと思うのですが,皆さんは,いかがでしょうか。

(2月11日追記)
 先客が夢島に残していったフィルムに映っていたウルルの写真を見て「ここが世界の中心」と言う場面は,編集者の判断で付けられた原題とは別の題名の説明として必要になったものとも考えられますが,映画版のヒロインは,原作やドラマほど「アボリジニ」の世界観にハマったような描かれ方ではありません。
 これは,映画のヒロイン像に哲学的な会話をさせるのは似つかわしくないとして意図的にカットされたのでしょうか。それとも,時間的な制約から,「皆さん原作をお読みになってご存知のとおり」ということで軽く流したのでしょうか。

(2月19日追記)
 映像として提供された必要最小限の情報から解釈で補強して作者のメッセージを復元するという作業が必要なのが映画ですが,さりげない一言が妙にひっかかる時があります。
 パスポート用の写真を撮りに行った時に「忘れられるのが怖い」と言って結婚写真を撮る時のこのセリフですが,来世の存否を念頭に置いての発言なのでしょうか。「ウルルの風の中に送って」という遺言との関係からも気になるところです。
...2006/02/20(Mon) 01:08 ID:dIufLYOg    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:教育委員会
 欠食児童さん

>原作の中学校での会話の中に「給食のカレービーンズ」というやりとりが出てきますが、当時、中学校の完全給食はどの程度普及していたのでしょうか。

 1970年代の岡山の一部の公立中学では完全給食が実施されていました。
...2006/02/23(Thu) 08:13 ID:HJ0VKy1E    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 これまでの議論と一部重複しますが,ドラマ版,それも第3話に特化した別スレで,ふうたろうさんが触れておられたことに関しての追記です。

 とりわけドラマ版で前面に出てくるテーマに「何かを失うことは何かを得ること」というのがありますが,その「導きの糸」を原作の中に見つけることは不可能ではありません。アボリジニの世界観に入り込んでいった亜紀が「(自分の病気を含めて)あらゆることに理由がある」と考えるようになった部分を糸口として,ロスの5段階論をかぶせていくと,病気を受容するにあたって,そこに何らかのポジティブな意味を見出そうとしても不思議ではありません。そして,その前振りの役目を果たしているのが夢島での「プラスマイナスゼロ」発言(原作では,竹取物語の授業の場面でサクのモノローグとして登場します)ではないでしょうか。

 さて,その一方で,アボリジニとの接点が最も薄いのが映画です。これは,修学旅行の行先とか,本を読んだといった「自らが何らかの意味で当事者」という設定ではなく,先客の忘れ物のカメラにたまたま写っていたという設定によるのかもしれません。
 ひょっとして,ドラマ版に登場するアメリカ大陸先住民の詩が死と再生をモチーフとするものであったように,冒頭の弔辞の中にアボリジニに通じる手がかりがあったのでしょうか。だとしても,それを自らの世界観として消化したプロセスはどうなのでしょうか。
 さらに言えば,写真を撮った際の「忘れられるのが怖い」発言と「ウルルの風の中に撒いて」という遺言はどのように結びついているのでしょうか。
...2006/03/06(Mon) 08:47 ID:6rOoDupM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 原作本を図書館に返却したので、今、確認ができません。でもまた、改めて原作の「何かを失うことは、何かを得ること」の糸口を見つけてみたいと思います。

 それと、映画での亜紀の健康時から入院時(空港に行く直前)までの思考過程から、ウルルでの散骨を望むに境地に結びつけるのは、かなり無理があると思います。映画での「世界の中心」=「ウルル」への志向が強く、かなり強引にウルルでの散骨シーンにつなげていったのではないかとも考えます。
 ただ、こう考えるのも、原作やドラマのセカチューを知ってるからのことで、映画のみのセカチューしか知らなければ、そんな考えに至らなかったと思います。私は映画も好きです。
...2006/03/07(Tue) 23:13 ID:/wRx2SE6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 この週末,所用で四国に行くことになりました。東京駅を今夜10時の「瀬戸」で発って,月曜の朝に「はやぶさ」で戻ってくる予定です。
 この機会に,原作の舞台を訪ねようかと思っています。現地を見ることで,これまでの議論で見落としていたものを発見できるかもしれません。

 行きの切符は,もちろん「綾瀬発・春賀行」です。
 
 さて,以前,別スレにこんなことを書きました。
======================
セカチュー関連人物の名前のついた駅名シリーズ。
  松 本:篠ノ井線・長野県
  廣 瀬:「広瀬通」というのが仙台の地下鉄に
  山 田:長良川鉄道(旧越美南線)・岐阜県
  綾 瀬:常磐線・東京都
  はるか:「春賀」というのが予讃本線・愛媛県に
  森 山:島原鉄道・長崎県
  長 沢:陸羽東線・山形県
 では,お互いの相手の駅までの切符は
  松本→廣瀬(広瀬通)
   長野・大宮・仙台経由 576.9キロ 8,920円
  綾瀬→はるか
   東海道・山陽・本四備讃線・予讃本線経由
   1,015.7キロ 12,530円
  山田→綾瀬
   美濃太田・多治見・名古屋・東海道経由
   487.5キロ 7,910円
  森山→長澤
   諫早・山陽・東海・山形経由
   1,765.8キロ 18,240円
======================
 ところが,計算上はこのとおりなのですが,常磐線の綾瀬は東京都区内のため,券面には「綾瀬」ではなく「東京都区内」と表示されてしまいます。そこで,券面に「綾瀬」と記載させるため,一旦東京都区内を出た後,再び東京都区内を通過する一筆書きのルートを取ることとし,綾瀬乗車後,常磐線を一旦,松戸方面に向かい,武蔵野線で浦和から赤羽・上野・東京とたどる経路で乗車券を作りました。その分,前記の計算よりは若干割高になってしまいました。
...2006/03/10(Fri) 19:01 ID:NdDXXRGU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 今朝10時に東京駅に着き,某駅前のネットカフェに直行して,留守中の皆さんの投稿を読み,書き込みをしています。原作&映画の舞台探訪記はロケ地スレに譲りますが,宇和島ガイドが解説付で載っている「謎解き本」を携行し,車中で改めて読み直したところ,またしても,気になるところが出てきました。

 場所を特定しての散骨という遺言は,原作・映画・ドラマに共通していますが,遺言を託した相手は原作では両親なのに対して,映画ではサク(テープを通じてですが)になっています。(ドラマでは枕元に付きっきりなのは両親ですが,今わの際にサクの名を呼んでもおり,解釈の余地がありそうです)
 一方,サクから亜紀へのプロポーズと亜紀からサクへの「もう会わない方がいい」という一方的な宣言が,映画とドラマに共通するものの,その順序は逆になっています。映画の場合,「もう会わない方がいい」から切り出した亜紀の最後のテープの結論が「あなたは,あなたの今を生きて」であり,「ウルルに撒いて(送って)」で締めています。
 ひょっとして,これは,原作の「最後に会おうとしなかった」の映画なりの解釈なのでしょうか。とすると,跡形もなく走り去ってしまうことと,その数場面前の「忘れられるのが怖い」の落差は,ロスの五段階論を映画なりに表現しようとしたものなのでしょうか。

 逆に,同じく「あなたは,あなたの今を生きて」が結論だったとしても,「別れ話」の否定の上に成り立った「プロポーズ」という流れのドラマの場合,それが亜紀と切り離された世界でのことではなく,「おまえの脚はあの子の脚」という締め方が自然な感じがします。この部分,原作の空港で倒れた後の病室での会話を反映したつくりになっている反面,「最後に会おうとしなかった」について森下さんの解釈を聞いてみたい感じもします。

 いずれにしても,「ここにいなくなっても一緒にいるから,また見つけてね」と「最後に会おうとしなかった」の解釈について,改めて考えさせられました。
...2006/03/13(Mon) 12:22 ID:qqeen2rQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
上の、にわかマニアさんのレスに関連して(既出だったらごめんなさい)

ドラマでは

「撒いて・・・朔ちゃん・・・」

というのが亜紀の最後の言葉になったと思うのですが、この意味は

1、朔に「撒いて」と頼んだ
2、両親に「撒いて」と頼んだ後、朔の名前を呼んだ

のどちらなのでしょう。
皆様はどう思われますか?
...2006/03/20(Mon) 21:39 ID:juX.pDTM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 朔五郎さんの質問ですが、わたしは、「1」だと思います。それは、@散骨という行為を朔太郎と共有している、A亜紀のウルルへの思いを最も語った相手は朔太郎だった、という理由からです。
 
...2006/03/20(Mon) 22:12 ID:/PUR4GbI    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 いささか「誘導尋問」的な問題提起だったかもしれませんが,私もふうたろうさんと同じ解釈なのですね。
 ドラマの場合,アボリジニの本を差し入れたのは父でしたが,その内容について語っているのは,サクとの交換テープでした。つまり,亜紀のウルルへの思いを唯一直接聞き,思いを共有化しえた(内容的にどこまで理解できていたかはともかく)人物はサクだったということになります。
 それに加えて,倒れて病院に担ぎ込まれた後,一旦は意識を回復して直接会話したりテープを吹き込んだりした原作や映画と違って,人事不省のままほぼ即死状態というのがドラマですから,亜紀の意識としては,空港ロビーでサクに抱えられ「ここが天国」と呟いて眼を閉じた状態がそのまま続いていたとも考えられます。

 そして,これとの関連で気になるのが第8話なのです。亜紀を残して修学旅行に行くのを渋るサクに対して,「2人で行く時の下見だと思って」と言って送り出しますが,最終回と重ねて読むと,「2人でウルルへ」というのは,原作の城山のアジサイと同様に「果たされない約束」として登場してくるのですね。
 とすると,亜紀の最後の言葉には,「かたちある状態の私と2人でウルルに行くことはできなかったけど,灰になった私をウルルに送り届けて」という意味が込められていたことになります。しかし,その願いも「果たされない約束」の構図の中で,サクは亜紀を撒けないまま持ち帰るという結論が待ち構えています。
 「ウルルに撒いて」という「遺言」の宛先が映画同様にサクだったにしても,それを両親が聞くという展開は,約束がサクによっては「果たされない」ままだと亜紀にとっては救いがなくなるので,それを実行する存在を用意したということなのでしょう。なにしろ,「親と恋人は違う」というセリフが第8話で亜紀自身の口から語られているのですから・・・

 もちろん,どうして亜紀の最後の願いを叶えてやれないのかという問題はあるのですが,最愛の人を亡くした直後でメンタルな部分でも変調をきたしているサクに,ウルルできちんと撒けというのは酷でしょう。撒けずに絶叫するシーンは,2人の純愛物語としてはラストシーンであると同時に,「その後のサク」にとってのスタートラインでもある訳ですね。その意味では,あそこで遺言どおりに亜紀を送っていたら,物語そのものが成り立たないという面もあるのですね。
 17年後,「走りたいだろう」と言ってグラウンドで送る最終回の映像も印象的でしたが,「改めてウルルを目指す」という展開もあってもよかったような感じもしています。
...2006/03/21(Tue) 02:10 ID:vtcHCNLI    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 わたしは、果たして朔太郎が亜紀のウルルに対する思いの中身を十分に理解していたのだろうか、と思うのです。確かに、亜紀は朔太郎へテープや会話の中でアボリジニの死生観やそのウルルの位置づけを語るのですが、それを朔太郎が理解していたとは思えません。ただ、亜紀がウルルに対して、強い思いを抱いていることは、十分理解していたと思います。

 朔太郎にとってはウルルは「かたちある亜紀」とともに行くことに意味があり、「かたちない亜紀」とのウルルには意味を持たなかったのではないでしょうか。ましてやウルルでの散骨は。17年後の朔太郎も、やはりウルルに対する考え方は同じだったんだろうと思います。

 グランドでの散骨も、亜紀との遺言をかなえる代償行為でなく、17年間の喪失感との決別の儀式、つまり自分のための行為だったのだと思います。
...2006/03/21(Tue) 04:47 ID:RVbtAwg6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
ふうたろうさん、にわかマニアさん

コメントありがとうございました。
私も、朔に頼んだ、というように解釈したいと思っておりました。
なぜ、こんなことをお聞きしたかと言うと、私自身このBBSで創作していることから「ストーリーの組み立て」という面から興味を抱いたからです。
1と2では全然意味が違ってしまいますから。
とても参考になりました。ありがとうございました。
...2006/03/21(Tue) 22:40 ID:ldvdBDoM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 朔五郎さん・ふうたろうさん
 3人ともその点での結論は一致したように,やはり,ドラマの流れから言って,「ウルルに撒いて」の遺言の宛先はサクだと解釈するのが順当なところですよね。
 もっとも,それなるが故に,最終回の父のセリフを借りれば「なんで死んだ人間の願い一つ聞いてやれないんだ。情けないなあ」という朔五郎さんご提起の問題が未解決の宿題となって残る訳なのですが・・・ 

 結果的に,その意味をきちんと理解できていなかったにせよ,一部であれ亜紀の願いを叶えたのは原作だけということになります。映画やドラマの描き方は,「その後」のサクをどう解釈するかに力点が置かれたため,「亜紀の遺言」を多少犠牲にしたということなのでしょうか。
 目的地に行く途中で車が故障し,修理が終わるのを待つとか,代わりの車を呼ぶという選択肢もあったのに,あえてそこで散骨した映画に対し,ドラマの場合は,工夫すれば,原作を生かした映像にすることもできたはずです。例えば,断崖で絶叫するシーンで,風に飛ばされそうになった遺灰を慌てて握り締めるのではなく,半分飛ばされた(送った)ところで思い直して手を握り締め,絶叫するという映像表現にすれば,原作とほぼ同じ流れになったところでした。もちろん,その場合,「温度もない・・・」というモノローグは手直しが必要になってきますが。
 逆に言えば,ある解釈の下に「温度もない・・・」のモノローグが先に決まり,それと整合性を持つような映像表現にした(明確に原作とは別のスタンスをとった)ということなのでしょうか。
...2006/03/22(Wed) 01:05 ID:AC61QrOs    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 サクは「亜紀がウルルに対して強い思いを抱いていることは十分理解していた」が,その「中身まで十分に理解していた」かは疑問だし,「亜紀とともに行くことに意味がある」と考えていたというのは,ふうたろうさんのおっしゃるとおりでしょう。もし,理解していたとしたら,「これが亜紀だと思うと撒けなくて」(最終回の担任との会話)とか,「感情が理解を拒んだ」(原作191頁)といったことにはならなかったでしょうから。

 しかし,そうなると,今度は,二度の埋葬というアボリジニの世界観について,原作や映画のようにガイドや運転手から聞くのではなく,亜紀の父の口から語られていることをどう理解するかという問題が出てくるのですね。
 もちろん,アボリジニの本を亜紀に差し入れたのは父ですから,単に「差し入れる」だけではなく,自分でも読んでいるということも考えられます。むしろ,なぜ廣瀬家のコロッケはクリームコロッケなのかという種明かしの流れからいっても,あの本の内容がいち早く父によって読まれ,その口から語られるという筋運びの方が自然な面もあるのですが・・・
 でも,そうだとすると,今度は,あれだけテープでメッセージを交換したり,亜紀のためにあれこれ東奔西走していながら,実はサクは何も判っていなかったのではないか。これって,ドラマだけがカットした「名前の勘違い」以上に大きなギャップではないかということになってくるのですね。第8話の「親子と恋人は違う」というセリフを逃げ道として利用するのは,内閣法制局ですら思いつかない綱渡り的な解釈でしょうし・・・

 もう一つ。亜紀がアボリジニの世界観に関心を持つようになったのは,原作では修学旅行の土産の民芸品がきっかけでしたが,ドラマでは,これがもう少し繰り上げられています(修学旅行そのものがカットされた映画については比較のしようがありませんが・・・)。
 これについて,@亜紀の命日を年末から10月に繰り上げたためとか,A「何かを失うことは何かを得ること」というテーマとの関係やその後の展開の都合上,真島の登場を修学旅行より後に繰り下げるには無理があったと解釈した場合はともかく,B修学旅行で現地を訪れる時点で既にサクは「アボリジニの世界観」なるものが存在し,亜紀がそれに関心を持っていることを知っている状態にするための設定変更だったとすると,これとの関係で上記の問題をどう理解するかという点も問題となってきます。

(追記)
>グランドでの散骨も、亜紀との遺言をかなえる代償行為でなく、17年間の喪失感との決別の儀式、つまり自分のための行為だった・・・

 映画やドラマが大人サクの「喪失感のその後」に焦点を当てれば当てるほど,ふうたろうさんに限らず(私も含めて),ラストシーンがそのように見えるのも無理のないところだとは思います。何しろ,散骨場所がウルルではないという動かし難い事実があるのですから。
 ただ,そうなった場合,サク的にはそれで決着がついたとしても,「それじゃ,亜紀は浮かばれないじゃないか」という朔五郎さんご指摘の問題は残ってしまうのですね。まさか,行定さんや森下さんほどの方が大人サクを描くのに夢中になったあまり,亜紀のことが頭の中から抜け落ちていたということはないでしょうし,気になるところです。

 それにしても,原作を読み返したり,映像を見直したりする度に新たな謎が出てくるとは,何ともすごい物語です。
...2006/03/29(Wed) 20:42 ID:c4HMaxM2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
「グランドでの散骨が朔太郎自身のための行為であれば、亜紀が浮かばれない」の件で。

 亜紀が死の直前に、朔太郎に自分をウルルに撒いて欲しいと言い残したのに、朔太郎はそれを行わなかったので、直接的には「亜紀は浮かばれない」のかも知れません。
 しかし、わたしは朔太郎がグランドの散骨での直前に、「ソラノウタ」を読んでいたことに注目したいと思います。「ソラノウタ」を読んで、朔太郎は改めて散骨にふさわしい場所を考え直したのではないでしょうか。しかし、その選択肢としてウルルはなかったと思います。「自分は生きたいんだって」自覚した朔太郎には、「死に方の夢」を実現する場所としてのウルルでの散骨はありえなかったでしょう。

 「おまえの脚は、あの子の脚だ」という、亜紀の遺書というべき「ソラノウタ」を読み、@朔太郎は生きる(がんばる)ため走り続ける、Aその走り続ける脚は「かたちない亜紀」の脚でもある(朔太郎は亜紀と共に生き続ける)、B「かたちある亜紀」が走り続けたグランドに亜紀を眠らせ(散骨し)よう、という論法ではないでしょうか。
 つまり、死の直前の遺言は実現させなかったけれども、「ソラノウタ」で亜紀が朔太郎に望んだ生き方の土台に亜紀を撒くことで、亜紀の遺言を昇華した、というのが、ドラマ版の落としどころではなかったのではないでしょうか。

 「グランドでの散骨が朔太郎自身のための行為」と書いたのはわたし自身ですが、よくよく考えると、それだけではなかったのではないかと思うようになりました。
...2006/04/01(Sat) 07:12 ID:edtc4D1E    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 ふうたろうさん

>散骨での直前に、「ソラノウタ」を読んでいたことに注目したいと思います。「自分は生きたいんだって」自覚した朔太郎には、「死に方の夢」を実現する場所としてのウルルでの散骨はありえなかったでしょう。

 そうでしたね。亜紀が言う「死に方の夢」を「残された者がその人の生き様を見て」という担任のセリフと重ねて読めば,亜紀もまた「精一杯生きようとしていた」訳ですから,表面上の「死に方の夢」の「遺言」のその先に昇華された「真の願い」があって,サクは「ソラノウタ」を読むことで,それに気付いたと考えると,すべてがうまくつながりますね。
 ありがとうございました。
 私はふうたろうさんの説明でストンと落ちましたが,この問題の言い出しっぺの朔五郎さんはいかがですか。
...2006/04/01(Sat) 07:22 ID:b6Cia5iA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
ご指名なので、お答えいたします(^^)

ドラマ版の前に、原点である原作について整理しておきたいと思います。
原作のサクは、いかなる心理状態であったか、また、遺灰の一部であったかどうかはっきりしませんが、とにもかくにも聖地での散骨を果たしています。これはサク自身がそう言っていますから信じるしかないでしょう。
散骨から三ヶ月くらい後に、サクは夢島を再訪していますが、この時すでに「アキの姿かたちについての記憶は薄れつつある。しかし、どこにでもアキの存在を感じる」という境地に達しています。
それでは片山氏はこれにより何を表現しようとしているのでしょうか。それは「アキは聖地での二度目の埋葬により、地下の泉にたどり着き、精霊として永遠の生命を得た」ということであると思います。つまりアキの最後の願いは実現したのだと。

朔五郎は
《聖地での埋葬 → 永遠の生命 → 精神的存在への遷移》
という流れこそこの作品の本質であり、他の作品には見られないオリジナリティであると認識しています。そうでなければ、アボリジニの人々の世界観・死生観をわざわざ持ち出した必然性が感じられないからです。

ではドラマ版ではどうでしょうか。
ドラマ版で原作と異なるところは、ウルルまで行くことが「死に方」であると描かれていることでしょう。
原作のアキは、アボリジニの世界を自分なりのユートピアとして捉え、そこに身を投じ、精霊として生きることで病気の苦しみから逃れたいという一心でオーストラリアを目指します。つまり、あくまで「生き方」なのですね。
ドラマ版に限って言えば、「死に方」の先に二人で生きたいという「真の願い」があったという説明は成立すると思います。
ただ、そうなりますと、あのような瀕死の状態で「一緒に生きたい」サクを突き飛ばしてまでウルルを目指す必然性はどこにあったのでしょうか。
これは私見ではありますが、もしそうであるならば二人で一緒に駆け抜けた場所である「グラウンド」や「堤防」でサクに見守られながら、静かな終焉を迎えたいというほうが、死を目前にした人間の心理として自然なのではないでしょうか。

と、長々と書いてしまいましたが、テレビドラマは文芸作品ではなく、エンターテイメント性、すなわち視聴者を感動させることが最優先されるのだと思います。その視点からストーリーを組み立てた結果、これが最高であるとの判断のもとに制作されたのだと思います。
...2006/04/01(Sat) 19:59 ID:KMshUONE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 朔五郎さんのおかげで,また一つ引っかかっていた点がスッキリしました。それは,「イシスとオシリス」や「天の岩戸」をはじめ,「死と再生」をテーマにした民話・神話は世界各地にあるのに,なぜ「アボリジニ」なのかということでした。
 以前,このスレを含めて何箇所かで書いたように,「二度の埋葬」というのがキーワードだという所までは判ったのですが,朔五郎さんは,「埋葬(散骨あるいは埋葬+散骨)を二段階に分ける」という外形だけでなく,そこに「永遠の生命」という内実も含めて解釈されておられるのですね。
 そう考えると,ドラマだけが「死と再生・永遠の命」というテーマを解説するのがガイド(原作)や運転手(映画)ではなく父親だった意味も見えてきました。母親の「あの子は・・・生命を育んで」というセリフとセットでの設定だったのですね。

 亜紀にとってのアボリジニの世界は自分なりのユートピアであり,亜紀もまた,あくまでも「生き方」の問題としてとらえていたという点は,朔五郎さんと同感です。
 ドラマの「死に方に夢を」のセリフも,「もう生きることを諦めたのか」という問いに対する否定の上に登場しています。もっとも,その時は,サクはそれに対する判断は棚上げして(理解できないまま),とりあえず「ウルルに新婚旅行」というのを当面の結論としているのですが・・・
 17年が長過ぎるかどうかはともかく,何も判らない状態から亜紀のメッセージを理解するまでには,それなりの時間が必要だったでしょう。逆に,最初の散骨から三ヶ月くらい後の段階ですでに「アキの姿かたちについての記憶は薄れつつあるが,どこにでもアキの存在を感じる」という境地に達した原作の場合,「その後の空白の10年」の位置付けが気になるところではあります。

 しかし,とにもかくにも,両親もサクも「訳の判らないまま」で「結果オーライ」的な要素もある原作も,少なくとも父親は亜紀が考えていることを理解している一方「by サク」という要素が欠落したドラマも,亜紀が望んだ「完全型」ではないにせよ「ウルルに撒いてもらう」という初期の目的は達せられているとも言えます。
 ところが,原作・映画・ドラマを「三部作」とか「三点セット」として見た場合,上記の論点から最も離れた所に位置しているのが映画なのですね。遺言テープに従ってウルルに向かうものの,それは「後片付け」という位置付けですし,アボリジニの世界観は現地に行ってから運転手に教わっている上,最後は車が故障して目的地に着く前に散骨(しかも,これ1回きり!)しており,とても「亜紀が浮かばれる」ような描き方ではありません。

 ドラマはよく「映画が原作から離れた場合の「軌道修正」をしている」と言われますが,もっと言うと,「元に戻す」だけの単なる「軌道修正」ではなく,映画がなぜ原作を離れたのか,その哲学を踏まえた上で視聴者や読者に対して「原作との折り合いをつける」という役割を担っている側面もあります。
 断崖で絶叫するシーンを「風に吹き飛ばされそうになって手を握り締める(=全否定)」から「@送ろうろしたが,A一部が吹き飛ばされたら,B全部をなくしてしまうのを「感情が拒んで」,Cあわてて手を握り締めた(=一部否定)」に修正(文章的には数行でも,映像的には手を握り締めるタイミングをコンマ数秒ずらすだけ)すれば済んだものを,あえて「亜紀が望んだ完全型」にしなかったのは,意図的にそうしたと考えるほかありません。
 しかし,なぜそうしたのかを考えるにあたっては,@映画版の哲学は何か,AそしてそれをTV版の制作サイドはどう解釈したのかという「謎解き」が必要なのかもしれません。
...2006/04/02(Sun) 08:22 ID:faRtOcjA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 93・94の議論の続編です。
 「永遠の生命」という哲学が「なぜアボリジニか」のカギであると見て間違いないでしょうが,それが日本と夏冬が逆の南半球のものだということも要素の一部なのかもしれません。
 つまり,もしこれが伊予地方の民話だったとしたら,「重篤患者を遠くに連れ出す」あるいは「病身を押して自分を貫く」という葛藤をここまで描けたかどうか判らないのですね。「二人で一緒に駆け抜けた場所である「グラウンド」や「堤防」(原作の場合は城山や神社あたりでしょうか)でサクに見守られながら、静かな終焉を迎え」るという「死を目前にした人間の心理として自然な」展開ではなく,あえて「助けてください」の場面を用意するには「無謀とも言える遠さ」を必要としたということも考えられます。

 さて,ドラマでは,大人サクによる「死ぬと判っていて連れ出した」という述懐(懺悔)が登場します。「どこへ」の答えを用意しないまま「とにかく病院から連れ出す」といった成り行きでの出来事のように描かれているようにも見える原作(138頁)でも,少なくとも,サクはそれが亜紀にとって「苦しい病気の中で生きること」の「希望」であり「ユートピア」であることは理解しています。現地に行った際の印象からネガティブなチャチを入れたりするなど,どこまでそれに共感しているかは疑問だとしても(126〜127頁)・・・
 いずれにしても,少なくとも,原作もドラマも,重篤患者を連れ出すという行為には「亜紀 believes that」ということを考えるという過程が介在しています。

 翻って映画版はどうでしょうか。
 先客の残したフィルムからたまたま見つけた写真だけで「生きるか死ぬか」のところまで突っ走れるでしょうか。「行ってみたい」・「行こう」のやりとりは,原作やドラマに比べて余りにも軽く扱われていないでしょうか。熟慮した結論というよりも,その場のノリという感じすら見る人に与えかねません。
 それでいて,最後に「ウルルの風の中に撒いて」というテープが登場するのは,「実は,ああ見えても考え抜いた末のことだったんだよ」という種明かしだったのでしょうか。唐突に「もう会わない方がいい」と切り出していることからも,大変な葛藤の末のテープだということを察してくれということなのでしょうか。

 それと,もし仮に,ラストを「後片付け=決別のセレモニー」という位置づけに特化して描いたのが映画だという立場をとった場合でも,決別すべき対象を具体的・物理的に象徴する「遺灰」の位置づけに「重さ」が見られないのですね。遺言テープを聞いて「遺灰」を用意したのか,前々から持ち歩いていたのか,映像は明示的には語っていませんが,重ジイに届けた骨も散骨を前提とするものではなく,「骨」のエピソードAとBの間が原作やドラマに比べて「切れている」ような印象を受けるのですね。

 このあたり,映画に詳しい皆さんは,どのようにお考えですか。
...2006/04/05(Wed) 12:51 ID:cNhDRx/k    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 本来返信すべき「亜紀の家に自転車はないの?」の項目が過去ログ入りしてしまいましたので,「謎解き」の「総合科目」的な本項に書き込みます。

【問題提起】(by しおさん)
 4話の競技場へ行くときも、朔だけが自転車で行ってますよね。普通は大会当日は体力温存で、陸上部員も、自転車で行きますよね。
 これも、どうしてでしょうね。

【返信】
 スケちゃんを追って駅まで走る場面を注意して見ると,競技場を出る際に右手に折れようとした智世と亜紀に,後から自転車で追いかけてきたサクが「左・左!」と声をかけています。
 もし,駅やバス停から歩いてきていたら,出てどちらに向かうかを間違えるというのも変な話です。とすると,彼らは競技場の外から歩いてきたのではないということも考えられます。つまり,学校からチャーターしたバスで構内の駐車場に乗り入れ,そこから歩いて来たため,駐車場の方に向かおうとしたのかもしれません。

 もっとも,実際には,あそこは右に折れるのが正解で,映像のように左に折れると,奥の野球場の方に行ってしまいます。ただ,そうしないと,愛媛県(宇和島か今治かはともかく)という設定上ありえない富士山が画面に映ってしまうという問題があるため,あえて逆方向に走らせたのかもしれません。
...2006/04/16(Sun) 00:30 ID:oddlPw/s    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 あちこちの項目に散らばったまま埋もれかけた映画に関する未解決の謎を一本に集約しました。映画の場合,最初から「あれはファンタジーだから」で済ます方が多いのか,原作やドラマほど解釈をぶつけ合うということが少ないようですが,映画ファンの皆さんの明快な解説を期待します。

1 雨の体育館のシーン
 (「ドラマと映画」スレの10番前後)
 交通事故で届けられなかった亜紀の最後のテープを聴いて四国に向かった律子と,後を追いかけた大人サクが雨の体育館で遭遇しますが,大人サクと高校時代の亜紀の幻影が交錯し,しかもその場に律子が居合わせる(これがあるために心象風景の一言では済まされないのですが・・・)というシーンは,どのような解釈に基づくもので,観衆にどのようなメッセージを提供しようとしているのでしょうか。

2 映画の年代設定
 (「ドラマと映画」スレの18番)
 映画の年代が1986年−2003年という組み合わせなのは,なぜでしょうか。ドラマと同様,サクが亜紀とともにこの世に正を受けていたのが17年,亜紀を亡くした世界を彷徨って17年という「17年1ユニット」なのは判りますし,ウルルがユネスコの世界遺産に指定された年代ということも判るのですが,なぜ1年後の組み合わせではいけなかったのでしょうか。
 台風を障壁として描きながら,何でわざわざ日本列島に1個の台風も上陸しなかった稀有な年である1986年なのでしょうか。1年後にずらせば,10月16日から17日にかけて九州・四国地方を襲った台風19号というおあつらえ向けの設定があったというのに・・・
 それとも,1986年10月28日が自由の女神の除幕式100周年にあたることから,ヒロイン像をこれに重ねていたのでしょうか。

3 散骨についての解釈
 (「映画のラストがウルルでないのはなぜ」スレ)
 ウルルに向かう途中で車が故障しての散骨は,原作派にとっても映画派にとっても,互いに「不完全燃焼」のもやもやした気持ちが残ったのではないでしょうか。
 なぜ,映画だけが@遺言はサク宛,A散骨は1回きりという独自の展開になっているのでしょうか。ウルルでの散骨を希望しているのに,アボリジニの世界観と亜紀との接点も,死んでもウルルに行きたいという動機付けも弱過ぎはしませんか。
...2006/04/20(Thu) 00:02 ID:DT/wfPQM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 「映画の年代設定」の件で。

 映画での重要なアイテムにウォークマンがあります。この映画で使われた型式のウォークマンの発売の年が1986年だったとの推測はいかがなものでしょう。
 わたしは、ウォークマンの型式の遍歴がよくわからないのですが、例えば、映画で使われた型式が初代のものだったとか、あるいは、それまでの型式からすると画期的なものだったとか。
...2006/04/20(Thu) 06:04 ID:jHqsCl3Q    

             「助けてください」の英訳  Name:にわかマニア
 先日,映画版のDVDを見た時に,設定を誤って字幕を英語版にしてしまったのですが,「ケガの功名」で,ちょっとした発見がありました。
 「人が死ぬってェのは,エラいこった」という名セリフのところで,「えらいこと」を「big deal」と訳していたのですね。しかも「It 〜 that」の構文ではなく,「It's a big deal when someone dies.」と,後半(日本語では前半)の部分を「when」で受けていたのは,ちょっと意外でした。
 また,原作の英訳版で「Help her」と訳していた「助けてください」ですが,ここでは「Please help」で,恐らくは意図的に「her」が省略されていました。原作・映画・ドラマを通じて最も絶叫調の映画版がです(レス50〜51参照)。

 こうなると,世界コンクールに出したドラマ版(まさか日本語だけで審査を受けた訳ではないでしょう)ではどう訳していたのか,見てみたくなりました。と言うのも,「her」の有る無しによって,何に対して何を祈って(あるいは訴えて)いるかが変わってくる面もあることと,それとも関連しますが,最初,絶叫調だった山田君に堤監督は「ここは声にならないくらいの声で」と指示しているからなのです。
 どちらかと言えば英語は苦手科目のため,あるいはトンチンカンな書き込みになってしまったかもしれませんが,このあたり,英語にお詳しい皆さんは,いかがですか。
...2006/05/01(Mon) 01:56 ID:7d0/WS0g    

             最終的な散骨地の意味  Name:にわかマニア
 最近,自らのブログまで開設された続編スレのメインライター・朔五郎さんから最終的な散骨地についての鋭い問題提起を頂いたのは,昨年暮れのことでした。映画版に特化した別スレまで含めると,この問題提起は,更に秋にまで遡ります。
 ブログ開設のお祝いに「解決編」をと思ったのですが,改めてドラマ編のDVDを見直してみて,ますます判らなくなりました。

 まず,第1話と最終回の断崖での絶叫シーンを静止画像のコマ送り(50〜60年代に相撲中継をご覧になった年代の方には「分解写真」と言った方がピンとくるかもしれません)で何度も見直しました。その結果,次のことが判明しました。
 @第1話の方は,
  明らかに遺灰の一部が風に吹かれて飛散した後に
  掌を握っている。
 A最終回の方は,
  掌を握るタイミングが第1話より若干早く,
  よく凝視しないと,
  一部が飛散したかどうかの確認が難しい。

 さて,第3話の祖父の散骨シーンもそうですが,この映像は,実際に掌の中の粉が飛ばされるのを映したものではなく,粉を置いた掌の実写映像に,飛散する煙状の粉末のコンピュータ・グラフィックを合成したものです。
 したがって,映像の差は,風を送るタイミングや俳優が指定された動作をするタイミングの差ではなく,画像合成の電算処理によるものということになります。つまり,偶然の誤差ではなく,意図的な違いと考えるべきでしょう。  

 問題は,意図的にタイミングに差をつけた2つの映像の意味をどう解釈するかです。
 実際に亜紀の両親と現地を訪ねた最終回に対し,第1回の方は亜紀を撒けないサクの心象風景だというのが,既に定着し,通説化した解釈です。掌を握るタイミングの差が逆ならいいのですが,撒けないことの心象風景の方が明らかに一部を飛ばされてから掌を握っていることをどう解釈したらいいのか,うまい解決法が見つかりません。
 強いて言えば,亜紀の両親に誘われて,「形式だけは」送ったけれども(=一部飛散の意味),自分の心の中で整理がつかないという意味なのでしょうか。

 一方,最終回の映像ですが,よく目を凝らして見ると,ほんの僅かながら,ウルルの風の中に飛んでいっています。もっとも,すぐに掌を握りしめて(それ以上の)飛散を防いでいることから,これをもって「送った」とすることができるかどうかは議論の分かれるところでしょう。
 ただ,原作にしても,アボリジニの世界観は現地に行って初めてガイドから聞いている訳で,判って散骨した訳ではありません。その意味では,送られる側の亜紀にとっては,意味が判らないまま違和感を感じる中で(一部にせよ)とにかく撒かれた原作にしても,たまたま一部が風に飛ばされただけのドラマも,いずれも「きちんと意味を理解した上で送ってもらった」ということにはなっていません。
 このあたり,「結果オーライ」で亜紀の最後の願いを成就したととらえていいのかどうか,悩ましいところです。あるいは,原作にしてもドラマにしても,両親の手からは100%撒かれていますから,亜紀にとって,「誰でもいいから撒いて」なのか「by サク」というところに決定的な意味があるのかも判断の分かれるところかもしれません。

 映画の方も,あの結末はアボリジニの世界観に対するサクの理解不足と見える部分があります。
 二度の埋葬と永遠の命という話を聴くのは,現地で運転手からなのですね。その時の表情は,「それは既に読んで知っている」というものではなく,「それは初耳だ」という感じでした。亜紀とウルルに行こうと約束し,散骨場所としてウルルを選んだにもかかわらずです。原作やドラマと比べて,サクと亜紀がアボリジニについてどこまで突っ込んだ話をしていたのか疑問の残るところです。
 しかも,その後,サクは亜紀の最後のテープをもう一度聴いているのですね。亜紀の遺言どおりにウルルに向かおうとし,運転手から説明を聞いたばかりだというのであれば,そこで「ウルルに撒く」ことへの確信を強くしたというなら話は判ります。でも,実際にやったことは,「ウルルに撒く」ことの否定なのですね。遺言テープを再度聴いたにもかかわらず・・・
 また,映画の場合,原作やドラマのような「両親による散骨」という「逃げ道」も用意されていません。なぜなら,亜紀の遺言テープは17年の歳月を経てサクに届けられるまで,律子の服のポケットの中で眠り続けていた訳ですし,「亜紀は独りで死んでいった」というセリフ等から,サクだけではなく両親も臨終に立ち会っていない(遺言を聞いていない)と考えられるからです。
 ウルル以外の場所での散骨には賛否両論あることは確かですが,それ以前の問題として,この流れがなぜウルルの否定に結びつくのかの論理的展開がどうしても理解できません。

 重いテーマのためか,長文になりましたが,映画・ドラマともに「なぜウルルで撒かなかったのか」という未解決のテーマについての議論は膠着してしまった感があります。制作側の理解不足として済ませるのは簡単ですが,宗教観に疎い人が書いた台本ならともかく,森下さんは宗教科卒なだけに気になるところです。

 朔五郎さんには,ブログ開設のお祝いに「解決編」をお贈りすべきところ,宿題を増やす形になって申し訳ありません。
...2006/05/06(Sat) 15:34 ID:mG9IYuDU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
まず、映画のラストシーンについて

結論から言えば、このシーンは原作の「二度の散骨」の場面を合成したものなのでしょう。
前にも書きましたが、あの荒れ果てた丘によじ登り散骨するというのは、原作中での「聖地での散骨」の場面を映像的に再現したものなのでしょう。
一方、原作のラストシーン「校庭での散骨」では、耳元で不意にアキの声が聞こえ、その存在を確信した瞬間に散骨を決意するということだと思います。
つまり、映画ではテープの声がこの声の役割を果たしているのですね。テープを聞き終わった後、朔太郎はあたりを見回しています。この瞬間に亜紀の存在を身近に感じ、ここで良いのだ、と感じたということでしょう。

その演出の是非はともかく、とりあえず「形式的?」に原作に似せたということだと思います。
...2006/05/07(Sun) 00:48 ID:IJhv9xqc <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
ドラマの方は難しいですねえ(^^;;;

まず、亜紀がウルルに向かう「真意」は何だったのでしょうか?
ただ「空」が見たかったから?それとも原作と同じように「永遠の生命」が欲しかったから?
それによって、残された者の為すべきことも違ってくると思うのです。

ただ、脚本の上で若干混乱が見られるのも否定できません。
例えば潤一郎は朔太郎に対し「なぜ死んだ者の願いひとつきいてやれない?」と言って息子を庭に投げ飛ばします。この「願い」とは一体何だったのでしょう?このシーンの流れからすれば「ウルルでの散骨」と潤一郎は認識していた考えるのが自然でしょう。
ところが、17年後、朔太郎が帰郷した時にはあっさりと「亜紀を撒きに帰って来た」と言っています。これにはかなり違和感を覚えます。「死者の願い」を聞いてやれ、ともう一度言わなかったのは何故でしょうか?

石丸Pの言葉ではありませんが「読んだ人の数だけ解釈がある」ということで、無理に一つの結論を出す必要はないのかもしれません。
...2006/05/07(Sun) 01:10 ID:IJhv9xqc <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
(5月7日当初の投稿)
 朔五郎さんには,ブログの立ち上げで何かと大変な中,ありがとうございました。
 確かに,画面に明示的に登場する散骨が1回だけということからも,映画は原作の「二度の散骨」の場面を合成したものなのでしょうね。「耳元で不意にアキの声が聞こえ」て散骨に至るという原作を念頭に置けば,「テープを聞き、亜紀の存在を身近に感じ、ここで良いのだと感じた」という処理の仕方も「あり得る選択肢」ではあると思います。
 ただ,問題は,その時に聴いていたテープが「ウルルに撒いて」と散骨場所を特定していることと,その直前に初めて運転手から「ウルルに撒くことの意味」を聴いていることとの関係なのですね。原作やドラマと比べて,映像だけでは「それでもウルルではなくでここだ」という「何か」が足りないような感じなのですね。
 それに,このような展開なら,車のアクシデントなしにウルルに着いてからテープを聴くようにすれば,それだけで1本のスレが立つような無用の議論にならずに済むのに,あえて車両事故のシーンを入れたのは,最終的な散骨場所が学校(アボリジニの聖地ではない)という原作に「形式的」に合わせるために無理をしたということなのでしょうか。

 ドラマの父のセリフですが,まだ亜紀の遺言が実行されていない段階(最終回)では,「死んだ者の願いひとつきいてやれないとは情けない」と言って送り出すのは当然でしょう。そのウルル行では,サクは中途半端な送り方しかできませんでした(一部飛散したところで遺灰を握り締め,持ち帰りました)が,両親の手によって亜紀は送られています。

 ここから先は,推測の世界です。
 サクが遺灰を持ち帰った時,父は何も知らなかったということが考えられるでしょうか。映像的には担任との会話しか明示的には提供されていませんが,「どうだった。送ってやれたか?」というやりとりはあったでしょうし,本人から直接聴き出せなくても,父親同士の会話もあったはずです(ラストの防波堤で,亜紀の父がサクに「ご両親が」と言っていることからの類推)。この段階では,親も担任も「気持ちの整理がついたら送ってやるのだろう(送ってやれよ)」というふうに受け止めたのではないでしょうか。

 さて,このウルル行で,亜紀は少なくとも両親の手を通じて聖地に送られています。とすると,この時点で,既に亜紀は「永遠の生命」を得た(「謎解き本」流に言えば,点在から遍在に移行した)存在になっていたというのが,親の側の受け止め方なのではないでしょうか。
 そして,これは「亜紀の寿命を縮めたのは自分だ」と責め続けているサクの認識との間には決定的とも言えるギャップがあります。永遠の生命を得て遍在化した亜紀を認識できず,瓶の中の遺灰を見ることで辛うじて自らを保っているのがサクの姿なのです。
 そうした状況にあったサクがやっと故郷に帰ってきたことで,これを「ついに気持ちの整理がついた(つけようとし始めた)」と受け止めたのが第4話の「あいつは廣瀬亜紀さんを撒きに帰ってきた」というセリフなのでしょう。
 この時,もう一度「死んだ者の願い」と言わなかったのは,@サク以外の亜紀の周囲の者にとって,亜紀は既に「死んだ者」ではなく,永遠の生命を得た存在であり,A非自発的・偶発的にせよ,一部ではあれ,サクの手からも17年前に亜紀はウルルで撒かれているためなのかもしれません。

 (補 論)
 ウルルの動機付けは「空」か「永遠の生命」か。
 父に差し入れてもらった本を読みふけり,サクとの交換テープで「読み終わった」と伝え,その世界観の一部を紹介していますから,「死んでも行きたい」という動機づけとしては「永遠の生命」の方でしょう。ただ,活字メディアと違って,映像メディアの場合,世界観という抽象的なものを表現するのは難しいため,一目で見て判るものとして「世界で一番青い空」を用意したのでしょう。
 ただ,この素材も,「聖地」や「世界の中心」といった関連付けから外れないように選ばれているということは言えるでしょう。

 (5月14日追記)
 大人サクの「亜紀は台風の日に独りで」というセリフを前提にすれば,映画では,サクどころか両親すらも亜紀の臨終に立ち会っていないことになります。とすると,唯一の遺言が律子に託されたテープですから,「亜紀の遺言を受けて両親が散骨」という原作やドラマのような「逃げ道」は用意されていないようです。
...2006/05/14(Sun) 09:17 ID:fVLEPdNU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:悩める映画ファン
 倒れて人事不省の危篤状態で病院に担ぎ込まれたと聞いたら何はさておいても駆けつけるのが家族というものではないでしょうか。
 それなのにどうして映画では今際の際の病室に家族の姿が見えないのでしょうか。列車利用の原作やドラマと違ってタクシーで行っているように空港との距離は映画が最も近いにもかかわらずです。
 どうしてもわかりません。どなたか「助けてください!!!」
...2006/05/15(Mon) 12:26 ID:KtFPB3WI    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 「最後の時,会おうとしなかった」という部分は,それだけで独立したスレが立つほど難解ですが,描き方は少しずつ異なるものの,映画もドラマも,サクは亜紀の臨終に立ち会っていないという設定は変えていません。このうち,急を聞いて両方の親がかけつけるという展開は原作とドラマに共通していますが,映画だけが何故か「孤独死」状態なのですね。
 原作では,臨終にこそ立ち会っていないものの,倒れて担ぎ込まれた病院で2人だけの会話を交わしています。ドラマでは,サクもまた力尽きて倒れ,気を失っているうちに亜紀は逝ってしまいます。
 では,映画のサクは,亜紀が空港で倒れてから亡くなるまでの間,どうしていたのでしょうか。病院に搬送される際に同行しなかったのでしょうか。誘拐容疑で警察の取り調べを受けていたのでしょうか。パスポートから身元はすぐに割り出せるはずなのに,どうして亜紀の家族の姿が見えないのでしょうか。

 それにしても,原作やドラマが題材だと,いろいろな解釈や意見が飛び交い,しかも,映画ファンの方からも鋭い指摘が寄せられるのに,映画に関する問題提起だと,なかなか明快な解決が出てこない(映画系のモノグラフ的なスレの多くが議論が低調なまま過去ログ落ちしています)のは,そもそもどうしてなのでしょうか。
...2006/05/18(Thu) 01:15 ID:ESXG.MVo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
行定監督はこの映画を「一種のファンタジーである」と言っています。
その言葉を裏付けるように「心象風景」あるいは「イメージカット」と思われるシーンが出てきます。

たとえば

※体育館で亜紀がピアノを弾き、サクと抱き合う場面
※幼い律子が「最後のメッセージ」を受け取って、部屋を出る時、亜紀が手品を見せるシーン

これらは、いずれも現実ではなく、サクや律子の「心象風景」なのでしょう。

というわけで、あの臨終のシーンも、サクが抱いている「イメージ」であると思われます。
...2006/05/19(Fri) 22:20 ID:ZtSCQHZs <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 朔五郎さん
 「ファンタジー」というコトバは,解釈が壁にぶちあたった時に「どうせファンタジーだから」と逃げ込むような使い方はしたくないのですが,「登場人物の誰々にとっての○○」を強調して描いた場合,どういう表現方法が考えられるか,そして,問題のシーンは制作側が何を意図したものだろうかと考えた場合の「キーワード」にはなりそうですね。

 この場合も,臨終のシーンが心象風景だったとすると,大木とのやりとりの中の「亜紀は@台風の中,A誰にも看取られずに逝った」という発言も,「事実に基づくもの」というよりは,「そう思い込んでいる」という色彩が強くなりますね。「喪失感」を描くにあたって,思い込みによって自らを追い込んでいるという設定にしたのかもしれませんね。
 さて,上記Aの部分が心象風景だったとすると,@の部分もそうである可能性が高まってきます。つまり,その前後の最も強烈な印象と記憶が交じってしまって,そう思い込んでいるという可能性です。

 とすると,ウルル行きの決行日と亜紀の死亡推定時刻との関係の矛盾も出口が見えてきたような感じがします。
 再掲になりますが,以下に,これまでの問題点を整理します。
 @決行を告げるテープで,もうすぐ誕生日と言い,空港ロビーでも誕生日の話題が出るが,それが今日・明日のこととは言っていない。
 A倒れてから一旦は持ち直してテープを吹き込んで律子に託した後,再び容態が急変するという展開が1日のうちの出来事としては不自然。
 B逆に,数日後に亡くなったとした場合,台風が何日も同じところにとどまっているのかという問題が生じる。
 C律子に託した最後のテープには10月28日という日付が明記してあるが,これを受け取った直後,律子は雨の中,交通事故に遭う。

 これは「亜紀は台風の日に逝った」というサクの「証言」を「事実」として考えた場合の矛盾でしたが,これが「心象風景」だったとしたら,話は別です。「行けるかなあ」との不安を抱きながら,暴風雨の中,ウウルを目指したものの,飛行機は欠航,亜紀はそのまま倒れてしまうという展開から,「台風」がサクの記憶に強く刻印され,その後の出来事の記憶にまで影響しているとしたら,どうでしょうか。
 もう一つ。サクの記憶とは別の問題になりますが,律子が交通事故に遭うシーンは,確かに雨の中の出来事ですが,律子は傘を普通に持っています。台風なら横殴りの雨で,大人でさえとても傘を普通に持つことはできません。とすると,これは台風が去った数日後の普通の雨の日のシーンである可能性もあります。ひょっとすると,「台風」を観衆に強く印象付けるための演出なのかもしれませんが,これによって解釈をミスリードされてしまうという副作用も生じてしまったようです。

 ともあれ,以上のことから,実際の「事実」は,以下のようなものだったのではないかと考えられます。

 誕生日の数日前の夜:台風接近
 その翌日の早朝:亜紀が空港で倒れる
      午後:台風が去る
  (この間のどこかで亜紀の家族も病院に
   駆けつけますが,サクとはすれ違いの
   ためサクの記憶にはなく,したがって
   画面にも登場しません)
 当日か翌日:亜紀,小康状態を得る
 数日(1〜2日)後の10月28日
  再び雨となる(台風ではない)
  亜紀がテープを律子に託す
  雨の中,律子が交通事故に遭う
  亜紀の容態が急変する

 律子の交通事故のことはサクは知りませんが,10月28日が同じ雨の日だったことから,サクの記憶の中では,この数日間の出来事が「台風の日」という一本の糸でつながって同じ日の出来事のように思い込んでいたのかもしれません。
...2006/05/20(Sat) 11:21 ID:fgdYW6gE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
今更ですが、もう一度これを聞いてみたいです。

「亜紀はなぜ、朔に最後のテープを残さなかったのか?」

1、最後まで一緒にいるつもりだったから
斎場のシーンで綾子がそう言っていますが、亜紀は朔を突き飛ばして行ってしまいました。結果的には駅で再会しましたが、あれでお別れになる可能性が非常に高かったことは、当然亜紀にもわかっていたはずです(それだからこそ、迷惑をかけるのがイヤで、ああいう行動をとったのでしょう)十分な「別れの言葉」があったでしょうか?あの瞬間までは、二人で行くつもりだったのでしょうか?

2、「ソラノウタ」がテープの代わりだったから
これは、ありうると思います。しかし、原作では「(普通の)交換日記をしていた」という設定を、映画やドラマでは、わざわざテープの交換に代えているわけで、そこまで「生の声」にこだわるのなら、「ソラノウタ」の《朗読》を吹き込んでおいても良さそうなものです(ちょうど最終回のあのシーンのように)
現に、他の人には手紙ではなく、声のメッセージを残しているのですから。
吉永小百合さんが、原爆についての詩を朗読するのを聞いたりすると、絵本とテープの両方が欲しいと私は思いますけれど。

ところで綾子は、亜紀が朔を振り切って、独りで行こうとしたことを知っていたのでしょうかね?
...2006/05/21(Sun) 19:23 ID:ldvdBDoM <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 このスレは、敷居が高いわけではないのですが、散骨の場所の問題など、自分自身よくわからない話題が多く、参加するのに躊躇している、ふうたろうです。

 ところで、朔五郎さんの問いですが、わたしは「2」だと思います。
 朔五郎さんの言われるように「生の声」にこだわるテレビ版ですが、だからこそ、あえて最後は「本」という形に、亜紀はこだわったのではないでしょうか。
 朔太郎にもテープだと、両親や友人たちと同列になります。亜紀にとって、朔太郎が特別な存在と思っているのであれば、これらの人々とは違った形で、自らの思いを伝えたかったのではないでしょうか。もともと、テープでの伝言を始めたのは、朔太郎の方からですし。

 また、「ソラノウタ」は単なる絵本ではないと、わたしは思っています。あの本には、朔太郎の撮影した空の写真が使われています。朔太郎との共同作品ともいえます。
 5話の夢島での夕食後に、朔太郎と亜紀が将来の夢を語り合うシーンがあります。あの時、朔太郎は「絵本の編集者の亜紀を、写真屋の自分がついて行けばいい」というような話をしたときに、亜紀が穏やかに微笑んでいたのが、とても印象的です。
 つまり亜紀は、自らの夢と朔太郎の夢とを融合させると、「ソラノウタ」のような形になるのだということを、暗示させたのではないかと思います。


 ちなみに、綾子のみならず周りの人々は、亜紀と朔太郎は病院から空港までずっと一緒だったと、ずっと(少なくとも2004年時点までは)思い込んでいたのではないでしょうか。
 亜紀亡き後、亜紀が朔太郎を振り切ったことを知っているのは朔太郎のみです。朔太郎はこのことを、ずっと口外しなかったのではないかと、わたしは思います。朔太郎は、亜紀を連れ出したことの全ての責めを受けようと覚悟していたはずです。そんな覚悟の朔太郎にとって、亜紀が振り切ったことをもらすことは、すなわち責任回避になると思っていたのではないでしょうか。亜紀自身は、朔太郎に迷惑をかけないように(責任をかぶらぬよう)、振り切ろうとしていたわけですが。
...2006/05/21(Sun) 20:58 ID:GyQ75gAQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
ふうたろうさん

なるほど、あえて他の人とは違う形にしたわけですね。良くわかります。
「ソラノウタ」は二人の夢そのものであり、それ以上の言葉や声は必要ないのだと。
私は大切なことを見落としていたような気がします。

朔が亜紀の行動を口外しないだろうということも、そのとおりだと思います。

貴重なご意見、ありがとうございました。
...2006/05/21(Sun) 21:08 ID:dGWVb7nI <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 朔五郎さん、こんばんわ。

 わたしの書込みは、思い込みの部分も多くありますので、「貴重な意見」であるかは…?。

 身に余る、朔五郎さんのお返事、ありがとうございます。


 
...2006/05/21(Sun) 21:42 ID:GyQ75gAQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>あえて他の人とは違う形にした(中略)「ソラノウタ」は二人の夢そのもの

 その「ソラノウタ」を渡しそびれたことに駅に着いてから気付くなど,「突き飛ばし事件」前後の亜紀の行動は,両親を「最後の晩餐」で病室に引き付けた隙にサクに荷物をとりに行かせた「策士」には見えません。
 ただ,「突き飛ばし」事件が全くの突発的なものだったかというと,前夜の「空を見に行こう」とサクが言った時の反応がそれまでに比べて不自然なのが妙に気になるのですね。「もう時間ない」から「後悔しないね」に至る流れからすると,いよいよ明日決行という段階では,もっと晴れ晴れした表情でもよさそうなものですが,実際は虚ろな感じです。次の展開を知った上で見ると,何か思い悩んでいるようにも読めます。
 とすると,振り切って独りで行こうと思いついたのは前夜なのかもしれません。

 その場合,次の問題が,テープを吹き込んだタイミングとの関係なのです。独りで行くことを決めた後の録音なら,サクの分はという問題が出てきますし,前もって録音していたとすると,あれだけのテープを見つからずに隠しておけるのかという問題が出てきます。
 こう考えていくと,もともと一緒に行くか独りで行くかに関わらず,サクには「テープ」ではなく2人の「共同制作」である「ソラノウタ」と決めていたと考えた方がスッキリします。まあ,ある意味,最後の最後でサクを「特別扱い」したことになるのかもしれません。

 その「ソラノウタ」を渡しそびれ,「十分なお別れの言葉」もなかったのは,どうやって振り切るかで頭が一杯だったせいかもしれません。
...2006/05/22(Mon) 00:04 ID:Fe396cWw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 これは全くの推測です。
 サクは「突き飛ばし事件」のことを決して口外しなかったであろうことは,皆さんのおっしゃるとおりだと思います。ただ,そのこととは別に,亜紀の両親が何も気付かなかったのかは吟味してみる必要があるかもしれません。
 その理由は,亜紀が両親に残したテープです。
 病院を脱け出してウルルを目指すにあたって,運命につぶされたくないとか,いろいろ述べていますが,そこで自らを「かっこつけ」と形容し,「最後のわがまま」と言っているのですね。
 では,「わがまま」の対象は両親だけでしょうか。旅に出るからには支度が必要であり,誰が,どういうタイミングで,どのようにして荷物を持ち出したかは,ちょっと考えれば判ることです。つまり,サクに対しても,かなりの「わがまま」を言っていることに亜紀の両親は気付いたはずです。
 もう一つ,「元祖・かっこつけ」の親が,もし自分がそういう立場に置かれたら,どういう態度を取るでしょうか。「かっこをつける」=独りで行くという可能性は考えなかったのでしょうか。
 そして,両親に宛てたテープという性格を割り引いて考えても,共犯者への言及が一切ないのは,なぜでしょうか。普通に考えれば,一言,「私が無理を言ったのだから,サクは悪くない(第6話)」といった言及があっても不思議ではありません。それが何もないのは,これを吹き込んだ時点で,サクを「共犯者」にするつもりはなかったとは考えられないでしょうか。そして,あの真にとって,その辺の「裏読み」はそれほど難しいことではなかったような気がしてならないのです。
 もちろん,これは根拠薄弱な全くの推測ですが・・・
...2006/05/22(Mon) 00:40 ID:Fe396cWw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 なるほど、にわかマニアさんのおっしゃるとおり、振り切ったことを綾子はじめ、周囲の人々が察する可能性はあったのかもしれませんね。両親宛てのテープからしても、空を見に行くこと(ウルル行き)は亜紀の強い意思であることが明らかです。朔太郎にのせられて「連れて行かれた」ものとは、真も綾子も思わなかったでしょう。
 ただ、その手際のよさというのか、病身の体でここまでできるには、やはり単独犯でなく共犯者がいたことも察していたと思います。その共犯者が朔太郎に間違いないことも。

 ここで気になるのは、亜紀が松本家に残したテープの中身です。朔太郎を共犯にしてしまったことの侘びか、夕食が共にして、自分が白血病であることを素直に受け止めてくれたことへの礼だったのか、はたまた、病に倒れて以降、朔太郎には本当にお世話になったことの礼なのか、想像するしかありません。
 この中身によっては、「単独」か「共犯」かが、周囲の人々もめどがついたかも知れません。
...2006/05/22(Mon) 06:10 ID:WaidgjN6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 2人の職場や学校が同じというのは恋愛小説の条件設定の一つではありますが,それだけでは足りません。何らかの「きっかけ」が必要です。
 「世界の中心・・・」の場合で言えば,弔辞のシーンがそれに相当します。原作ではこれを「ああ,これが自分の知っているアキだったのだ・・・不意に駆け出したい衝動にとらわれた」と表現し(24頁),ドラマでも「その時の気持ちはコトバにならない。ただ自然に足が・・・」というナレーションとともに,サクは亜紀に傘を差しかけています。
 では,亜紀からサクに対してはどうだったでしょうか。CDの貸し借りをするのを見かけたことで音楽の好みを知っていた原作,なぜかバイク通学のことを知っていた映画,いつも自転車のカギをなくすのを見ていて,そのことを告白テープに吹き込んだりキーホルダーをプレゼントしたドラマ。ともに,2人が知り合う前から亜紀はサクのことを観察していたことがうかがえます。

 映画とドラマの比較では,傘を差し出すという行為がない分,映画の方がサクの内面に走った衝撃を抑制的に描いているようにも見えます。ただ,いきなりバイクの後にまたがったりする亜紀に主導権が握られ,ある意味,振り回されっ放しの映画では,サクの側の衝動をあえて抑制的に描くことで,「受け身」ということを表現していたのでしょうか。
...2006/06/04(Sun) 07:22 ID:YD9aSwkE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作の舞台が宇和島で,2人の通った高校が宇和島東高であることは,ほぼ定説となっていますが,中学校については議論の余地があるようです。サクの学区が城南中であるのに対し,亜紀の方は城東中か城南中か説が分かれています。
 いずれにしても,一方がストレートに特定できるのに対し,もう一方は判断が分かれるということは,少なくとも小学校に関しては完全に校区が違うものと断定して構わないでしょう。つまり,2人は子どもの頃からの知り合いではなく,お互いに小さい頃のことを知らないという関係です。
 これは,そうしておかないと「名前の勘違い」という不自然な設定が入り込む余地がなくなってしまうことと無関係ではないかもしれません。

 さて,さすがにその不自然さゆえか「名前の勘違い」をカットしたドラマですが,それでも,幼稚園の頃からの幼馴染だったスケちゃん,ボウズ,智世に対して,亜紀とは高校で初めて知り合ったという描かれ方です。しかし,そこには「学区が違う」ということとは別の点で,気になることがあります。
 徒歩圏か自転車通学かという違いから,2人の家はそれなりに離れている(もちろん,バスで40分というロケ地の実際の位置関係は論外)とは考えられますが,宮浦という町は,中心市街地が何箇所もあるような描かれ方ではありません。そして,「町の人気者(第3話での会葬者の会話)」だった祖父の写真館は,陸上部のランニングコース上に位置しています。ということは,町の中心部の近くと考えられます。
 サクに「連れていって欲しい所がある」と言って,その松本写真館を訪ねた亜紀は,そこに飾ってある写真が誰かを当てていますが,あの雰囲気は,この時が初めてという感じです。となると,亜紀は七五三や入学式の写真をどこで撮っていたのかというのが気になってきます。
 また,亜紀はサクたち4人の幼馴染のことを羨ましく思っているようで,夢島に誘われた時も,それまで一緒に騒ぐ仲間がいなかったと述べています。同じ学区から進学した仲間だっていたはずなのにです。
 こう考えると,どうも,ドラマの場合,亜紀は小学校・中学校の頃は別の町で過ごして,高校に進む時点で宮浦に移り住んできたのではないかという感じがします。そうすることで,過去の接点がないという原作の設定を強調しているような印象を受けるのですが,皆さんはいかがですか。
...2006/06/04(Sun) 08:07 ID:YD9aSwkE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 多分、亜紀は中学生か高校生になった時点で、宮浦に越してきたというのが、すんなりいくような気がします。

 では、なぜこの頃に廣瀬家は、宮浦に移り住んだのでしょう。
 亜紀の葬儀を見ていると、仏式でありながらボウズの父にお経をあげてもらっていません。つまり、ボウズの実家の寺の檀家ではないということです。そうすると、推察するに、真はそもそも宮浦に縁がある人物ではなかったのでは、とも考えられます。
 綾子はどうかというと、正直に言って、宮浦に縁があるのかないのかわかりません。10話で綾子が朔太郎に、「うちの両親が写真欲しいって言ってるから、焼き増しして」と言っているのですが、これも綾子と両親との地理的距離を推測できるものではありません。
 ただ、地方で真が建築事務所をもって自営するということは、この土地に何らかの地縁・血縁が必要な気がするのです。

 これらを状況証拠で、わたしなりに推察すると、

@ 真は東京、あるいは大都市圏で建築事務所に勤務し、廣瀬家は勤務地から比較的近い所の賃貸マンションに居を構えていた。
A 真は男兄弟がいて、長男ではなかったため、真の両親は兄が面倒を見ていた。
B 綾子は、兄弟がない、もしくは姉妹の長女で宮浦に住む両親の面倒をいずれはみなければならなかった。
C 真はいずれ独立して建築事務所を営みたいと考えていたが、何かのきっかけで、綾子の故郷の宮浦に移り住み、ここで建築事務所を開業した。
D 宮浦に移ってきた当初は、自営のための資金が必要だったので、宮浦もしくはその周辺の賃貸マンション住まいだったが、事務所の経営も順調になった時点で、自宅を構えた。

 という、流れになったのですが。で、CかもしくはDの時点で、亜紀は中学生か高校生だったのではないかなと思うですが、いかがでしょう?

 推察の詰めが、甘いのはご勘弁ください。
...2006/06/04(Sun) 18:13 ID:kyasibyE    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 四国と言うと,弘法大師の地元で八十八箇所もあることから,真言宗のイメージが強いのですが,原作でサクと祖父が遺骨を失敬しに忍び込んだ金剛山大隆寺は禅宗(臨済宗)です。ドラマに登場するボウズの実家という設定の禅海寺も臨済宗ですが,最終回のラスト近く,校庭での散骨の前に思い出の地を訪ね歩くシーンに登場する際には,宗派名と寺院名を明記した寺門を,細工を施すことなく,そのまま映しています。このあたり,原作に登場する寺を意識して,あえてそのまま映したのかもしれません。
 さて,第3話の祖父の通夜では,ボウズの父が導師を務めていますが,そこで読まれるお経は観音経です(「念彼観音力=ネンピーカンノンリキ」という言葉が何回も繰り返されています)から,宗派とお経の関係が符合しています。
 ここまでは解読できたのですが,亜紀の葬儀の際のお経がよく判りません。亜紀の戒名は「千和院風草紀颯信女」で,「阿」・「釈」・「妙」の字を含んでいませんから,少なくとも,浄土宗や日蓮宗でないことだけは確かなのですが,お経を解読しないことには,そこから先に進めません。サクの家と同じ臨済宗である可能性も否定しきれません。
 導師がボウズの父でないことは映像上,明白なのですが,宗派が違うためか,檀家でないためなのか,今のところ判断がつきません。状況証拠的には,ふうたろうさんの推察のとおりだとは思うのですが,どなたか,あの最終回のお経を解読なさった方はいらっしゃいませんか。
...2006/06/07(Wed) 01:06 ID:qVLod2yY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 にわかマニアさん、こんばんわ。

 11話のラストで校庭に散骨の前に、1話で亜紀が弔辞を読んだ寺を、緒方朔太郎が訪ねますが、わたしは、てっきり散骨の場所を探して、あの寺を訪ねたのだと思っていました。

 3話の謙太郎の散骨場所を山田朔太郎が探し回ったように、「ソラノウタ」を松本写真館で読み終えた緒方朔太郎は、自転車でさまよい回り、そのひとつとして、あの寺にも寄ったのだと。わたしは、堤防やアジサイの丘(頂上まで上ったかはわかりませんが)だとかも回ったけれども、時間の制約もあって、寺に寄るシーンが映像として流れたのだと思っていました。
...2006/06/08(Thu) 19:57 ID:vYSnFqSc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 亜紀が空港で倒れた後,病室に招き入れられ,会話も交わした(159〜161頁)原作では,サクは斎場まで同行し,亜紀がこの世から消えていく煙を不思議な気持ちで見送っています(168〜170頁)。とはいえ,事態を受け容れ,向かい合えるような状態でもなかったことは,「毎日を生きることは精神的な自殺と復活を繰り返すようなものだった」等と表現されています(171〜172頁)。
 「最後に会おうとしなかった(179頁)」ことを強調するためか,サクも倒れているうちに亜紀が逝ってしまい,ほぼ「即死状態」とも言える結末のため,サクは葬儀からも逃げたという展開がドラマです。しかも,サクが意識を取り戻した時,「体は回復しても心が現状を受け容れるには時間がかかる」と医師に語らせています。まさか,この時点で「全治17年」とは予見できなかったでしょうが・・・

 では,映画はどうだったのでしょうか。事実上の「遺言テープ」が「もう会わない方がいい」と言っているのは「最後の時,会おうとしなかった」という部分の映画的表現なのでしょうが,サクは葬儀には出たのでしょうか。
 「亜紀は独りで死んだ(雨の体育館での大木との電話)」というのがサクの「心象風景」だとすると,これとの関係で,「葬儀にも出てやれなかった」ということまで意味しているのか,妙に気になるのです。

 もう一つ,これとの関係で,朔五郎さんからの問題提起との関連も含めて気になるのが,亜紀は両親に何も遺言しなかったのか,亜紀の両親は,亜紀の死後,どうしたのかということなのですね。
 つまり,サクに対しては,テープという形で遺言を残している(届くのに17年もかかったのは誤算でしょうが)のに,両親には何も言い残していなかったのでしょうか。ウルルに撒くということは,サクと2人だけの「永遠の秘密」だったのでしょうか。
 原作とドラマにあって,映画に明示的に描かれていないのが両親による散骨なのですが,これは描くのを省略しただけなのでしょうか。それとも,そもそもそういう事実は存在しなかったというのが映画の立場なのでしょうか。
 もし,映画が後者の立場に立っているとするなら,意味は理解しないまでも,曲がりなりにもサクの手からも撒かれた原作や,サクには撒けなかったにしても,その意味を理解した父の手によって撒かれたドラマと比べて,誰からも理解も実行もされなかった映画の亜紀は「まったく浮かばれない」ということにならないでしょうか。
 もっとも,そこまで思い詰めるほど,映画版のヒロインがアボリジニを理解し,それにハマっていたか,映像上の表現だけでは判断がつかないという面もあるのですが・・・
...2006/06/11(Sun) 14:50 ID:/reXzWmc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 難しい問いですね。

 亜紀と両親との関係が、どんなものだったのかは描かれていませんし、その両親と朔太郎との関係は、夢島から帰りに父親から殴られ、また、病院で父親が「何もやってやれない」と嘆くのを聞くぐらいしか描かれていません。ですから、製作者のこの部分の意図を類推するにも、かなり無理があります。



 全くのカンで書かせてください。

 多分、亜紀が空港で倒れた後、入院していた病院に戻っているのでいるので、ここに至った理由を両親は知ることになるのでしょう。でも、「わたしの灰を、ウルルの風に撒いて欲しい」という遺言は、朔太郎だけのものだったと思います。

 亜紀がウルルのことを知ったのが、夢島で拾ったカメラのネガを現像してからでした。夢島の思い出は、朔太郎と亜紀の「二人だけの世界」です。その「二人だけの世界」から派生したウルルですから、亜紀はウルルでの自分の散骨を、朔太郎の以外の人に関与させようとは思わなかったような気がします。

 そう考えると、映画版では亜紀がウルルに思い入れを深めたのは、アボリジニの思想などよりも、朔太郎との夢島での思い出の象徴であったからではないかと、この書き込みをしながら考えるようになりました。

 でも、映画版の亜紀は、朔太郎との恋愛期間にしても、亡くなり方にしても、また、その後の朔太郎からの思われ方にしても、なんとなく寂しさというのか、物悲しさを感じます。
...2006/06/11(Sun) 17:21 ID:Y0BSC97o    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニアさん

映画版のサクは(たぶん)葬儀には出ているでしょう。タイトルロールで、防波堤の上を走るサクが転び、起き上がって叫ぶシーンがあります。この場面は「アキの葬儀の後」と説明されていたと思います。時期的に、なぜ学生服の上着を着ていなかったのかは不思議ですが(^^;;;
サクは「アキは一人で死んでいった」と言っていますから、アキの死そのものは現実として認識していたわけで、上のシーンと併せて、葬儀には出たと考えるほうが自然だと思います。
...2006/06/11(Sun) 17:52 ID:oI8I5ZJY <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 朔五郎さん
 防波堤で転んだサクが絶叫するシーンが葬儀の後のものというDVDの解説は私も読んで承知しているのですが,映像そのものがそのように明示的に表現している訳ではないため,別の解釈も可能かなという意味で,あえて「おとぼけ質問」をしてみたのです。
 と言うのは,朔五郎さんのそもそもの問題提起をうまく解決するには,「亜紀の意を体した両親によってウルルでの散骨が実行される」という設定が欠かせないものと考えたからなのですね。ところが,映像が明示的に提供する物語の展開では,サクは「ウルルに撒く」ということは17年遅れのテープで初めて聴いたように描かれています。とすると,サクは原作やドラマのように両親による散骨行には同行していないということになります。
 これを整合的に解釈するには,サクは亜紀が空港で倒れて以降,亜紀の実家からは葬儀も含めて「出入差し止め」になっていたと考えるしかないのですが,ここのところについて,朔五郎さんはどう考えておいでですか。
 
 なお,もう一つの可能性として,亜紀がウルルに撒いてと言ったのは,映画版に関しては,アボリジニの世界観とは別の事情(夢島での2人だけの思い出)によるのではないかという,ふうたろうさんの解釈もありうるとは思います。ただ,この解釈をとってしまった場合,その論理的な帰結として「映画版は原作の解釈を誤った(注釈後述)」という,私にとって(おそらくは朔五郎さんもでしょうが)耐え難く,できれば避けたい結論に辿り着いてしまうのですね。もちろん,だからと言って,映画版が駄作だと論難するつもりは毛頭ありませんが・・・

 (再掲)
 原作とドラマにあって,映画に明示的に描かれていないのが両親による散骨なのですが,これは描くのを省略しただけなのでしょうか。それとも,そもそもそういう事実は存在しなかったというのが映画の立場なのでしょうか。
 もし,映画が後者の立場に立っているとするなら,意味は理解しないまでも,曲がりなりにもサクの手からも撒かれた原作や,サクには撒けなかったにしても,その意味を理解した父の手によって撒かれたドラマと比べて,誰からも理解も実行もされなかった映画版の亜紀は「まったく浮かばれない」ということにならないでしょうか。

 (注釈)
 原作の派生作品が原作の設定を一部変えることはよくあることです。しかし,原作が触れていない部分に独自の解釈を加えることと,根幹に関わる設定に変更を加えることとは全く意味合いが異なります。
 この物語における「死と再生(あるいは永遠の生命)」をモチーフとする「アボリジニの世界観」は,亜紀にとっては状況を受け容れる「カギ」であると同時に,サクにとっても「喪失感のその後」という点で「カギ」となる部分ですから,少なくともこの部分に関しては,原作の設定を変えるのは「制作者の裁量」の範囲を超えているのではないでしょうか。
...2006/06/11(Sun) 18:58 ID:/reXzWmc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニアさん
サクが「出入り差し止め」になったということはないと私は思います。
サクはリュウからの電話で「アキは最期にオレと会おうとしなかった」と言っています。つまり、両親が会わせなかったのではないということです。
また、そのような断絶状態なら、最後に撒いた遺灰をもらうことも不可能です(また盗んだ、というのはちょっと考えたくありません)
なにより、あのような状況でサクにすべての責任を負わせ、アキの死後も許さない、というのはいかにも狭量であり、ストーリーとして全く魅力のないものになってしまいます。
あれだけ愛した恋人が死んだのなら、葬儀には出るというのが「普通」の解釈です。
ドラマのように特に説明がなければ、葬儀には参列したと解釈して差し支えないと思います。
...2006/06/11(Sun) 21:10 ID:TLgiFv1g <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア@シュリーマン
 朔五郎さん

>ドラマのように特に説明がなければ、葬儀には参列したと解釈して差し支えないと思います。

 まったくおっしゃるとおりで,ドラマは「常識的な展開」ではないから,わざわざ視聴者が納得できるような説明を設定したのだと私も思います。
 しかし,このような苦し紛れの解釈までしてもがいているのは,朔五郎さんの問題提起である散骨場所の問題がうまく解決できないためなのです。両親による散骨という逃げ道が用意されない限り,映画だけが亜紀は誰からもアボリジニの聖地に撒いてもらえなかったという展開になるのですが,物語のテーマの根幹にも関わるこの点について,言い出しっぺの朔五郎さんは,どのようにお考えですか。

 あるいは,あまりに直接的な表現は失礼かと思って遠まわしの設問になった分,議論が回り道してしまったかもしれません。ご無礼があればお詫びいたしますが,朔五郎さんは,映画も原作の哲学が何らかの形で反映されているはずだという信頼なり前提のもとに映画を解釈していらっしゃいますか。それとも,アボリジニの聖地での散骨という根幹のテーマについて,映画に関しては諦めておいでなのでしょうか。
...2006/06/11(Sun) 21:41 ID:/reXzWmc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
にわかマニアさん
結論から先に言えば「あきらめています」(苦笑)
この点については、どうにもなりません。そもそもアボリジニ関係の本を読んでいたという場面もあまり印象にありませんし「二度の埋葬」の話も、亜紀の死後十七年も経ってから、サクが現地の人から聞かされるという設定になっています。したがって、両親のウルル行きも無かったということでしょう(あればアキの親から「二度の埋葬」について聞いているでしょうから)

それに素朴な疑問ですが、サクと律子はなぜヒッチハイクみたいなことをしていたのでしょう?
ウルルを「観光地」として扱うことについては議論のあるところでしょうが、あの当時でもパッケージツアーみたいなものはあったはずで、目的が目的なだけに、確実にウルルに到達できる手段を選択するべきだと思うのですが………

というわけで、映画については「別モノ」であると解釈しております(^^;;;
...2006/06/11(Sun) 22:51 ID:oI8I5ZJY <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 朔五郎さん,大変失礼いたしました。
 皆さんには,公共の掲示板を「往復書簡集」的に専用使用してしまい,申し訳ありませんでした。

 そう言えば,アボリジニの世界観を現地のガイドなり運転手なりから聞くのは原作と同様とは言っても,両者の間には17年もの時の開きがあったのですね。そうなると,名前の勘違いと同様,映画版のサクは亜紀の願いも知らなかったということになってしまうのですね。律子のことも何も知らないし,自らの名前の由来も正確には知らないという点で,ある意味,映画版のサクは「知らないづくし」の感があります。あるいは,そこを計算しての設定なのかもしれませんね。

 律子とのウルル行きがヒッチハイクだったという点も,よくよく考えてみると,確かに不自然ですね。もちろん,定期便が通っているような場所ではないということを表現したかったのだろうとは思いますが,それにしても・・・
 と言うのは,もちろん朔五郎さんご指摘の「確実な手段」という問題もありますが,先住民族と白人政府との間に呼称や所有権を巡っての争いがかつて存在し,先住民族にとっては宗教上の聖地でもあるとなると,それなりにデリケートな扱いが求められることに気付くのが普通なのですね。常識的に考えると,大使館かどこか然るべきところに相談するなどして,どこかで車をチャーターしてから行きそうなものですが・・・
 これでは,亜紀の名前や願いだけでなく,重病人を連れ出してまで目指した場所の意味も知らなかったということになってしまいます。でも,それにしては,ウルル行き決行を告げるテープの中では「約束の場所」という聖書めいた言葉も使っているのも,「ファンタジー」の中から何とかトロイ遺跡を掘り当てようとしているシュリーマンにとっては気になるところです。


 (6月15日追記)
 「亜紀は「永遠の生命を持った精霊」として、皆のとなりで生きている」
 これは,第二世代の青春群像を描く続編スレの設定における基本コンセプトなのですが,この命題が成立するには,@本人がそういう死生観・世界観に傾倒するということと,A周りもそれを理解し,そのように扱うという2つの条件が満たされる必要があります。
 そして,原作もドラマも,@については,亜紀はかなりアボリジニ関係の書物を読み込んでいるように描かれていますし,Aについても,両親は散骨のためサクを伴ってアボリジニの聖地に出かけています。
 現地のガイドに聞くまで二度の埋葬の意味を知らなかった反面,曲がりなりにも全員の手によって送られる原作と,この世界観が父の口から語られる(少なくとも父はその意味を知った上で送っている)反面,サクの手からは撒かれない(一部は風に飛ばされているものの)ドラマでは,微妙に設定が変えてありますが,いずれにしても,@とAの条件は満たされています。

 ところが,映画では,忘れ物のカメラに残された未現像のフィルムというきっかけからして,それほどアボリジニの世界観に傾倒していた感じではありません。本人ですらそうですから,サクがそこまで思いを馳せるというのも無理な話です。では両親はということで,あれこれ苦し紛れの解釈を試みたものの,うまくいきませんでした。

 では,なぜ亜紀は,映画でも「ウルルに撒いて」と遺言したのでしょうか。原作にあったからという消極的な理由なのでしょうか。編集者がつけたタイトルの説明をつける必要に迫られてのことなのでしょうか。
 それなら,わざわざ車を故障させないで目的地に行かせてあげてもよかったはずです。

 このように考えていくと,アボリジニの死生観という原作の哲学と折り合いをつけようとすると解釈が苦し紛れになるし,そこを開き直って諦めて,「映画は映画」と割り切った場合には,今度は「なぜラストがウルルではないのか」という壁にぶつかってしまうのですね。映画は映画ということであれば,どうしてラストも独自路線にしなかったのでしょうか。
 ラストは原作どおり聖地以外の場所で,でも哲学は踏襲していないというのでは,首尾一貫していないような気がするのですが,朔五郎さんをはじめ映画ファンの皆さんは,この点は,どのように折り合いをつけていらっしゃいますか。
...2006/06/11(Sun) 23:51 ID:/reXzWmc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:朔五郎
これは、あまり角度の高い情報ではないのですが、映画でウルルまで行けなかった理由は

「監督がそのほうが良いと思ったから」

という話を聞いたことがあります。監督がそう思った理由については、私は聞いておりません(苦笑)

いずれにせよ、そのこと自体に深い意味を込めて制作された訳ではないような気がします。一時は「とんでもない演出だ」と怒っていましたが、今はもうやめました(苦笑)
また、シナリオを読み返してみても「そこが現地の人々の聖地で、世界の中心と呼んでもいいくらい」だから行ってみたい、と言っているのみです。
つまり映画では、ウルルというのはそれくらいの意味しかない、ということだと思います。
元々、原作の中には存在しなかった「世界の中心」というコトバを、あの巨大岩石で具現化したということでしょう。
行定監督にしてみれば、そこの説明に時間を裂くのなら、もっと見せたいものがあったのでしょう。
ちなみに私は、この映画の見所は「夢島」までの前半部に凝縮されており、後に行けば行くほどチグハグになってくると感じていますので、そこらへんは割り切って鑑賞しております。
...2006/06/15(Thu) 22:24 ID:rPTfSoLo <URL>   

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 映画が「後に行けば行くほどチグハグに」という点に関して,ある方が別スレで「主人公の断片的な記憶を映像化したものという構成上,体系的に整理されたものではない」という見解を述べていらっしゃいます。確かに,2時間という持ち時間での描き方としては,一つの方法と言えるでしょう。
 さて,この考え方を前提として「映画の謎」を考えるならば,いくらヒロインにとって重要なできごとであっても,主人公とのやりとりを通じて記憶に残っているものでなければ映像的には提示されないということになります。とすると,亜紀と「アボリジニの世界観」の関係は,まさにその映像的空白部分に属するものと考えられます。

 では,空白部分が観衆の解釈に委ねられているとして,全くのフリーハンドで解釈していいのかといえば,そこは原作の哲学を指針として解釈すべきなのではないでしょうか。
 私が気になるのは,亜紀が散骨を遺言し,ラストシーンが散骨シーンであることは原作・映画・ドラマに共通していますが,最もアボリジニの印象の薄い映画こそが逆に「亜紀がアボリジニに傾倒していた」という設定を最も必要としているということなのです。

 そもそも,儀礼としての散骨が墓地埋葬法に違反しないという法務省見解が出されたのは90年代に入ってからのことですし,現在でも,それほど普及している訳ではありません。したがって,80年代後半(映画・ドラマ)や90年代初頭(原作)を舞台とする物語では,「散骨」という発想が飛び出してくるには,それなりの強い動機付けを必要としてきます。
 さて,原作とドラマは,まず散骨の願いが祖父の口から語られ,特にドラマでは「想定問答」ではなく,実際に散骨場所を訪ね歩き,実行しています。つまり,「二度の埋葬による永遠の生命」という哲学に触れる前から「散骨」というキーワードがインプットされていることになります。
 ところが,映画では,確かに重ジイは「骨を盗み出す」ことを頼みますが,それを「一緒に撒いてくれ」とは言っていません。むしろ,後生大事にしまっておいたという感じです。とすると,亜紀から「骨アレルギー」を薄めるということはありえても,「散骨」という発想を植えつけるというところまでは至っていないと考えた方が自然です。
 にもかかわらず,映画の亜紀も,はっきり自分の口から散骨を希望しているのですね。ということは,未だ「散骨」という発想をインプットされていない分,原作やドラマ以上に強烈な動機付けを必要とするということになります。
 したがって,映像的にアボリジニの世界観が提供されていないのは,サクの印象に残っていないというだけであって,実際の亜紀は原作やドラマ以上にアボリジニにのめりこんでいたのではないでしょうか。
...2006/06/16(Fri) 13:00 ID:LkVX1m6I    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 このサイトのトップページの「セカチューの謎」というコーナーには,「結局のところ,サクは亜紀と小林(ドラマに限定せずに一般論化して言えば「新しい恋人」)のどちらを思って生きていくのか」という問題提起があります。これは,原作・映画・ドラマで描き方に微妙な温度差があるものの,喪くした恋人の骨を何年か後に撒いたというだけでなく,その時には新しい恋人がいたという物語の展開上,誰もが思う問いかけです。
 この問いそのものに対する私見は,ここでは留保しますが,掘り下げていくと,かなり深いテーマです。

 さて,この問いかけは,いきなりサクに対して投げかけられている訳ではなく,その前段として,祖父の恋物語が置かれています。原作では,亜紀はサクからの「また聞き」ですが,祖父のところを訪ねた2人が直接,話を聞くというのがドラマの展開です。
 そこでは,サクと亜紀の間で「好きな人と一緒に暮らすことと,別な人と暮らしながら好きな人のことを思い続けることと,どちらが幸福なのかしらね〜一緒にいると,その人の嫌なところも目にするじゃない」vs「10年後にはもっと好きになっている。最初は嫌だったところまで好きになる。そして百年後には・・・」(原作73〜74頁・ドラマ第2話の写真館からの帰路とアジサイの丘)というやりとりが交わされ,その問いがやがてサク自身に問われることになるという構造になっています。

 ところで,こうした構造が成立するには,祖父もまた恋人と結ばれなかった後,別の人と一緒になったという展開を必要とします。実際,原作やドラマには話の中だけでの存在ではあれ「祖母」が登場します(ドラマでは,仏壇に祖父と並んで祖母の遺影も飾ってありました)。
 しかし,唯一,家族の存在を感じさせないのが映画の重ジイなのですね。

 つまり,映画の場合,骨を取り出した場面で「永遠の恋」というテーマでの会話は交わされますが,原作のような会話は登場しません。というか,対比すべき相手方が存在しないので登場のしようがないのですが・・・
 この違いは,どう解釈すべきなのでしょうか。

 確かに,原作の設定年代を骨髄バンク設立以前に繰り上げる一方,ストマイの開発時期との関連で祖父の年代は据え置かざるを得なかったために,実の祖父と孫の関係にするには年齢上の矛盾を生じてしまうということもあって,映画では,重ジイをサクと血縁関係のない人物として描いています(ドラマでは,潤一郎について養子説や連れ子説が出されています)。しかし,だからと言って,そこに結婚相手が登場していても一向に不都合はないはずなのですね。
 ところが,映画に限っては,「死んだら愛も終わりか」とか「永遠の恋」というふうに,ある一つの愛だけを取り上げ,その深さのみを問題にするという構造であり,そこに「再婚相手」の登場する余地がないのですね。原作では名前のない存在として描かれていた「新しい彼女」に律子という具体的な固有名詞を付与し,位置付けも重くしているにもかかわらずです。
 映画では2人の恋愛の深さだけを問題にしたのでしょうか。しかし,もしそうだとすると,この物語は「単なる純愛もの」になってしまい,喪失感の「さらにその後」がどこかに飛んでいってしまうのではないでしょうか。
 深い純愛を前提に,それを喪くした後に「再婚相手」が現われ,さて「どちらを思って生きていくのか」というのが少なくとも原作のテーマではないでしょうか。

 もう一つ。最後のテープで亜紀はサクに対して「もう会わない方がいい」と言い,「あなたはあなたの今を生きて」とすら言っています。しかしこれは亜紀の側の一方的な意思表示であり,サクがそれを受け容れたかどうかは別の問題です。
 それとも,映画の脚本家は,散骨を果たすことによって亜紀は「過去ログ入り」してしまい,「亜紀と律子のどちらを」という問題はそもそも生じないと考えていたのでしょうか。確かに,大木にしてもボウスにしても,亜紀は「過去の存在」という描かれ方ですが,サクまでそうだったとすると,余りに淡白な感じではないでしょうか。

 映画ファンの皆さんは,原作のメッセージとの関連において,この問題をどのように考えていらっしゃいますか。
...2006/06/27(Tue) 13:00 ID:Uc6tVvaA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 今日は「広瀬亜紀」に遅れること8箇月と1週間,「廣瀬亜紀」の36回目の誕生日ですね。恋人を喪くした当事者にしてみれば,「7月2日は何も考えたくない」(第1話のナレーション)ところでしょうが,「7月2日なるがゆえに」あれこれ考えてしまうのが「謎解き」ファンということで・・・

 この物語は,話者の眼を通じて語られる一人称小説と,それを原作とする映像作品ですから,登場人物はそんなに多くありません。その中でも,背景に「歴史」を背負って登場するのは「祖父」だけです。
 さて,その「歴史を背負う存在」として,自らの若き日の恋愛物語を語り,主人公たちに問題提起をするという点では,原作・映画・ドラマは共通しています。ところが,別の事情から,映画の重ジイは主人公と血縁関係のない人物とされたことで,近親者でなければなしえない「名付け親」と「渡航費用の調達者」としての役割まで担わせる訳にはいかなくなってしまいました。

 このため,冒頭,台風の迫るオフィスで徹夜明けの大人サクの口から語られるように,映画では,サクの名付け親は「父親」ということに変更されています。このこと自体は,実の親ですから何の不思議もないのですが,サクの父親は,夢島と大人サクのオフィスでいずれもサクの口から名前の由来が語られる際に「話題の中に」登場するだけで,画面には一度も登場しないのですね。
 もともと,原作では両親の存在感が薄いのは事実ですが,祖父の代役の役目を担っているとなると,話は別です。ただでさえ持ち時間が限られている映画ですから,登場人物を絞りたいという意図は判るのですが,なぜ亜紀の両親やサクの母親は登場するのに,父親が登場しないのでしょうか。

 これとの関連で,映画版の謎の一つが,サクはウルル行きの渡航費用をどうやって工面したのかということなのですね。
 「行きたいね」・「行こう」のやりとりからして「軽いノリ」という感じですが,高校生にとってはとてつもない大金なのに,映画ではその言及が一切ないのですね。「このままでは行けない大変なことを忘れていた」というテープに,一瞬,旅費の工面のことかと思ったら,「パスポート」という極めて「事務的」な話題に肩透かしを食らったような感じがしました。まあ,これはこれで,結婚写真につながる流れとして必要な展開ではある訳ですが・・・
 では,サクは渡航費用をどうやって工面したのでしょうか。そもそも,費用のことなど考えもしていなかったような描かれ方でしたが,原作やドラマのように「祖父」が存在しない以上,父親が工面したと考えるしかなさそうなのですが,映画はこの点について一切沈黙しているのですね。
 画面に登場しないということは,企業駐在員か何かで単身赴任という設定なのでしょうか。それなら,渡航費用くらい何とかなるかもしれませんが,画面で見る限り,ごくごく普通の家庭という感じでしたが・・・

 映画ファンの皆さん。助けてください!!!
...2006/07/02(Sun) 14:28 ID:i3dTb69.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 渡航費用は、亜紀の父に出してもらったというのは、いかがでしょう。

 と思ったのも、病院廊下で朔太郎と亜紀の父親が座ってるシーンがあり、「何もしてやれない」と父親が嘆いていましたよね。亜紀の希望(長澤亜紀の場合、ウルル行きが「願い」というまであったのかは、はなはだ疑問ですが)を亜紀の父に朔太郎が伝え、彼が費用を調達したという筋書きで。

 映画での朔太郎と秋の父親との関係も全くわかりませんが、ただ、嘆きを語り合える関係であったわけなので、そんなふうに、想像しました。

 ただ、そうなると病状の悪化してる亜紀のウルル行きを、両親が黙認していたということになり、物語の大きな流れからすると矛盾しちゃいますよね。

 あえて、ここは考えないことが正解だったりするのかもしれません。ただ、ファンとしては疑問として残るわけで、本当に「助けてください!」ですね。
...2006/07/02(Sun) 15:44 ID:wT0GTWVQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 ふうたろうさん

 渡航費用を用立てたのは亜紀の両親というのは,死角になっていました。
 もし,そうだったとすると,亜紀の願いを両親は知っていたということになりますから,遺言テープがサク宛てのものしかなかったとしても,両親の手によってウルルに撒かれた可能性も出てきますね。

 そうだとすると,ラストがウルルではなく,ウルルに向かうどこかなるがゆえに,「アボリジニの聖地で永遠の生命を得る」という亜紀の願いは無視された形になり,亜紀は浮かばれないのではないかという以前からの懸案も一気に解決へと向かうことになります。
 ただ,その場合,サクに声をかけた形跡がないというのが難点になってきますが・・・

 もう一つは,律子と再会した雨の空港でサクは「亜紀はここまでしか来れなかった」と言っているのですが,この解釈との関連も気になるところです。つまり,これは「ウルルに行くこと」だけを目的ととらえての発言なのか,「行った先に何を求めていたか」まで理解しての発言だったのかということなのですね。
 それによって,このセリフの後段の「後片付けに行く」という意味も変わってきます。つまり,自分のケジメなのか,亜紀の遺志を受け継いでという意味も込められているのかということなのですが,そこで大きな壁になってくるのが,目的地に着く前に車が故障してしまい,そのままそこで散骨してしまったこととの整合性をどう説明するかなのですね。

 (7月7日追記)
 それにしても,この問題を考えるにあたっては,亜紀自身がどこまでアボリジニの世界観を理解した上でウルル行きを考えていたのかがキーポイントなのですが,決め手が見つかりません。
 もともと映画は小説の行間を読むように,あえて素通りした部分を解釈で補強しながら見るという性格を宿命づけられているのですが,提供された映像がむしろ解釈を逆方向にミスリードしかねない「軽いノリ」の会話というのが悩ましいところです。あるいは,金策よりもパスポートのことを気にするような軽さと,写真館での「忘れられるのが怖い」という重いセリフの対比から全てを察してくれということなのでしょうか。

 再び映画ファンの皆さん。助けてください!!!

 (7月12日追記)
 そのパスポートにしても,写真をどうするかというのは画面に登場しますが,戸籍謄本と住民票と渡航費用の証明書類(原作のように修学旅行の場合は旅行代理店の引受証明で代用できたのでしょうが)も必要ですよね。まあ,重ジイの写真館の前を通るバスが「役場行」となっていましたから,お見舞いの合間を縫って手配したのでしょうか。
 内緒の行動だけに,両親には頼めなかったでしょうし。でも,申請時に未使用の葉書を提出し,それが本人の自宅あてに返送されてきますから,入院中の亜紀がどうやって両親に見られないように葉書を受け取ったのかも謎ですね。
...2006/07/03(Mon) 22:36 ID:wr4fxN6k    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:テープの運び屋
>入院中の亜紀がどうやって両親に見られないように葉書を受け取ったのか

 「テープの運び屋」律子に数日間だけ「家の郵便受を見てきて」と頼んだのではないでしょうか。
...2006/07/17(Mon) 15:05 ID:SIOb0L/c    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:中川僧正
 「短い闘病期間でどうしてあれだけアボリジニの世界観にハマることができたのか」という謎に対する答えがドラマの場合は最後に「ソラノウタ」として復唱される「冒頭の弔辞」です。とすると映画における弔辞はどうだったのでしょう。映画の弔辞の出典(がもしあるとするのならば)をご存知の方はいらっしゃいませんか。
...2006/07/18(Tue) 18:12 ID:syX40h7o    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 「始まりはすべての続きに過ぎない」という弔辞ですね。
 確かに,「生命の連続性」や「永遠の生命」につながる表現だと思いますが,葬儀での弔辞だと,普通は「始まり」ではなく「終焉」の意味から入るところなのかなという気もしています。おそらく,この後に,何かの「終焉」を受けて何かの「始まり」があるといった内容のメッセージが続くのでしょうが,そこは雨のために観衆の前に提示されることのないままとなってしまいました。
 ドラマでは,この時に画面が切り替わって視聴者に提示されなかった部分も含めて「ソラノウタ」に「完全収録」されていますが,映画の場合,この「ソラノウタ」に相当するものがないだけに,実際には「全文」がどのようなものだったのか,気になるところです。
 いずれにしても,調べた範囲では,出典不明なのですね。行定監督の創案なのかどうか・・・
 どなたか助けてください!!

(追記)
 原作,映画,ドラマのどれに惹かれようが人さまざまですから,各人の好みの内側まで立ち入るつもりは毛頭ありませんが,「好みの問題」を隠れ蓑にして,根拠なしに一方的に「○○が一番」と言い放つのは,心の内にとどめておくならともかく,公共の空間という社会的な場に書き込むのは,いささか無責任な放言ではないでしょうか。

(再度の追記と自己批判)
 瞬間湯沸器的なお見苦しいところをお見せしてしまいました。
 対話と共存,冷静な議論を呼びかけていながら,当の本人が言葉が過ぎて難詰するような口調になってしまい,不愉快な思いをさせたり,ご迷惑をおかけいたしました。深くお詫び申し上げます。
...2006/07/19(Wed) 21:37 ID:Eq.zTqtw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 にわかマニアさん、おはようございます。

 前レスの追記部分について、どこのレスのことを書かれているのかわからなかったのですが、基本的には、にわかマニアさんの考え方に同感です。比較論を論ずるのであれば、対照とすべき事象を明確にしながら論ずべきだと思います。
 しかし、ここは公共の空間とはいえ、いや、公共の空間だからこそ、いろいろな人たちが集まってくるのだと思います。比較論を論じるにも、比較すべき対象をまだ十分、読んでいない、見ていない、理解できていないこともあるのかもしれません。そうすると、感覚的、直感的に「○○が一番だ」という書き込みも、やむを得ないのかもしれません。ただ、そのような書き込みをされた方も、ここの場で他の方の感想、意見、考え方を読んでいただいて、この物語の世界を深く味わうきっかけになって欲しいと思います。

 正直なところ、このような場での比較論はややもすると誹謗中傷の応酬になりがちなので、あまりエスカレートするのはどうかと思います。過去にもそういう書き込みもあったようなので、参加する時は注意するべきでしょうね。
...2006/07/20(Thu) 06:04 ID:/PUR4GbI    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 祖父の昔の恋人の墓を暴くのは,亜紀の散骨とともに物語の骨格をなすものですが,その結末は,単に入手するだけの映画,自らの死後の一緒の散骨を依頼する原作,実際に散骨まで実行されるドラマと,微妙に異なります。

 ドラマでは,墓を暴きに行った帰り,昔の恋人と祖母のどっちが好きだったか聞かれた祖父は言葉を濁しますが,その直後の祖父の急死で瓶を返すチャンスを永久に失ったサクは,否応なく祖父からの「宿題」を実行させられることになります。サクは,このことを「死んで叶えられる夢」と表現していますが,とにもかくにも,祖父は昔の恋人と一緒に送られます。
 一方,亜紀の散骨は,「亜紀は自分の中にいる」あるいは「どこにでも亜紀を感じることができる」ということが判り,亜紀の入った瓶が単なる「物質」に過ぎないことに気付いたがゆえの行為ですから,死者の願いによる散骨という外形は同じながらも,祖父の散骨と亜紀の散骨は意味合いが違ってきます。

 さて,原作の178頁では,祖父は「かたちあるもの」が全てではないことや,そういう意味では50年間その人とずっと一緒だったとまで述べています。一方,添い遂げられなかった「忘れられない人」の「せめて骨を」という発想は,それが仮託ではあるにせよ,骨や灰という「かたちあるもの」に執着していることになります。
 それでもなお,祖父がサクに「死んだら一緒に撒いて欲しい」と頼む場面を必要としたのは,事前に「骨」や「遺灰」に対する免疫を打っておく(登場人物に対しても,読者や視聴者に対しても)必要があったのと,後々の布石として亜紀から「墓はじめじめして嫌だから自分も撒いて欲しい」という発言(56頁)を引き出す必要があったためなのでしょう。そして,原作が実際に実行まで進んだかどうか明示的には描かれていないのは,亜紀の散骨との整合性をどう保つかを意識してのことかもしれません。

 また,映画が骨の入手のみで散骨まで頼んだかは触れていない(むしろ,後生大事に取っておきたいという描かれ方でした)のも,意味合いの異なる2つの散骨を反復の構図に組み込んだ場合の問題を意識してのことだったのかもしれません。原作やドラマと違って,重ジイは身寄りがいないような描かれ方でしたから,ひょっとすると「死んだら一緒に撒いてくれ」ではなく「死んだら一緒に埋めてくれ」というのが重ジイの希望なのかもしれません。
 それに,サクが「後片付け」に向かう直前に登場するのが「人が死ぬってのはエライこった」の名セリフですが,原作では亜紀の葬儀の直後に置かれた「天国は残された者の創作」というやりとりを映画ではこの場面で使っています。そうなると,同種の発言でも,このタイミングでのこの発言は,「あの世で一緒に」という発想とは両立が難しいということも,映画が重ジイに関しては「撒いてくれ」というところにまでは言及していない理由の一つなのかもしれません。
...2006/08/01(Tue) 03:00 ID:6NGfM4RU    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 映画での重じいにしても、ドラマの謙太郎にしても、いわゆる名優を配置していることからして、両製作陣ともに物語での骨の入手から散骨に関して、とても重要視していたことが伺えます。

 さて、映画の場合、重じいの昔の恋人の骨は盗めたにしても、重じいは朔太郎の身内でないだけに、重じい本人の骨の入手はかなり困難ではなかったのではないでしょうか。
 朔太郎は「永遠の愛」について、ほとんど理解がないような気がします。そんな朔太郎が墓暴きをしたのは、昔の恋人との逸話を教えてもらう代償であったことと、「永遠の愛」に憧れる亜紀が一緒だったからだと思います。
 朔太郎が重じいに「一緒にまいてくれ」と頼まれても、重じいの骨の入手をする動機づけが強くないと考えられ、亜紀も一緒であれば別ですが、「一緒に散骨」という展開にしにくかったと思いました。 
...2006/08/01(Tue) 06:09 ID:HLdszcJs    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 広島からの帰りの「はやぶさ」の時間まで3時間近くあるので,ネットカフェでこのサイトを覗いています。

>朔太郎は「永遠の愛」について、ほとんど理解がないような気がします。

 むしろ,亜紀の方が理解を示していたという点も含めて,ここのところは原作・映画・ドラマにほぼ共通しています。一方,サクは,祖母に対する思いもあるがゆえに祖父の言い分に対しちょっと引いてしまうのも頷けます。

 「永遠の愛」という言葉は,映画でサクと亜紀が重ジイの頼みで墓を暴いたシーンに登場しますが,これを受けての発言がリクエスト葉書のことを叱責するテープの中にも出てきます。その中で,重ジイの恋は「実らなかった」ゆえに「永遠のもの」と表現しています。このやりとりを用意するために,あえて「リクエスト葉書」と「墓暴き」の順番を入れ替えたのではないかとすら思えてきました。
 「どっちを思って」に類するやりとりのない映画ですが,別の切り口で「サクと亜紀の恋」を予言する意味も込められていたのではないかと考えるようになったのは,別スレで律子はある意味で亜紀を受け継ぐ存在であり,「亜紀は律子の中にいる」という解釈も可能なのではないかということに気がついたのがきっかけでした。
...2006/08/06(Sun) 19:51 ID:wSqZ8UNo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 韓国向けに翻案された映画「波浪注意報」の日本「逆輸入」にあたり,「僕の世界の中心は君だ」というキャッチコピーが付けられたことが議論を呼んでいるようです。
 このタイトルは「世界とは抱きしめてくれる人」というのをもっと直截的に表現した感じですが,その分,高校時代の恋物語の部分に特化した感じもあります。そのように定義された世界が崩壊した後,主人公はどうやって自らの「世界」を再構築していくのか注目したいところです。
 一方,台風に意味を持たせた映画の翻案という意味では,韓国での公開時のタイトルも捨て難い魅力がありますね。
...2006/08/19(Sat) 07:38 ID:JK4wW0.2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 「波浪注意報」は、恋愛モノの映画タイトルとしては、「ちょっと」という感じがしますね。ひとつには漢字のみで硬い印象だというのと、言葉自体もネガティブな印象を受けます。日本での原作・映画・ドラマにしても、わたしはネガティブな印象ではないので、韓流セカチューはどうなんでしょう。
 「僕の世界の中心は君だ」については、別スレでも書きましたが、これまた引いてしまいます。

 考えてみると、タイトルをつけるのって本当に難しいものですね。

 にわかマニアさんの書きぶりを読む限りでは、にわかマニアさんは「僕の世界の中心は君だ」をご覧になるつもりなのですね。

(追記)
 小学館から発刊されている文庫本「僕の世界の中心は君だ」を今日、偶然、書店で見つけてちょっと立ち読みしました。日本人が書いてるんですね。
 「波浪注意報」タイトルの意味がなんとなくわかりました。映画版「世界の中心で・・・」は物語の内容からすると、韓流セカチュー風にタイトルをつければ「台風」になるんでしょうね。
 ただ、日本人が書いているのに「東海」との表記に納得いかず、少々憤慨してこの本を置きました。
...2006/08/19(Sat) 09:23 ID:Byubv85c    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>「僕の世界の中心は君だ」は日本人が書いてるんですね。

 Mさんのことですね。
 ただ,この場合の「著者」というのは「オリジナリティーをもって書いた人」ということを必ずしも意味しないのですね。手元に十分な資料がないので即断はできませんが,上演用の台本を「文庫本」化した「翻訳者兼ノベライズ版の作者」という可能性も捨て切れませんので,とりあえず・・・
...2006/08/21(Mon) 22:10 ID:yxPkn/3Y    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 映画のラストに特化した別スレにおける朔五郎さんからのご指摘に,「(それが郷里の学校かウルルに向かうどこかであるかを別にすれば:引用者注)映画のラストは原作のラストをほぼそのまま映像的に表現したものに近い」というのがあります。このことと,「ここへ来て世界の中心がどこだか判ったような気がする」という大人サクのセリフの脈絡について考えているうちに,映画も「世界とは抱きしめてくれる人」という解釈をとっているのではないかという気がしてきました。
 まず,あの超難解な「雨の体育館」のシーンで,大木との電話の中に「亜紀に会った」というセリフが登場します。「忘れなければ」と思って「亜紀が好きだった場所」を訪ねたドラマと違って,映画におけるサクの帰郷は失踪した律子を追いかけてのことでした。にもかかわらず,思い出の地を訪ねているうちに亜紀の幻影を見たという点に,電話と直接の会話の違いはあるものの,原作の夢島再訪のシーンが重なって見えてくるのです。そして,ここで張った伏線の回収が最後のセリフではないかという気がしてきました。
 もし,雨の体育館で幻影を見るシーンが「亜紀の点在から遍在への遷移」に気づき始めたことを象徴しているとしたら,最後に現地でテープを聴く場面というのは,天空から亜紀の声が聞こえてきたような感じがしたことを映像的に表現したものであり,そこで「遍在化した亜紀」という漠然とした感じが確信に変わり,その結果,亜紀を送ることができたということを意味していることになります。
 亜紀の存在を身近に感じることができたからこそ亜紀を送ることができたという立場に立つならば,自らの世界を「亜紀のいる世界」として定義していたがゆえに亜紀を亡くして以降,世界をも喪失していたサクがどのようにして「世界」を再定義したのかも「遍在への遷移の自覚」として説明されることになります。
 だから,最後の大人サクのセリフの意味は,世界とは約束の地でも聖地でもなく,亜紀のいる(亜紀を感じることのできる)この世界だという意味ではないでしょうか。つまり,映画も「思い・思われる人」を世界と解釈していたとは考えられないでしょうか。そして,その場に律子が居合わせることによって,そうした対象に律子が今後なっていくことをも予言しているとも考えられます。

 ただ,以上のように考えることによって,映画のラストの意味や世界の解釈について整合的に解釈することが可能になる一方,「ウルルに撒いて」という亜紀の最後の願いはどうなるのかという問題は残ってしまいます。これについて,映像化されていないけれども,実は両親による散骨が前置されていると考えることも不可能ではありませんが,テープの宛先等を考えると,強引なこじつけの感は否めません。
 とすると,亜紀の願いは「ウルルに撒く」ことにあるのではなく,「あなたはあなたの今を生きて」というのが真意であり「ウルルに撒く」のはそのための「手段」に過ぎないことに気づいたから,あえてそれに気がついた途中のどこかで撒いたとは考えられないでしょうか。
 それでも朔五郎さんからは「残された者の自己満足ではないか」とのご批判を頂戴しそうですが,今のところ,申し訳ありませんが,これ以上の考えが思いつきません。
 
...2006/08/25(Fri) 13:00 ID:IR4fo.Vk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 にわかマニアさんの前レスについて、わたしなりに以下のような解釈をしてみました。いかがでしょうか?

@体育館で亜紀を感じるまでは、亜紀が実在しないことは自分の心の中ポッカリ開いた穴が空いているものだと、朔太郎は自覚していて、その穴を埋めるため亜紀の骨をもっていた。

Aしかし、体育館で亜紀を感じることができたことから、亜紀は実は自分の身近(中)にいたのだと気がついた。

B「残された者ができることは後片づけ」と重ジイに諭された朔太郎は、その後片づけをするために律子とともにウルルに向かった。

Cウルルに向かった自動車のアクシデントでウルルに行き着かなかったが、そこで聞いた亜紀からのテープに、自分の中には亜紀が生き続けていることを確信した。

D併せて、亜紀とともに生き続ける自分(そして律子)こそが、自分にとっての世界の中心であると確信した。

Eこれらの確信を表現する方法として、それまで心の穴を埋めるための亜紀の骨を、世界の中心である自分と律子の手によって撒いた。


 以上のように考えると、亜紀の「ウルルに撒いて」の願いは聞き入れられず、「残された者の自己満足ではないか」との意見は免れないかもしれません。といって、亜紀がそのことを咎めるとも思えません。
...2006/08/26(Sat) 10:38 ID:ume3dvUw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>亜紀の「ウルルに撒いて」の願いは聞き入れられず、・・・といって、亜紀がそのことを咎めるとも思えません。

 「あなたはあなたの今を生きて」を額面どおりに受け取ると,サクは亜紀から「切り離された」存在ということになり,したがって「では,亜紀はそれで浮かばれるの?」ということになるのですが,映画も「おまえの脚はあの子の脚だ」という立場を採っていたとしたら,話は別です。亜紀はサクの中で(それも,律子も承認する形で)「永遠の生命」を得ていることになる訳ですから。

 亜紀の最後のテープについて,前の書き込みでは「目的と手段」に単純化してしまったので,補足しておきます。
 亜紀が両親宛てや一般的な遺言ではなく,サク宛てに遺言テープを残したということは,自分自身のことだけではなく,サクに対する願いが込められているはずであり,これが「あなたはあなたの今を生きて」に相当します。
 それでは,亜紀自身についての願いが「永遠の生命を得たい」ということだったとして,それは「ウルルに撒く」ことによってしか達成されないのでしょうか。アボリジニの世界観を前提とすれば,そのとおりであり,映画でも,ウルルに向かう車中で運転手からこの話を聞いています。
 ところが,この場面,律子はともかく,サクもそれが初耳のような感じで聞いているのですね。しかし,原作やドラマのように,アボリジニの世界観について直接(原作)あるいは交換テープを通して(ドラマ)話していれば,サク自身がそれを受け入れていたかどうかはともかく,少なくとも「初耳だ」という反応にはならないはずです。
 とすると,亜紀はアボリジニの世界観に触れて,そういう死生観もあることを知っていた可能性はあります(先客の残したフィルムだけでそこまで可能かは脇に置きます)が,それをサクに積極的に説明し,理解を求めていた訳ではなさそうです。

 こう考えると,次のようにこの問題は処理できないでしょうか。
 @まず,律子とともに後片付けに行くことを決めるところまでは,直前のふうたろうさんのとおりです。
 Aその際,亜紀を「どこかで」送ることを決めたとして,その具体的な場所として,ウルルを「果たされなかった約束」の場所であり,「最後のテープ」にも登場する場所ということで,「アボリジニとは別の動機」で選んだ。
 B現地の運転手からアボリジニの死生観を聞いた時も,「そんな考え方もあるのか」とは思ったが,亜紀については,既に「僕や律子の中に生きていることで永遠の生命を得ている」と受け止めた。
 以下は,ふうたろうさんの解釈に戻ります。

 ドラマがアボリジニの世界観について,ガイド(原作)や運転手(映画)ではなく父親に語らせた上,なお躊躇を見せる母親やサクに(自分自身にも向けられている面もあるのでしょうが)「これは亜紀の願いなんだ」と言わせているのは,亜紀の願いを判った上で,それを実行した人物が必要だという判断だったのかもしれません。


 ところで,映画ではサクが亜紀を持ち歩いていたかどうかは明示的には描かれていません。
 「指先の花」では,「後片付け」に行くにあたって入手したように描かれていますが,これも益子さんなりの解釈であって,解釈は観衆に委ねられていると考えていいでしょう。それに,ふうたろうさんの解釈は,仮に@を外しても全体として成立すると思います。


 ということで,朔五郎さん。こういったところで「亜紀は浮かばれたろうか」という点はご勘弁いただけないでしょうか(^^)


 (追記)
 亜紀が散骨について遺言するのは三者共通ですが,ドラマの場合,両親がそれを決断するのは,亜紀の遺品の整理中に空港の遺失物センターから届けられた「ソラノウタ」を読んでのことでした。このことからも,亜紀の父は,亜紀の願いをアボリジニの死生観も踏まえた上で理解していたことがうかがえます。
...2006/08/26(Sat) 11:33 ID:Ky/p3jHk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 にわかマニアさん、補足を含めありがとうございます。確かに、映画での朔太郎は、亜紀の骨を持ち歩いているふうではありませんね。

 しかし、映画での朔太郎は律子を追って東京(?)から故郷に帰ったなずなのに、故郷に帰ってからは律子を追うのでなく、亜紀との思い出を追っている展開です。律子がほって置かれている印象が拭えません。
...2006/08/26(Sat) 15:50 ID:ume3dvUw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>朔太郎は律子を追って故郷に帰ったなずなのに、亜紀との思い出を追っている展開

 以前,どこかのスレで「台風速報の画面に律子が映ったのを見て四国に向かうのは出来過ぎた偶然」という問題提起に対して,「その場面は携帯で律子を呼び出している最中の出来事だったから,携帯がつながって直接どこにいるのかを聞き出せた可能性も用意されている」と書いたことがあります。
 では,なぜ,すぐに「今テレビで見たけど」と電話しなかったのでしょうか。どうも,重ジイの写真館の場面に至るまで,自分から連絡を取ることを「封印」していたように見えてしまうのですね。

 サクと律子は,@同郷であり,A婚約者でありながら,B互いの素性を知らず,Cしたがって,2人とも亜紀につながる人物だということに気付いていないという関係です。
 常識的に考えると,@・AとB・Cは矛盾する設定であり,映画に対して「ひいてしまう」人の多くは律子に対する違和感が原因になっています。しかし,これは「亜紀」と,あるいは「自分自身」と向き合えていないことを強調する演出とも考えられます。

 これを念頭に,律子とサクの四国行きを読み解いていくと,こういうことは考えられないでしょうか。
 律子が書き置きを残して失踪した時点では,「どうして」と同時に「どこにいるんだろうか」が心配なはずです。ところが,ニュースの画像に映ることで,居場所は判明しました。もし,これが富士の樹海や東尋坊だったら,すぐにでも「早まるな!」と電話したことでしょう。
 ところが,律子は故郷にいた。このことをサクはどう受け止めたかです。もちろん,結婚の準備で,いろいろと用があるということも考えられるでしょう。でも,そうだとすると,2人そろって行く必要のある行先や用件の方が多いはずです。
 とすると,それが何であるかは判らないものの,律子は郷里に「独り」で「何か」をしに行ったことが判った時,サクは改めて「2人は同郷でありながらお互いのことを何も知らない」ということを思い知ったのではないでしょうか。そして,その答えは郷里にあると直感的に感じ取り,サクもまた郷里を目指したのではないでしょうか。その「答え」を見つけるまでは自分の側から連絡をとることは封印して・・・

 つまり,サクの帰郷は外形上は「律子を追いかけて」の行為ではありますが,意味合いとしては「自分探しの旅」なのでしょう。
 その証拠になるかどうかは判りませんが,帰郷したサクは,空港あるいは駅から実家に直行せず,さりとて警察(律子の捜索が目的なら先ずここでしょう)に行く訳でもなく,亜紀との思い出の防波堤や亜紀の眠る墓に立ち寄っています。また,実家に着いてからも,挙式の仕度の話をする母親の声も耳に入らないかのように,亜紀のテープを封印した缶を開けています。

 一方,律子の帰郷もまた「届けられなかった最後のテープ」の発見がきっかけでしたから,こちらの方も「過去と向き合う」というのが「旅のテーマ」になっています。しかも,両者ともに向き合おうとする「過去」に位置しているのが亜紀なのですね。
 そして,過去と向き合おうとした2人をつなぐ場所が「時の番人」の雨平写真館というのも,なかなか精巧な構成ではないでしょうか。
...2006/08/27(Sun) 11:56 ID:TmiNaG5.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 「過去に向き合おうとする朔太郎と律子」、というところで、以前から気になっていたことについて書かせていただきます。


 映画での体育館シーンについて、大沢朔太郎の場合は幻の亜紀のを見て、また幻の亜紀を抱きしめたと、わたしは理解しているのですが、一方、律子はどうだったのでしょう?律子は体育館の入り口で、何が見えたのでしょうか?


 わたし自身、律子がどの時点でテープをを渡すべき人間が、大沢朔太郎であったのか、気がついたのか、今もってよくわからないのです。
 考えられるのが、
@靴箱にテープを入れようとした時に、大沢朔太郎が外を歩いているのみ気がつき、「もしや・・・」と思った。
A雨平写真館に飾っていた森山朔太郎と亜紀の並んだ写真を見て、確信した。
じゃないかな、と思っているのです。


 で、冒頭の体育館のシーンに戻りますが、大沢朔太郎の龍之介に電話して嘆いているのはわかるのですが、律子が涙を流しているのが、わたしには不可解なところです。


 わたし自身、映画を十分見ていないこともあるので、とても初歩的な疑問なのかもしれませんが。
...2006/08/29(Tue) 22:22 ID:ujntKfX2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 雨の体育館のシーンは超難解なのですが,パート1で朔五郎さんが次のように述べておられるのが参考になるかもしれません。

《ここから引用》
 あまりに難解なので、うかつなことは言えませんが、何かの資料で、律子は幼い日にたまたま同じような光景を見たことがある、とあったような気がします。高校生のサクは、亜紀のことを偲んで、ひとりで体育館のピアノの前に佇んでいたのでしょうか。
 もちろん、幼い律子にはその光景の「意味」は理解できなかったでしょうけれども。
 この映画の「裏テーマ」である「めぐり逢い(亜紀のセリフにも出てきます)」を強烈に印象づけるシーンではあると思います。
《引用ここまで》

 なお,テレビのスタッフは,視聴者が混乱することを恐れて,この手法を採り入れるのを見送ったという話もあるそうです。

 律子はどの時点でテープをを渡すべき人間に気がついたのかも難解です。
 珍しい名前なのに相手の素性を知らないということは,「昔,そんな名前の人に届け物を頼まれた」というやりとりがなかったということになります。会話が少なかったにしても,極めて不自然です。
 とすると,「下駄箱に届けて」という頼まれ方が,「下駄箱に貼ってある名前のシールを目印に」という頼み方ではなく,「何列目の上から何段目」という頼み方だったため,名前を知らないままだったのかもしれません。背が届かない高さでしたから,入れる時に名前を見るということもなかったようですし・・・
 とすると,雨の体育館のシーンの時点では,まだ律子の頭の中で「テープの届け先」と「朔太郎」が結びついていなかった可能性の方が高いのではないでしょうか。


 (追 記)
 「韓流」も封切られました。どうやら,日本公開版のタイトルは告白のセリフに登場する一節から拾ったもののようですが,それをタイトルにすること自体,韓流の制作サイドの「世界」の解釈が反映されていると言えそうです。
 「ネタバレ」になる危険があるので,細かく展開するのは,もう少し時間が経ってからにしますが,かなり濃い目の味付けの要素を洗い落として眺めると,夢島の位置づけをはじめ,かなり共通項が見えてきます。それと同時に,行定監督の映画版も「世界の中心」について,ウルルというフェイントを用意しながらも「愛する人」という解釈を採っていたのではないかという思いを強くしました。
...2006/09/02(Sat) 12:18 ID:towcuCHk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:永遠のAH病患者
 映画やドラマを何度も見返しているうちに、テリー様・朔五郎様・にわかマニア様・ふうたろう様たちによる「ラストの表現」と「亜紀の救済」についての議論に加わってみたくなりました。

(映像1)
 重ジイに頼まれて墓地に忍び込んだ際に、朔と「死んだら愛は終わり」か、「死後も永遠か」という会話を交わしている。
(映像2)
 リクエスト葉書のことで朔をとがめる際にも、重ジイの恋と「永遠の愛」について触れている。
(映像3)
 パスポート用の写真を撮りに行った重ジイの店にいろいろな記念写真が飾られているのを見て「忘れられるのが怖い」と言って結婚写真を撮る。

(映像からの帰結)
 亜紀は「永遠なるもの」に対して憧れを持っている。

(問題)
 写真も実体ではないが「かたちあるもの」であり、自らを「撒いて欲しい」と言い残すには「かたちあるもの」が全てではないという「悟り」が必要。

(仮説)
 夢島で拾ったフィルムに写っていた写真がどこかを調べるうちに、アボリジニの死生観に出会った。

(検証)
 映像的には、ウルル行きの動機として描かれているのは、「世界の中心に行ってみたい」という病室での会話のみ。
 →このセリフは「日本の中心だから東京に行きたい」とか「天下の台所である大阪に行きたい」というのと同レベルであり、町から外に出たことがない(夢島での会話)ことと矛盾。
 →「永遠の生命」についての何かをつかむため、聖地に実際に行ってみたいというのが真意。
 あるいは、「もともと生還を期していなかった」という解釈に立てば、現地を終焉の地に選ぶことで「永遠の生命」を得ようとした。
 いずれにしても、朔(や観衆)にはわかりやすく「世界の中心」というフェイント的な説明を用意した。「それを鵜呑みにして奔走する朔」というキャラから逆算して「一途だが、どこか抜けている」という設定が用意された。

(結論)
1)「永遠なるもの」に憧れを持っていた亜紀は、アボリジニの死生観に触れることで「かたちあるもの」だけが全てではないと悟り、原作の病室での会話やドラマの「ソラノウタ」のような境地に達した。

2)最後のテープの「あなたはあなたの今を生きて」も「ずっと一緒にいるから」を前提としてのセリフであって、「撒いて」というのも、完全な決別ではなく、遺灰(や写真や思い出の品々)という「かたちあるもの」がなくても、それとは別の意味でいつもそばにいるという意味が込められていた。

3)朔も、律子とともに、自分たちの中には亜紀が生き続けていること、思い・思われる者の相互関係の中に世界の中心があることを確信したからこそ、ウルルに向かう道中でアクシデントはあったものの、亜紀を撒くことができた。

4)一見すると「入院中の退屈しのぎ」に見える手品も単なる小ネタではなく、花ビラは散っても次から次へと花は咲き続けるという「永遠性」にからんだメッセージの隠喩となっており、それを受け継いだのが律子という設定もその延長線上にある。
 最後の「手品みたい」というセリフも、「亜紀らしく」(直前の朔のセリフ)駆け抜けていったように風の中に散っていったという現象だけを受けているのではなく、それでも次の花がすぐに出てくるように亜紀はここに自分たちといるという意味も込められている可能性がある。

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(映像1)
 コロッケについて
 「うちは「お父さんの好みで」クリームコロッケで、普通のイモのやつって、あまり食べたことがない」(第2話)
 「俺じゃない。おまえだ」(第10話)
(映像2)
 「いつまで頑張らなきゃいけないの」(第2話)
 「もっと甘やかしてやればよかった」(第9話)

(映像からの帰結)
 「父と娘の葛藤と和解」も「隠しテーマ」の一つ

(映像3)
 遺品を整理しながら「ソラノウタ」を見つけ、最後まで読んだ後で「撒いてやらないか」(最終回)
(映像4)
 アボリジニの死生観を語るのは父(最終回)

(仮説)
 聖地で撒くことによって永遠の生命をという亜紀の願いは、「和解後」の父によって実現されることで、これ以降の問題の焦点は、朔が「亜紀は朔の中にいる」ことを自覚できるかに特化して描くとともに、持ち帰った遺灰を学校で撒くという原作との間の折り合いも付けた。



 ところで、原作・映画・ドラマで微妙に異なるのかもしれませんが、そもそも「ウルル行き」を計画した段階で、亜紀は生還を期していたのでしょうか。それとも、死に場所を求めての行為だったのでしょうか。
 
...2006/09/08(Fri) 10:39 ID:dxQTYkhw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>亜紀は生還を期していたのでしょうか

 映画では「出直そう」と言うサクに対して「次はない」と言っていますし,ドラマでも「途中で死んだら」〜「負ぶって帰る」というやりとりがありますから,終焉の地を自分で選び,永遠の生命につながる聖地を目指すことで「死に方に夢を」求めた結果の行為でしょう。そのせいか,語弊のある言い方ですが「単に倒れただけ」の夢島に比べて,遥かに重大な結果をもたらしたウルル行きなのに,サクが亜紀の父に張り倒されるシーンは登場しません。
 むしろ,サクの方こそ帰ってくるつもりだったのかということの方が気になるところです。


 映画版の亜紀の最後のメッセージの解釈については,大筋そうかなと思いつつも,判断に迷っているのが空港ロビーで倒れた時に何を思っていたかということなのです。
 つまり,病院脱出から「助けてください」に至るまでの主なやりとりは,多少の前後はあるものの,原作・映画・ドラマにほぼ共通している中で,「ここが天国」というセリフが映画ではカットされていることをどう解釈するかなのです。このセリフは「世界とは」という謎解きに直結する位置づけを持つものなのですが,映画だけが別の解釈をとっていたのか,それを前提としつつ,別の描き方を試みたのか,気になるところです。
...2006/09/08(Fri) 18:05 ID:lwzXg.8g    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 「韓流版」の封切りから3週間になります。そろそろ,「ネタバレ」にならないよう内容への言及は自粛するという「自主規制」を多少は緩くしても構わないでしょうか?

 原作に登場するさまざまなエピソードを映画やドラマでは取捨選択して,それぞれの作品としてのメッセージを組み立てています。映画にもドラマにも登場するものもあれば,一方にしか出てこないものもある中で,映画もドラマもそろってカットしたのが「連休の動物園」と「按摩さんと雨の形」のエピソードでした。
 今回,韓国版の映画では,その「按摩さんと雨の形」のエピソードが復活しています。それも,原作と同じように,「夢島」での会話として。

 今は過去ログ入り(16番)してしまいましたが,パート1の中盤あたりで,このテーマについても議論になったことがあります。直接的には,雨が降ってくる時の雨粒は,粒状か糸状かと聞かれたという話題なのですが,そこに「名前の勘違いと同様,何も判っていないという暗喩が込められていたのではないか(by 騰コさん)」ほか,さまざまな議論がありました。
 「韓国版」でも取り上げられたこのエピソード。改めて,皆さんは,どのようにお考えでしょうか。
...2006/09/16(Sat) 20:09 ID:yuSlnYBs    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一恭山
 朔太郎と亜紀がいつから恋におちたかというテーマは以前からよく取り上げられていますが、では、亜紀は朔太郎のどこに惹かれたのでしょうか。
 原作では、朔太郎が熱を上げれば上げるほど、どこか醒めたようなところがありますし、映画でも、何となく気まぐれでという感じもあります。傘という動機づけのあるドラマにしても、以前から気になる存在だったようですし・・・
...2006/09/24(Sun) 18:29 ID:SyB9o5dc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:キューピッド
 一恭山様
 既出かもしれませんが、「顔にメシ粒がついたまま」(映画)とか、「いつも自転車の鍵を失くす」(ドラマ)と言っているところを見ると、「どこか抜けているところが放っておけない」というところでしょうか。
 もっとも、原作の場合、むしろ敬遠されそうなキャラという感じなのですが、亜紀の方から交換日記を持ちかけたり、勝手に略称で呼んだりしているんですよね。「恋人のなり手がいないと小説が成り立たないから」じゃ答えにならないですしね・・・
...2006/10/01(Sun) 15:36 ID:8PcBxUKk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 登場人物の誰かがナレーターを務めたとしても,映像作品はカメラという「第三者の眼」を通して観衆に提供されます。これに対して,主人公の家族や相手役ですら語り手である主人公の眼に映った姿としてしか提示されないのが一人称小説です。
 つまり,映画やドラマの描く世界が相対的には「客観的」であるのに対し,原作の世界は,あくまでも主人公にとっての「主観的」な世界です。
 したがって,一人称小説の場合,客観的な真実(2人は本当に相思相愛だったのか)よりも,話者である主人公がどう「事実認定」したかということが重視されることになります。このあたり,今,職場からの書き込みなので手元にありませんが「謎解き本」で言及されていた記憶があります。

 とはいえ,病身を押して2人で海外を目指すような間柄ですから,どこかに「惹かれあうもの」があったはずです。
 その点を観衆に判りやすく提示するため,映画やドラマがサクを「どこか放っておけない存在」として描いたのは,キューピッドさんの言われるとおりです。そのために,わざわざ原作の設定を逆にしたような感じすらあります。
 そうした眼で見た場合,学級委員で剣道部に所属しているという設定の原作の場合も,極論から極論に走って「まあまあ」となったりするあたり,「サク on the 亜紀の手のひら」という共通項が浮かび上がってきます。また,「どこか抜けている」という点では,4年も付き合っていながら,最後まで名前の勘違いに気づかないままという原作が「最も抜けている」とも言えます。
 あんまさんと雨粒の件も,「頭でっかち」だけど,実は「何も判っていない」ことを象徴するエピソードの一つなのかもしれません。
...2006/10/02(Mon) 12:58 ID:RIgNdH6M    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 いま,別スレで「婚姻届や記念写真のやりとりにおける亜紀が消極的に見えるのはどうしてか」ということが話題になっています。原作でも,サクが「早く結婚したい」とか意気込めば意気込むほど,亜紀はさめた反応を返しています。
 原作に関して言えば,「謎解き本」では,「体調に異変を感じていて将来のことに漠然とした不安を抱いていた」という説明と,「いくら虚像である「広瀬秋」に熱を上げられても,実像である「廣瀬亜紀」にはピンとこない」という説明の両論併記になっています。ただ,「何も判っていないサク」というモチーフが底流にあり,終幕近くの空港に向かう場面で「名前の勘違い」を持ち出していることから,両論併記ながら,「実像と虚像のギャップ説」に比重が置かれているような感じです。

 ドラマの場合,あまりに不自然な「名前の勘違い」はカットされています。しかし,「実像と虚像のギャップ」というモチーフ自体は登場しない訳ではありません。但し,それはサクの「勘違い」としてではなく,「無理をしている亜紀」として描かれ,むしろ,サクは「ありのままがいい」と言って「実像を受け容れる」姿勢を示しています。
 その代わり,「病気ゆえに負担をかけたくない」ということで,婚姻届や記念写真に消極的な姿を描いていますが,「どこかさめた」というよりは,相手のことを慮っている姿として描かれています。

 このあたり,振り回されっ放しの映画も含めて,それぞれの特色が出ているという感じがしませんか。
...2006/10/16(Mon) 12:50 ID:LkVX1m6I    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 今さらながらこのごろ、映画の気に入っている場面を何度も何度も見直しています。

 朔太郎を「振り回し」まくっている映画の亜紀について、ちょっとわたしの感想と疑問を書かせていただきます。
 映画の亜紀は「孤高のランナー」と、この掲示板ではよく表現されています。しかし、本当に「孤高」だったのでしょうか。亜紀のキャラクターの情報が少ないだけに、その少ない情報から想像するしかないのですが、どうも違うように思うんです。「孤高」でなく「みんなから愛される亜紀」とわたしは感じるのです。
 堤防での会話シーンで朔太郎は亜紀のことを「高いところの存在」と言っているのですが、茶目っ気あり、言葉遣いもこの年頃の多くの女の子らしいし、ごくごく普通に思えます。おまけに、町から一度も出たこともないわけですから、生活ぶりは地味とも受け取れます。 
 改めて、みなさま方はどのように思いでしょうか?


 ところで、長澤亜紀は朔太郎のことを「サク」と呼んでいますが、17年前に渡されなかったテープでは「サク」でなく「あなた」と呼んでます。例えば、「あなたは、あなたの今を生きて」などです。
 なぜ、最後のテープでは「あなた」だったのでしょうね?
...2006/10/16(Mon) 21:11 ID:9oarYi5U    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
>なぜ、最後のテープでは「あなた」だったのでしょうね?

 「もう会わない方がいい」というメッセージを額面どおりに受け取って,だから淡白に,他人行儀にと解釈するのは,それが本心とは別の演技だったとしても,ひねりが足りないような感じがします。では,その真意とは・・・

 意外なところに糸口がありました。祖父がカメラマンさんの129番です。退院後の再度のプロポーズに際して,「あなた」と呼ぶべきか,今までどおり「サクと呼んでいい」かというやりとりです(「お前さん」だけは勘弁というのはご愛敬として)。
 ファーストネームで呼び合う恋人が相手を二人称代名詞で呼ぶようになるという情景から浮かぶのは,ズバリ新婚家庭です。婚姻届を見せられた時,署名するシーンも「16歳じゃ無理」と突っ込みを入れるシーンもありませんが,映画版で唯一のキスシーンをここに持ってきたことから考えると,返事がノーだったとは考え難いところです。
 ひょっとして,独り残される夫のことを思い,あらかじめ再婚の許可を与える妻からの遺言だったのかもしれません。
...2006/10/17(Tue) 00:54 ID:Cmp/xIHA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 妻と夫の関係からの「あなた」。なるほどと思う一方で、同じテープで「もう会わない方がいい」と妻が夫に言うのかな、そんな疑問も拭いきれません。

 もうひとつの考え方に、亜紀は朔太郎を一歩、突き放したので「あなた」という、親しげがありそうで、またよそよそしくも思える呼び方をしたのでは、という気がします。でないと、「もう会わない方がいい」との整合がつかないのではないでしょうか。

 この映画の「突き放し」は、原作の「どこかさめた」、ドラマの「消極的」に、通じるのではないかと思います。
...2006/10/17(Tue) 06:20 ID:diHqUUcc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 確かに,原作の亜紀の「どこかさめた」ところに相当する部分を映画に求めるとしたら,ここしかありませんね。

 改めてこのテープを聞いて気になったのは,冒頭で自分のことを「もうすぐ死ぬ」と言っているのですね。そうなったら「会えなくなる」のは当然なのにです。
 すぐ思い浮かぶのは,原作の「最後の時,会おうとしなかった」に対応させているのだろうということなのですが,その原作は,同時に「ここからいなくなっても,いつも一緒にいるから,また私を見つけてね」とも言っています。
 つまり,@さめて突き放す,A「あなたはあなたの今を生きて(いなくなっても世界はあり続ける)」は三者に共通しているのに対して,映画だけがB「いつも一緒にいる(お前の脚はあの子の脚)」というメッセージの部分を欠いているのですね。あるいは,永遠の生命を得ることで一緒にいるという意味で,聖地での散骨という遺言がそれに相当するのかもしれませんが,その場合は,途中で撒いたことの理屈付けが必要になってきます。

 ところで,ドラマでも亜紀は1箇所だけサクのことを「あなた」と呼んでいます。「ソラノウタ」の冒頭が「生きていく「あなた」へ」なのですね。
 もちろん,交換日記と絵本という違いもあるのでしょうが,こちらの方は,最後を「おまえ」で締めているところからみて,「突き放した」というよりは「身近な存在」としての二人称代名詞のような感じがします。
...2006/10/18(Wed) 03:04 ID:0KVL28mM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 以前,誕生日の当日か前日に「もうすぐ」という言い方はおかしいし,「誕生日は何月何日」ではなく「今日」とか「明日」という言い方をするのが普通だから,映画のウルル行きの決行日は亜紀の誕生日よりも数日前だろうと推論しました。そう考えた理由に,早朝に倒れて人事不省になりながら,午前中に一旦はテープを吹き込めるまで持ち直した後,再び危篤に陥り,その日のうちに亡くなるという展開は不自然だというのがありました。
 その際,どなたかがおっしゃたように,映画の過去の映像は主人公の断片的な記憶や「思い込み」を表わしたものであって,もともと体系的な事実関係とは矛盾がありうるということを参考に,すべてが10月28日のことというのはサクの「思い込み」と判断しました。もっとも,その時には「思い込み」は「誰にも看取られなかった」ことと「台風の日」だったことだけで,10月28日という日付は事実だと即断してしまいました。

 しかし,帰郷したサクとボウズの会話に出てくる寺の墓には,「広瀬家之墓」とあるだけで,名前と命日は刻まれていなかったことに気付きました。つまり,映画の亜紀の命日が10月28日というのも,物証が何もないのですね。最後のテープがその日付になっているので解釈を誘導されたきらいがありますが,臨終間際にしてはコトバがハッキリし過ぎている感じです。
 とすると,10月28日という命日についても,サクの「思い込み」という可能性が出てきます。

 原作とドラマでは,亜紀の命日はサクの誕生日か限りなくそれに近い日になっています。自分の誕生日が恋人の命日ということで,長くひきずる動機付けにしているようにも考えられます。
 別の事情から亜紀の誕生日を告白の日まで大幅に繰り上げたドラマはともかく,原作も映画も二人の誕生日は一週間しか離れていません。これは,12月17日と24日の関係を10月28日と11月3日に単純に「平行移動」させただけなのでしょうか。「生まれてきたのは亜紀のいる世界」というやりとりを交わすためだけなら,サクの誕生日を年末に置いたままでもよかったはずです。
 とすると,サクの誕生日まで亜紀に合わせて繰り上げたことにも意味があるのではないでしょうか。つまり,映画も,亜紀の命日=サクの誕生日ということを意識していたのではないかという気がしてきたのですが,皆さんは,いかがですか。
...2006/10/22(Sun) 21:15 ID:bgWNsrCQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:セカチュー患者
映画にかんしてはド素人な私ですが
ちょっと仲間に入れて下さい。

亜紀の命日はやはり意図的に朔の誕生日を近づけて
と思います。
誕生日というものは何年経ってもわすれないものです。毎年くる自分の誕生日前後に
愛する人がこの世を去っていたら
何年も忘れられない理由の決定的な原因になると
私は思います。

最近、ニュースでありましたが
御産時のトラブルで、赤ちゃんは助かりましたが
お母さんは残念ながら助からなかったと
悲しい出来事がありました。
そのお母さんは、意識不明の状態が何日か続いたようですが、数日後亡くなったそうです。
出産時に亡くなってしまう方もいます。

つまり、子供の誕生日当日、または数日後に亡くな
ってしまった。
お子さんは物心ついたら必然的に誕生日が近づけば、お母さんの命日も
近づいてきますよね。
悪くすれば、自分のせいで母は命を落としたと
思いかねません。
実際、セカチューでは恋人ですが
愛する者を失う悲しみは肉親と同様と思います。

私は、映画では17年後の朔が
あまり亜紀をひきづっていないように
見えましたが
毎年364日忘れていたとしても
どうしても亜紀を思い出してしまう理由として
亜紀の命日=朔の誕生日ということになるのかと。

まあ、私のウンチクはいいとして
映画でも意識していたという
にわかマニア様の意見に賛成です^^;

先程、出産時のトラブル・・・の話をしましたが
病院側の受け入れがなっていなかった為に、
残念ながら、お母様の命は救われなかった・・・。
本当に怒りを覚えます。
こういった病院側の対応はなんとか
ならないのでしょうか!
亡くなったお母様は一度も我が子を抱けず
本当に無念だったと思います。
心より、御冥福をお祈り申し上げます。
...2006/10/23(Mon) 01:55 ID:s6VFvRNk    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 わたしも亜紀の命日は、限りなく朔太郎の誕生日に近かったと思います。


 そう思う理由としては二つあります。

 そのひとつは、空港で倒れて病院に連れ戻されるわけですが、最後のテープを吹き込んだり、律子にそのテープを託すだけの体力・気力があったものと考えられ、急に危篤状態となり亡くなったように思えないのです。

 もうひとつは、大沢朔太郎は龍之介に電話で「最後に亜紀は会おうとしなかった」と言っていることからです。
 亜紀は最後のテープに「もう会わない方がいい」と言っていますが、これは当時の朔太郎に渡らなかったわけです。テープを聞いていない朔太郎は亜紀が病院に戻ってから会おうとしたんじゃないでしょうか。それを亜紀が両親に頼んで面会拒絶したんだと思います。それも「会おうとしなかった」という言葉に、「一定の期間」というイメージを感じさます。ですから病院に帰ってから亜紀は亡くなるまで、数日生きていたのだと思えるのです。


 そうなると朔太郎は誕生日が来るたびに亜紀を失ったことを思い出さざるを得ないという、にわかマニアさんやセカチュー患者さんのおっしゃっているようなことになると思います。
...2006/10/23(Mon) 23:26 ID:nA9TUAMY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 確かに,「最後に会おうとしなかった」と言っても,人事不省の状態では拒否権の行使のしようがありませんから,意識が回復して「もう会わない方がいい」というテープを律子に託した後の出来事と考えられます。
 このテープは,「あなたはあなたの今を生きて」など遺言に近い内容になっています。最後のメッセージを伝えた上で(結果的に届くのは17年後になってしまいましたが),臨終の床には呼ばなかったという流れは,原作の160頁で「ここからいなくなっても,いつも一緒にいるから,また見つけてね」といったやりとりを病室で交しながら,174〜184頁の祖父との会話で「最後のとき,会おうとしなかった」というのと同様のつくりになっています。
 映画が直接の会話ではなくテープにしたのは,「会おうとしなかった」ことを映像的に強調する意味があったことと,物語の展開上,そのメッセージが届くのを17年間遅らせる必要があったためでしょう。
...2006/10/24(Tue) 00:42 ID:X/Npk96I    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作では,亜紀とサクの誕生日は12月17日と24日ですから,2人の「年の差」はちょうど1週間です。
 2人にとっての障壁として台風を利用した映画は,いくら何でも「クリスマス台風」という訳にもいかず,亜紀の誕生日を10月28日に繰り上げました。この時,サクの誕生日も一緒に繰り上げていますが,ちょうど1週間後の11月4日ではなく,1日早い11月3日にしています。これは単なる脚本家の気まぐれでしょうか。
 そこで気になったのが,もし,最初の日から1と数えた場合,「6日後」は「7日目」になるということです。つまり,もし,大人サクの思い込みどおり亜紀の命日が彼女の誕生日である10月28日だったとした場合,6日後に来るサクの誕生日である11月3日は「初七日」に当たるということになります。
 とすると,大人サクと大木の電話のやりとりや,最後のテープの日付に解釈を誘導されて,亜紀の命日を10月28日と考えた場合でも,サクの誕生日は亜紀との関連で特定の意味を持つ日付になるのですね。
 あの状況で「即死」はないだろうから亜紀の死亡推定時刻を繰り下げた場合はもとより,それに気付かなかった場合でも,サクの誕生日を「特定の意味を持つ日」とすることにより,記憶の封印の動機付けにしているとは考えられないでしょうか。
...2006/11/01(Wed) 00:25 ID:JKJjxR7g    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一恭山
 今日は映画版・朔太郎の誕生日ですね。しかも、ふうたろう様やにわかマニア様によれば、映画版・亜紀の命日もこのあたりでしたね。
 ところで、映画でも「最後の時、会おうとしなかった」というセリフが登場しますが、これは、いつのことなのでしょうか。
 最後のテープの後だとすると、面会を断られる時に「テープでも伝えたでしょ」の一言くらいあるでしょうから、届けられなかったテープの存在をその時点で知ることになります。でも、テープの存在が判明するのは17年後ですから、この線は薄いでしょう。
 最後のテープの前だとすると、あのテープは会うのを拒んだ亜紀が改めてきちんとしたコトバとして朔太郎に伝えようとしたことになります。ある意味スッキリするのですが、実際に亡くなるのは数日後ですから、これを「最後の時」と呼べるのかどうか・・・
 拒まれた後、もう病院を訪ねることもやめて、亡くなったことを人伝てに聞いたのでしょうか。でも、朔太郎の性格からすると、拒まれても拒まれても、毎日病院に通いそうな感じがしませんか。
...2006/11/03(Fri) 22:09 ID:34MwYV6Y    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 一恭山さん

 台風で飛行機が欠航になっても(映画),陸上大会のエントリーに遅れて失格になっても(ドラマ),亜紀のことになると懸命に食い下がるサクですから,1度拒まれたくらいで,すごすご引き上げるようにも見えませんよね。とすると,「助けてください」の後も,病院に日参したと考えた方が自然です。

 そうすると,問題は,「会おうとしなかった」がいつなのかというタイミングの問題ですね。このコトバの主語は「亜紀」と明記されていますから,家族から追い払われたとか,ドクターストップとかではなく,あくまでも本人自身の意思表示でなければなりません。
 ところが,空港で倒れた時には人事不省の状態ですから,病院に担ぎ込まれた後も暫くは「面会謝絶」だったはずで,拒否権の行使のしようがありません。

 さて,病人が意識を回復しても,それで直ぐに面会謝絶が解ける訳ではありません。一方,絶対安静の状態でも,テープを聴いたり吹き込んだりする程度はできるでしょう。ただ,テープに吹き込んでも,自分では届けられませんから,実行は面会謝絶が解けるのを待つ必要がありますが,それゆえに,逆に,あれこれ考えを組み立てる時間的余裕はあります。
 ところで,映画の場合,家族は別として,サク以上に常時亜紀に接することのできる人物が律子です。何しろ,母親が同じ病院に入院しているのですから。
 また,サクが病院を訪ねるのは放課後であり,律子は登校前に亜紀の病室を訪ねテープを託されるのが日課になっていますから,1日の中では,律子の方がサクより先に亜紀に会うという構造になっています。

 こう考えてくると,亜紀は,明日から面会謝絶が解けるという前夜か当日の朝,「最後のテープ」を吹き込み,その朝,登校前の律子にテープを託したという可能性が強くなってきます。
 ところが,このテープは律子が事故に遭ったことで,サクには届きませんでした。つまり,サクは,そうとは知らずに,放課後(恐らくはいつものとおり)病院を訪ね,そこで初めて面会謝絶が解けていることに気が付いたことになります。

 亜紀が「会おうとしなかった」のは,この時のことでしょう。問題は,亜紀のその意思は,サクに直接伝えられたかということです。
 われわれは,映画全体を通して両親の姿があまり描かれていないことや,大木との会話に登場するサクのセリフに解釈を誘導され,「亜紀は独りで」と思いがちです。しかし,これはサクの「思い込み」あるいは「心象風景」であり,実際には,人事不省・面会謝絶の状況の下で家族が詰めていないはずがありません。
 つまり,サクはまず,両親に会って来意を告げ,亜紀に取り次いだ両親から伝言として「会いたくない」と伝えられたものと考えられます(その時,両親は,寝ているとか気分が悪いとか適当に理由をくっつけていたのでしょう)。その根拠は,その後17年,サクはテープの存在を知らなかったということと,そのテープを聴いた時のサクの表情です。
 もし,直接会っていたらどうでしょうか。いくら何でも「帰れ」としか言わないとは考えられませんし,それで黙って帰るようなサクとも思えません。「面会謝絶が解けたなら,教えてくれればよかったのに」〜「テープ聴いてないの?」〜「えっ! 何のテープ?」というやりとりを通じて,テープの存在が明らかになったでしょうし,何らかのアクシデントで伝わっていないことが判れば,その場でテープと同じことを直接話していたはずなのです。
 しかし,実際には,テープの存在も亜紀が伝えようとした内容もサクは知らないままでしたから,「会おうとしなかった」というのは,「テープの後」だけれども「亜紀から直接」ではなかったのでしょう。
 皆さんは,いかがでしょうか。特に,映画ファンにして医療関係者の朔五郎さんなら,もっとスマートな解決策をお持ちかもしれませんね。
...2006/11/08(Wed) 09:01 ID:J8QhU1XY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一恭山
 高校2年生って、まだ受験本番までは時間があるし、部活などに思い切り打ち込める時期ですよね。だから、主人公たちが一番輝いていた時期としてピッタリくるのですが、でも、亜紀を亡くしたあと、卒業までに1年以上あるんですよね。
 物語はいきなり10年後に飛びますが、故郷にはほとんど帰っていないような感じでした。だとしたら、卒業までの(故郷から逃げ出すまでの)1年以上を朔太郎はどんな感じで過ごしたのでしょうか。もしかして、針のムシロに座らされているような感じだったんでしょうか。
 きっと昔の友人に会うのも辛かったのではないでしょうか。映画では、大木も上京しており、そこは朔太郎の行き着けの店になったいるようですが、大木は1どんなふうに朔太郎に接していたんでしょうかね。
...2006/11/14(Tue) 22:15 ID:JPXme6es    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 唯一,亜紀本人に病名が告知され,サクは亜紀の口から病名を告げられる映画では,「俺があんなハガキを書いたばかりに」という場面を受けて,「すっかり元気になった」という再度のハガキを出すという展開につながっていきますが,病名を伏せたままのドラマや原作では,もう一度ハガキを出した場合,それを読まれることが病名の告知に直結してしまいます。
 このため,ドラマ版を中心とした別スレでも,「再度のリクエスト葉書」は実際に投函されたのかが話題になっています。
 ところで,これに関連して,原作でも気がかりな点が出てきました。
 
 原作でリクエスト葉書のことが蒸し返されるのは夢島での会話であり,その時には「今となってはいい思い出」と言っています(97頁)。その時は発病前です (ドラマのように予兆も描かれていません)から,それで済んだのかもしれませんが,少なくとも,ハガキの件が忘却の彼方へと飛んでいってしまっているのではなく,亜紀の記憶の片隅に残っていることは確かです。
 とすると,頭の回転の速い亜紀ならば,病気になった時に,もう一度そのことを思い出し,結びつけて考えるということをしそうなものですが,そこはどうなのでしょうか。なかなか回復しないことに不安やいらだちは感じているようですし,何となく単なる貧血ではない難病ではないかと疑いを持っているようですが,面と向かってサクに問い詰めることはしていません。あるいは,その場面をカットしているだけなのかもしれませんし,答を聴くのが怖くて聴けないままなのかもしれませんし,聴き出す前にアボリジニの世界観の境地にたどりついたのかもしれませんが・・・


 一恭山さん
 きっと,映画版の大木は,サクの傷口に辛子を塗りこまないように,ドラマの両親のように「17年前の話題だけは避けながら普通に」会話していたのでしょうね。でも,サクのことを気にして,律子を紹介したりしたという感じでしょうか。
 何しろ,ドラマ版のこととはいえ,唯一,亜紀に「サクちゃんを宜しく」と頼まれたのが大木なのですから・・・

 ところで,恋人を喪くしたショックは想像できないくらい大変なものだったのでしょうが,それでも,原作では,サクは葬儀の際には「骨あげ」にも同行していますし,両親との散骨行のシーンを見ても,良家の親同士の確執は見られませんから,3年生のそれも受験本番直前にやってくる亜紀の1周忌にも,普通に参列したものと想像されます。
 これに対して,葬儀からも逃げ出し,ウルルへの散骨行の前には父から庭に突き落とされたドラマの場合,一瞬だけ単語帳を落とすシーンが挿入されていましたが,何かのきっかけで亜紀を思い起こしそうになる度に瓶を眺めることの繰り返しだったものと想像されます。
 きっと,1周忌にも出なかったのでしょうし,ひょっとすると,7月2日も授業をサボって家に籠っていたかもしれません。そのことをあえて卒業式の日に逃げるように上京したシーンは暗示しているように思えてなりません。
...2006/11/16(Thu) 06:16 ID:VQjgc3Bc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 面会謝絶が解けたのが2学期に入ってからで,学園祭,修学旅行,結婚写真のエピソードを間に挟んで,ウルル行きの決行が10月23日と,ドラマの後半の展開をカレンダーに落として見ると非常にタイトなものであったことは,このスレだけでなく,過去ログ入りした別スレ等でも議論になったところです。
 このため,少しでも全体を前に持っていこうとしたためか,全集版のオマケに付いているカセットの日付に物語本体との矛盾を生じているようです。

 例えば,一時外泊が許可されて亜紀が学校にやって来た日のテープは,全集版の付録では9月9日付になっていますが,映像上は,教室の黒板の日付が9月18日になっています。それに,ロミオとジュリエットの相撲バージョンが提案されたのが9月7日(これも教室の黒板から)ですから,学園祭も病名告知も飛ばして翌々日が一時外泊というのは無理な話です。
 どうやら,テープ編集者の意図としては,ドラマ本編から推測されるカレンダーでは結婚写真から命日までが10日間しかないために,無理をして全体を1週間程度繰り上げようとしているようですが,9月中に冬服に衣替えするなど,かえって傷口を広げた感じがあります。むしろ,「世界の中心で愛をさけぶManiacs」のカレンダーのコーナーの考察の方が全体としての整合性もあって,説得力があるように思いました。

 それとは逆に,テープの日付の方をドラマ本編よりも繰り下げたのが夢島編です。陸上大会(7月19日)の翌日が終業式で,その翌々日が夢島(第5話でボウズが明後日と強調していました)となっており,亜紀のベッドに7月23日入院(1泊した帰りに倒れた)と明記してあるにもかかわらずです。
 これは恐らく,2学期を前にしての第6話の「1か月が過ぎ」というナレーションとの整合性を気にしたものでしょう。でも,端数の切り上げ・切り捨てに伴う「誤差」は,よくある話ですから,そこまでいじる必要があったのか疑問です。
 無理してこじつければ,ボウズが行けなくなり,亜紀も体調を崩していたから延期したという可能性もゼロではありません。しかし,そうすると,今度は,精密検査の呼び出しの説明がつかなくなってしまうのです。再診予約は3日から1週間後というのが一般的ですから,電話で呼び出される前に,検査結果の説明があるはずなのです。こちらの方も,かえって傷口を広げた感は否めません。

 まあ,DVDボックスの製作時にはスタッフも縮小され,目が行き届かないところもあったのでしょうが・・・
...2006/11/30(Thu) 20:45 ID:YGs.UQA2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一恭山
 父親に捨てられた亜紀の宝箱の中のテープの本数のことで、ふうたろうさんが1日の空白に着目して、ドラマに描かれていなくても交換されたテープがあったのではないかと指摘しておられました。
 そう言えば、ドラマに登場するテープは、演出への立候補の次が「ブルーハーツ集」ですから、ここでは1日どころか10日以上も空いています。やはり、画面に映らないテープがかなりありそうですね。
 好きな食べ物、好きな映画、いろいろ他愛ない会話を重ねていったのかもしれません。想像してみるのも面白いですね。
...2006/12/13(Wed) 22:55 ID:1pYOOVR2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
PROSIT NEUJAHR 2007!

 皆さん。明けましておめでとうございます。
 原作の初版の上梓から6年,映画の公開やドラマの放映から3年。今なお見返す度に新たな発見があるセカチュー・ワールドの魅力に今年もいろいろな角度から迫っていきましょう。
...2007/01/01(Mon) 00:05 ID:41wLNVm6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一恭山
 2月1日付の朝日新聞のウェブサイトに「火葬の情緒、土葬の情緒」と題した記事が載っていました。韓国と日本の埋葬事情についてのもので、土葬は儒教の影響であることや、日本で火葬が一般化したのはそんなに古くからではないことが紹介されています。

(記事抜粋)
 「日本の火葬は、奈良時代に僧侶などの仏教徒をはじめ貴族が行なったというのが初見です。しかし、時代が下って、徳川幕府による寺請制度になっても、まだ一般的には土葬で、火葬が一般化したのは明治時代になってからのことです。明治15年と29年にコレラ、同26年には天然痘流行したのを機に明治政府が火葬を推奨したため、一気に火葬率が上がります。
 火葬場で最後のお別れに立ち会うと胸がキュンと痛みます。しかし火葬炉から出されたお骨は生前の面影など全くないただの焼骨で、生前の姿とのあまりのギャップに言葉を失い、骨を拾い、「のど仏」の説明など聞いているうちにすっかり冷静になるのです。第三者が見ると、何か吹っ切れたような表情に見えます。火葬という行為が悲しみを断ち切った観があります。火葬は「悲しみの癒し」としての通過儀礼だと言えます」

    −−−引用ここまで−−−

 韓国での映画化にもいろいろ議論がありましたが、「セカチュー」は土葬文化圏ではなかなか成立しにくい物語ですね。
...2007/02/03(Sat) 11:15 ID:k9wRJo8I    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:堤オタク
 原作でフルネームが与えられているのは主人公のカップルを除けば大木くらいですが、ドラマに登場する小林や大林は大木を基に「木→林」・「大→小」という連想ゲームでしょうか。なかなかファーストネームで呼べないように、あえて亜紀と同じ発音にした小林の名前は、「失くした過去」→「与えられた未来」→「自らつかみとった未来」という図式の中で「明日」への「希望」という意味が込められているような感じですが、姓の方も、折にふれて朔太郎の背中を押す大木と対をなすような命名にしたような印象を受けました。
 それと、智世の姓は、ひょっとして堤監督の別の作品に登場する自称天才的物理学者の姓を借りてきたものだったりして・・・
...2007/03/03(Sat) 13:40 ID:34MwYV6Y    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 一恭山さんが引用された新聞記事の件ですが,確かに,出棺の時には何人がかりかで担いで運び出したものが焼くと壷に納まってしまうというのは,ものすごい落差ですね。ただ,必ずしも,それで「第三者が見ると、何か吹っ切れたような」と言えるかというと,微妙なところがあります。
 原作(170頁)にも登場しますが,焼くのを待つ間,会葬者には控室で酒が振舞われ,故人の思い出話などをして過ごします。その時点で既に「できあがって」しまう(酒宴じゃないのに!)人もいるかと思えば,憔悴しきったままの人もいます。
 サクが亜紀を喪くしたという事実すらも受け入れを拒んでいたがゆえに葬儀からも逃亡したドラマでは,街外れの山あいにある斎場で故人がこの世から消えていく煙を見上げるという原作170頁のシーンは,第3話で祖父の葬儀のシーンとして登場します。なかなか「実感がわかない」というのがその時のサクの述懐でしたが,後で急激に喪失感に見舞われたり(第3話終盤の「マリア様の抱擁」),事実の受け入れを自らに課するアイテムを持ち歩かないことには立っていられなかったりというあたり,まさに「人が死ぬってのはエライこった(映画版の結末への導入部分)」という感じです。少なくとも,葬儀を「悲しみの癒しという通過儀礼」という言い方でくくってしまうことのできない事象があることは確かなようです。

 火葬という行為は同じでも,焼いた後の骨をどうするかで位置付けは変わってきます。謎解き本の126頁では,これを破壊・散骨の文化圏と保存(収骨)・遺骨崇拝の文化圏の異なる習俗の統合として説明しているのがなかなか興味深いところです。

(追記)
 別スレで,ふうたろうさんから「映画やドラマの場合は、ある決意をもって亜紀を散骨します。しかし、原作の場合、「もう、亜紀とのことはいいかな…」そんなふうに受け取れる」という問題提起を頂きました。

 確かに,「僕は忘れなければいけないと思っ」て17年ぶりに故郷に帰り,撒く場所を探して歩くドラマや,「後片付けしなきゃ」とアボリジニの聖地を訪ねる映画は,ある種の決意が存在する一方,原作の場合,最初からそのつもりで母校を訪れた訳ではありません。

 ところが,別の見方をすると,原作やドラマに対する映画の距離感をうかがわせる材料もあります。
 それは,原作やドラマでは,一旦は亜紀の両親と一緒に聖地で撒こうとして果たせず,瓶を持ち歩いていたという点です。原作では,両親との散骨行から戻って間もなく,スケちゃんに船を出してもらって,夢島で撒こうとしていますが,その時に,撒けるようになった時に撒けばよいとスケちゃんに言われています。ドラマの場合,当初は亜紀の不在を確認するためのアイテムとしての常時携行(最終回の担任との会話)でしたが,17年後に帰郷した時点では,散骨も視野に入れています。

 つまり,原作やドラマでは,撒いて欲しいという遺言を知らされて以降,瓶を前にしての撒く・撒かない(撒けない)の葛藤の十数年が用意されているのですが,映画の場合,この時間差がほとんどないのですね。原作やドラマと違って,撒いて欲しいという遺言の存在を知るのは17年後だという点で,映画は独自の場所に位置づけられます。
 ある意味,常時持ち歩いていなかったから,あっさり遺言をそのまま実行する気になれたのかもしれませんが・・・
...2007/03/12(Mon) 13:02 ID:GOnm.o.w    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 散骨シーンの件が話題になっているので…。

 わたしは、大沢朔太郎のオーストラリアでの散骨のシーンで、2点の疑問を持っています。

 1番目に、大沢朔太郎は常時、骨を持ち歩いていたのだろうか、ということです。
 2番目には、亜紀の最後のテープは、散骨直前に初めて聞いたのだろうか、ということです。


 わたし自身の見解を述べると…。

 まず、2番目については、映画のシーンにはありませんが、朔太郎は律子から亜紀の最後のテープを渡され、聞いているはずですよね。だからこそ、律子と亜紀を供養する意味でもウルルを目指したのだと思います。テープがウルル行きの動機づけとなっているはずです。


 1番目については、にわかマニアさんが言われるよう、常時、持ち歩いてはいなかったと思います。
 以前にもどこかのレスで書いたような気がしますが、大沢朔太郎にはどうもドラマほど亜紀を引きずっているような節がありません。少なくとも、律子が高松に行っているのをTVで見るまでは。いえ、心の奥では、ポッカリ穴が空いていたのだと思うのですけれど。しかし、表面上はそれを感じさせないような気しますし、朔太郎自身が感じさせないようにしているが故に、少し「すれて」いるような雰囲気さえ感じます。ここらへんは、緒方朔太郎と大きく違うところだと思います。
 そんな、少し「すれた」朔太郎は、多分、骨は常時、持っていなかったでしょう。かえって、テープと同じように、封印してしまいたいような物ではなかったかと思います。
...2007/03/17(Sat) 06:41 ID:d16kIrOY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 「人が死ぬってぇのはエライこった」で始まる重ジイの名セリフは「残された者にできるのは後片付け」という言葉で締めくくられます。しかし,これだけだと,一般論としての「後片付け」であり,具体的に何をどう「片付ける」かは最後のテープを待たなければなりません。
 @空港で律子に追いついた大沢サクは,A「亜紀はここ(空港)までしか来れなかった」と言った後,「後片付けしなくちゃ」と続け,Bウルル行きの画面に切り替わります。AとBの間で時間は切れているものの,意味合いとしては一直線につながっており,Aの時点で既にウルル行きを念頭に置いて「後片付け」と言っているものと考えられます。
 恐らく,重ジイから亜紀が律子に託したテープを渡されてすぐに大沢サクはこれを聴いたのでしょう。ふうたろうさんのおっしゃるとおり,テープがウルル行きの動機付けであったろうと私も思います。
 そして,テープがサクに渡ったのが17年後だったからこそ,ウルル行きの動機づけになりえたのでしょう。ドラマ版で「ソラノウタ」がサクの手に届いたのが17年後だったことについての議論がありましたが,これと同様,喪失感の真っ只中ではなく「後片付けモード」に入ってから亜紀が何を望んでいたかを知ったがゆえに冷静に対処できたのでしょう。

 ふうたろうさんのおっしゃるとおり,大沢サクは確かにドラマ版と比べると「亜紀を引きずっている」ということが強烈に提示されている訳ではありません。それでも,雨の体育館で亜紀の幻影を見て,それを大木に電話していますし,小林という背中を押してくれる存在なしに封印した缶からテープを取り出すことができた反面,防波堤やブランコなど思い出の場所をたどりながら,重ジイの写真館の前だけは最初は素通りしています。無意識のうちに避けていたのかもしれません。
 一方,「僕は忘れなければいけないと思った」と語るドラマ版の大人サクも,一樹には「サクも泣いたり怒ったりすることがあるのかな」(第1話)というふうに映っています。どこまで表面に出ているか,強調して描かれているかの差はあるものの,ともに「無理して自分ではない自分を作っている」ドラマの亜紀を思わせるような側面もあります。
...2007/03/17(Sat) 21:14 ID:V7It.Onw    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 大沢朔太郎の場合、どれだけ喪失感にさいなまれていたのでしょう。故郷に帰ってしばらくは、亜紀との思い出を楽しむふうなところがあるように思います。具体的には、大沢朔太郎が町を見下ろすブランコのある公園にやってきたりする場面は、喪失感にさいなまれているというよりは、遠い青春の思い出に思いをはせているように感じます。

 また、交換テープを探し出した時も、封印していたというよりは、普通に仕舞ってあったのを見つけた、というように思えるのは、わたしだけでしょうか。

 大沢朔太郎の場合、「無理して」自分を装っているという感じではなさそうに思えて、仕方がありません。
...2007/03/18(Sun) 09:29 ID:jkYS4/hM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 確かに,映画とドラマの大人サクを比べると,映画版の方が亜紀に対して淡白な感じがしますね。
 そのせいか,郷里からも逃げ続けた結果として17年間も帰らなかったドラマ版(ナレーションで「17年ぶり」と明言)に対し,映画版の大人サクは初めての帰省ではなさそうな描かれ方です。いきなり部屋に上がりこむところもそうですが,母が「式に着る服」云々と言うのも,近日中の帰省を前提にしていた感じです。挙式間近ですから,少なくとも頻繁に連絡は取り合っていたはずです。
 それでも,重ジイの前で泣き崩れたり,雨の体育館で幻影を見たりしていますから,トラウマを抱えていることは確かですが,ドラマ版のように重度の持続型というよりは,間欠泉型なのかもしれません。
...2007/03/18(Sun) 22:50 ID:ZzjajEv.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 大沢朔太郎は、確かに母親とのやり取りはあったように感じます。また、龍之介との付き合いもあり、また墓地での友人(ジョニー?)との再会も苦に感じていないような気がします。

 それに対して、緒方朔太郎は徹底して、高校時代の友人・教師をはじめ、親までも、付き合いも断絶している様に思います。かなり重度で持続的な喪失感です。


 ところで、原作の方はどうだったのでしょう。朔太郎が当時を振り返る、そんな語り口で進んでいく物語なので、語られる時点では喪失感を克服していたのかもしれません。ですから、亜紀との思い出を語り出したのは、原作ラストの散骨後というように思えます。それ以前は、どれほど重症だったかは図りかねますが、喪失感を患っていたような気がします。


 
...2007/03/19(Mon) 06:27 ID:sXCAbMGs    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作にも,「最後の時に会おうとしなかった(これだけで単独のスレが立ったこともありました)」というセリフが出てくる祖父との哲学的な会話や,時が喪失感を癒す象徴として角の丸くなった石の地蔵が登場したりします。いずれにしても,重病の恋人を病院から連れ出し,その結果,寿命を縮めてしまったとなると,トラウマにならない方が不思議です。

 ただ,喪失感の強さを並べた場合,ドラマ版が突出しているように見える(逆に言えば,ドラマ版に対して引いてしまう人の多くが大人サクの描かれ方をあげる)のは,その喪失感の要因かもしれません。と言うのも,原作(祖父との会話)や映画(大木との電話)では「最後の時,会おうとしなかった」というセリフが登場するのに対し,ドラマ版だけが「連れ出さずにいれば骨髄移植が開発されるまで持ちこたえられたかもしれない」という点を強調しているからです。
 つまり,単に恋人を喪ったというだけではなく,その終焉に(いくら本人の希望だったとはいえ)自らが積極的に関与してしまったことを責めているのがドラマの特徴だと言えるでしょう。

 映画の場合,その原因となった病院からの脱出行は「その場のノリ」といった「軽い」印象を受けます。少なくとも,病室での会話にウルルの写真は登場するものの,原作やドラマのようにアボリジニの世界観について突っ込んだ議論を交わしている訳ではありません。
 「最後の時,会おうとしなかった(これは恐らく(物語の上での)「事実」でしょう)」亜紀は「台風の日に誰にも看取られず一人で亡くなった(これは恐らくサクの思い込みのようですが)」というのが映画版のサクの述懐ですから,「喪くす痛み」だけが前面に出され,「連れ出さなければ」という部分の有無は観衆の解釈に委ねられています。
 原作の場合は,そもそも設定年代が骨髄バンク発足後ですから,本文中に「薬が効かなければ,後は骨髄移植か」という一節があります(これに基づいた漫画版では,ドナーが見つかったものの適合しなかったというエピソードを追加しています)。

 長くなりましたが,同じ喪失感でも,ただ単に「喪ってしまった」というのと「自分がこの手で」というのでは,質・量ともに強さの度合いが異なるというのがドラマ版と映画や原作の大人サクの描かれ方の違いなのかもしれません。
...2007/03/19(Mon) 12:57 ID:ZrvRwk4.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 主人公たちのそれぞれの両親の描かれ方を見ると,亜紀が夢島からの帰りに倒れた映画やドラマでは,サクは急を聞いて駆けつけた亜紀の父親に張り倒されていますが,それよりも重大な結末をもたらした病院からの脱出行では,原作も含めてそのような場面は登場しません。
 映画やドラマの場合,病院のベンチで「何もしてやれない」と頭を抱え込む場面や,「こんな知らされ方は不愉快だ」という場面を通じて,娘の病気を受け入れるのと並行して,最初は拒否していた娘の交際相手を受け入れる姿が描かれています。これに対して,原作では,それぞれの両親が登場する場面こそ少ないものの,かなり前から両親公認の仲だったような描かれ方になっています。
 では,病院からの脱出行に際しての原作における亜紀の両親の心境はどのようなものだったのでしょうか。
...2007/04/02(Mon) 12:58 ID:RIgNdH6M    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:森下幸彦
 秋・亜紀・亜季・亜樹・亜希・・・
 「アキ」と入力して変換キーを押すと、このように出てきます。これを比べて見ると、「秋」以外は、いずれも、それだけで名前になりそうですが、「秋」だけは、「秋子」とか「秋江」とか後に何か来た方が落ち着きがいいという感じがしませんか。
 もし、ヒロインの名前が「アキコ」なり「アキエ」だったら、「アキコ」の「アキ」って季節? それとも明るい? ひょっとして白亜紀? といった展開も自然に流れていくのですが、単に「アキ」と言う名で真っ先に季節の秋が浮かんでくるものなのか・・・
 やはり、季節と勘違いする名前というプロットが最初にあって、そのために「アキ」という発音が選ばれたのでしょうね。
...2007/05/13(Sun) 18:14 ID:T/xNFmMo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:一恭山
>>183
 母の口から「6割はよくなるけど4割は厳しい」と語られているところから見て、病気の厳しさについては認識していたと思います。その上で、両親は「小康状態が得られたら修学旅行で行けなかったオーストラリアに連れて行こう」とも言っていますし、それに朔を誘ってもいますから、どこかに「亜紀の気が済むように」という気持ちはあったのでしょう。
...2007/06/22(Fri) 21:37 ID:Gtln5tqM    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 6月23日の朝日新聞の文芸欄に,カンヌ映画祭グランプリ受賞作「殯(もがり)の森」についての記事が載っています。
 日本書紀にも登場する「殯」というコトバについて,この映画では「死を惜しみ,しのぶ時間。また,その場所のこと」と説明していますが,この記事では,識者の談話を紹介しながら,遺族が近親者を「死者」として受容していくプロセスが「喪の期間」であり,死→殯→葬という「喪の期間」が短くなるにつれて,殯はすたれていったこと等が語られています。
 死が愛する者を連れ去ったあと,大人サクも「殯の森」をさまよい続けていたのでしょうね。
...2007/06/24(Sun) 02:18 ID:AmdbFKI.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:芥川朔太郎
>>季節と勘違いする名前というプロットが最初にあって、そのために「アキ」という発音が選ばれた

 作家の名前を冠した人物が2人いますが、普通なら主役の方が知名度の高い名前をとるところを、「芥川龍之介」は大木に譲り、「萩原朔太郎」の方を主人公がとっているのも、「ソクラテス」と似た語感というのが先にあったためでしょう。
...2007/06/30(Sat) 14:34 ID:sydGtL2w    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 亜紀の葬儀を終えてそんなに日が経っていない頃,サクは祖父と「人がいなくなること」・「好きな人を喪くすことの辛さ」等についての会話を交わします。その中で,祖父は,死んだ者は悲しむことすらできないが,代わりに悲しむことによって,サクは亜紀を生き始めていると言っています(175〜182頁)。
 別の事情から祖父を早々に他界させたドラマ版では,祖父の役割を担任をはじめ他の登場人物に割り振っていますが,亜紀はサクの中で生きているというセリフは小林によって語られます。
 加えて,最終回のエンディングでは,娘に亜紀と命名したり,船に夢島の写真を飾ったりと,亜紀はみんなの中で生きているという様子も描かれています。

 さて,「隣のあの娘はおまえの中にいる」というソラノウタを読んだサクが母校で亜紀を送る場面では,「生きている限り遠くなるばかりだけど,僕は走る事をやめない」と言い,それに続けて「走り続ける僕たちの足跡は君がいた証」と述べています。
 では,ここの後半の部分が「僕たち」と複数形になっているのは,どういう人たちを指しているのでしょうか。
 自らの中に同化した亜紀と一緒にという意味だと,前段の部分とうまくつながりませんが,「亜紀さんは松本君の中で生きている」ことをそのまま受け入れてくれた小林や一樹と新しい人生を生きていくという意味なのでしょうか。それとも,スケちゃん,智世,両親など,それぞれの中で亜紀が生きている状態のみんなのことを指しているのでしょうか。もちろん,両方にかけてあるとも考えられますが・・・
...2007/08/12(Sun) 07:46 ID:ej2lu9QA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ぶんじゃく
生きていく皆じゃないでしょかね。

死んでしまった人のことを思うのは生きている
人達だから、僕達が生きている限り亜紀が
消えてしまう事はないんだよ。

っという感じじゃないでしょうか。
...2007/08/12(Sun) 22:26 ID:voxMYp3k    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 わたしも、ぶんじゃくさんの言われるとおり、朔太郎のみならず、両親、友人を含め、亜紀を取り巻く人々を「僕ら」と言っているような気もします。それが、最終話のエンドロールの映像で表現されていると思います。
 ここでいう「足跡」は、朔太郎の生きざまだけでなく、周囲の人々の生きざまでしょう。なので、「足跡」は一本に続く、いろんな方向に向かっているんだと思います。

 ただ、少し疑問もあります。
 朔太郎が校庭で亜紀の骨をまいた時点で、朔太郎は亜紀の両親はともかくとして、自分以外の人々の胸にも亜紀が生き続けていることは、多分、知らなかったような気がします。つまり、緒方朔太郎のナレーションが、映像とリンクした時間で語られているとすると、「僕ら」の意味していることは、先ほど述べた、「僕ら」=「亜紀を取り巻く人々」とは異なってきます。

 ただ、このナレーションは物語を総括して語られたものだと、わたしは理解しています。
 朔太郎は散骨した時点で、自分の中に亜紀が生き続けていることを自覚した。そしてその後、宮浦に帰った朔太郎は、智世ら友人たちと再会し、彼らの中にも亜紀が生き続けていることを知った。それを前提に、あのナレーションが語られている。わたしはそう理解しています。
...2007/08/14(Tue) 05:43 ID:oRYt0OXA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 ぶんじゃくさん
 ふうたろうさん
 やはり,皆さんのおっしゃるとおり,僕たち=「生きていくみんな」であり,あのナレーションは物語を総括するものと考えるのが最もスマートな解釈ですよね。そう言えば,「ソラノウタ」の書き出しは「生きていく「あなた」へ」でしたが,この「あなた」をサクに限らず読む人すべてと複数形でとらえれば,そこともつながってきますよね。
 あと,今になって気がついたのですが,小林に言われたり,「ソラノウタ」を読んだりして亜紀が自分の中で生きていると気がついた時,昔,スケちゃんから「おまえさんは廣瀬が欲しかったものをみんな持っている」と言われたことも思い出して,スケちゃんたちみんなの中にも亜紀は生きているということにも気がついたのかもしれません。
 また,卒業式の日に逃れるように上京したサクは式そのものには出ていませんが,亜紀が遺影で出席することは智世たちから知らされていた可能性もあります。もともと亜紀を病院から連れ出すことを逡巡した理由の一つに「亜紀のことを思っているのは自分だけではない」ということもありましたから,逆に,自分の心が整理できた時に,こうした人たちみんなの中に亜紀が生きていることを感じたことも考えられます。
...2007/08/16(Thu) 12:56 ID:LkVX1m6I    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 ずいぶん以前、別スレでわたしは、このドラマに悲劇性を感じないと書いたように記憶しています。その核心は、今、議論している、亜紀が死んでも、残されたものの中に何らかの形で亜紀が生き続けている、というメッセージだったんだと、今さらながら思うところです。

 このドラマの見どころは各話にあります。しかし、最終話まで見ると、原作のテーマである「喪失感」に、森下氏が「受け継ぐ想い(願い)」というテーマを加えた、この物語のもう一つのテーマがよくわかると思います。そして、すでに1話の冒頭において、村田先生の葬儀において亜紀に「ソラノウタ」の詩を語らせておいて、最終話への布石が打たれているところが、何とも心憎いところです。
...2007/08/18(Sat) 05:26 ID:TpjYwvXc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 活字で書かれた小説は単に「弔辞を読んだ」とだけ書いて済ますこともできますが,映画やテレビの場合,映像の他に「音声」も必要になってきます。
 そのためか,原作では弔辞を読む姿に何かを感じる様子が描かれていますが,その弔辞の内容自体には触れられていないのに対し,映画もドラマも,そこで読まれる弔辞には,いのちがどこかで受け継がれていくというメッセージが込められています。
 このあたり,「この世界の両端に亜紀がいる」と感じて母校の校庭で撒くに至る原作の流れを,いきなりラストでぶつけるのではなく,より早い段階から丁寧に描いているという感じがします。
...2007/08/23(Thu) 13:00 ID:HJ0VKy1E    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 先日、久しぶりにドラマ版1話を視聴しました。しかし、今もって、朔太郎と龍之介が校庭で自転車二人乗りをしながら、
 龍之介 「どこ行くよ、おまえさん」
 朔太郎 「おまえさんとなら地獄まで」
のシーンが、どうもしっくりいかないんです。

 その一つが、この会話で龍之介の言う「おまえさん」は、朔太郎を指していますが、朔太郎の言う「おまえさん」は龍之介を指していると素直に理解していいのかということ。

 二つ目に、なんで校庭で二人乗りだったんだろうということです。普通に考えて、そんなことをしていると教師にとがめられます。また、時間帯は放課後と考えられるのですが、放課後は部活で校庭はとても自転車がを乗り入れるようゆとりはないように思います。どうも、こことところもしっくりきません。

 どなたか、ここのところをすっきりしてくださる回答をいただけませんか?

 ちなみにこのシーン、わたしは朔太郎と龍之介の関係を表したものなんじゃないかと考えています。つまり、朔太郎にとって龍之介が一番信頼している友人であるということを、ハガキ事件の中で表しているのだと。
 亜紀も朔太郎と付き合う中でそのことを理解して、最終話の亜紀からの龍之介への遺言テープでも、「朔ちゃんをよろしく」と言い残したのでしょう。
...2007/08/25(Sat) 05:38 ID:wfs5tXYg    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 原作の中でサクと亜紀以外で唯一フルネームが与えられているのが大木龍之介ですから,スケちゃんは,それだけ特別な存在として登場してくることになります。夢島行きを企画したのもスケちゃんですし,「気持ちの整理がついたら撒けばいい(198頁)」とか「廣瀬が欲しかったものをお前さんは持っている(最終回)」とか,情景やセリフに違いはあるものの,亜紀を喪った後のサクのフォローもしています。

 家族や友人たちも丁寧に描いたドラマの場合,スケちゃんは「明日死ぬとしたら何をしたい(8話)」など,要所要所でサクの背中を押す役割を果たしていますから,サクが最も信頼する友人がスケちゃんであり,そのことを亜紀も判っていたから,遺言テープの中で「サクちゃんを宜しく」と言ったというのは,ふうたろうさんのおっしゃるとおりだと思います。
 あのハガキを書いた後ろめたさから傘を返すのもぎこちない朝のやりとりがあった日の放課後,「地獄まで」のやりとりがあり,夜釣りをしながら聴くラジオの場面へとつながっていきます。ひょっとしたら,釣り糸を垂れながら,ボウズに頼まれたとはいえ,とんでもないハガキを書いてしまったという懺悔をしていたのかもしれません。

 一方,校庭を部活で使われている時間帯に2人だけで自転車をこげるものかという問題提起については,なかなか的確な解決が見つかりません。
 ひょっとすると,翌日がテストだったのかもしれません。期末はもう少し後ですが,模試があった可能性はあります。これは,第2話で亜紀がラジオを聴きながら「C判定」の結果に「頑張らなきゃ」と呟くシーンからの推測ですが,全国統一模試を平日にやるかという問題と,1日の結果を6日に返却することが可能かという問題があるのが弱点です。
 あるいは,部活が終わってみんな帰った後の校庭のシーンの可能性も考えられなくはないのですが,それならもっと暗くなっている筈だという反論もありそうです。
...2007/08/26(Sun) 19:47 ID:/UyQMZK2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 わたしも、部活後の二人乗りを考えたのですが、にわかマニアさんがおっしゃるとおり、やはり明るすぎるように思います。

 まあ、このシーンが果たして現実であったのか、あるいは朔太郎が回想している1シーンであったので、時間帯とか場所だとかを詮索すること自体が無意味なのか、そんな議論もあるかもしれません。


 龍之介は、この一連のハガキ事件のことを朔太郎から聞かされていたかも知れませんよね。
 1話において、亜紀が朔太郎を咎め、その後、ボウズが朔太郎を責めるところを龍之介は目撃しています。この時点で、この事件のきっかけを龍之介が知っていたかどうかは明らかではありません。
 しかし、わたしも龍之介は一連のことはどこかの時点で朔太郎から聞いていたような気がします。
...2007/08/30(Thu) 22:28 ID:4bti.szs    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 以前、このスレでドラマ版での「ソラノウタ」について語り合いましたが、改めて「ソラノウタ」について考えてみました。

 その一つが、亜紀にとっての「ソラノウタ」の意味づけです。


 「ソラノウタ」は、一般的には亜紀から朔太郎への遺言と理解されていると思います。確かに、最後のページの「がんばれ」は亜紀のいない世界で生きる朔太郎への強いメッセージでしょう。

 しかし、亜紀が「ソラノウタ」を作ろうと思ったのは、朔太郎のプロポーズを受けた晩からです。この時点で、亜紀は自分の死期が目前に迫っているとは露ほども思っていなかったでしょう。

 亜紀は近くに迫った朔太郎の誕生日プレゼントとして「ソラノウタ」を作り始めたのではなでしょうか。「10月23日」とつぶやいた亜紀が、真島の残したスケッチブックを見ているシーンを見ていて、わたしはそう思ったところです。

 そして、亜紀は本当はウルルに行く日(朔太郎の誕生日)に「ソラノウタ」を朔太郎へ直接、渡さねばならないと思っていたはずです。しかし、病院を抜け出したり、朔太郎を突き飛ばしたりしているうちに、うっかり渡しそびれてしまった。

 そんなふうに考えてみましたが、みなさんはどうお考えでしょうか?
...2007/09/11(Tue) 23:19 ID:IctfBX7Q    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ぶんじゃく

ふたろう様の言われるとおりだと思いますよ。
最初のページの「生きていくあなたへ」と
最後の「がんばれ」は自分の死期を悟った後に
かきたしたんじゃないでしょうか。

最初にお葬式で亡くなった人の為によんで
最後に死んでいく自分から生きていく朔へ
送る、 あまり好きな言い方ではないですが
脚本の妙に脱帽です。

久々に我が家の^^;「ソラノウタ」を
読んでみました。
...2007/09/12(Wed) 01:00 ID:voxMYp3k    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 ぶんじゃくさん、
 わたしも、最後ページの「がんばれ」は目前の死期を悟ってから書くことにしたんだと思います。

 単に、誕生日プレゼントの「ソラノウタ」であれば、「がんばれ」のページはなかったと考えます。
 基本的に「がんばれ」アレルギーの亜紀です。谷田部に「廣瀬はどんなふうに生きてきた?」と尋ねられて、やっと亜紀は自分自身の「がんばれ」アレルギーを克服したんだと。そして、その言葉を朔太郎に贈ることができる境地に達したのではないでしょうか。
...2007/09/12(Wed) 05:55 ID:o.MUS1r2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 ぶんじゃくさん,ふうたろうさんに同感です。
 もともと,米大陸先住民族の詩を「原作」として,最後に「隣のあの子はおまえの中にいる」を追加したのが「ソラノウタ」です。最初は,前々から気になっていた文章に真島の絵とサクの写真をミックスして,絵本づくりの「第一作」にしようとしたのでしょう。
 亜紀が書き足した最後の数行は,「ここからいなくなっても,いつも一緒にいるから」という原作の病室での会話(160頁)に対応するものと考えられますが,恐らくは,余命いくばくもないことを悟ってからの追加だと私も思います。
 では,書き始めた時点で,余命のことを全く意識していなかったかと言えば,既に第8話の段階で,「子どもを産むのは無理」でも,「そういう年代に達するくらいまでは生きているだろう」という会話を母娘で交わしています。もちろん,この段階では,「遺言」を意識せざるを得ない程の切迫した状態ではありませんが,夜の病室でのプロポーズを受けてのセリフが「もうサクちゃんにあげられるもの何もない」だったことに着目すれば,自分が生きた証として作った「ソラノウタ」を誕生日プレゼントとしてサクに「あげる」という意味も込められているのでしょう。
...2007/09/13(Thu) 12:55 ID:2xcyyKsc    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 ぶんじゃくさん、にわかマニアさん、ありがとうございます。みなさんのコメントで、この件についてはわたしなりに納得できました。


 そこで、またお尋ねします。
 真、そして綾子は、空港での落し物として廣瀬家に戻ってきた「ソラノウタ」を、なぜ朔太郎への贈り物だと理解できたのでしょう。

 やはり、「ソラノウタ」のメッセージからして、朔太郎への贈り物と二人は思ったのでしょうか。
...2007/09/13(Thu) 21:27 ID:jPXbWEA.    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ぶんじゃく

やっぱり恋人だし、あれだけ朔ちゃん朔ちゃんって
言っていれば親もそう思うじゃないでしょうか。
それに自分の親に「がんばれ」とは言わない
だろうしそうなればやっぱり朔宛てだと
思うじゃないでしょうか。
...2007/09/13(Thu) 22:43 ID:LCUIOsXQ    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 病院を脱け出した亜紀のベッドに並べられたテープは葬儀の際にそれぞれの宛先の人に渡されますが,その中にサクの家族宛てのものはあっても,サク宛てのものはありませんでした。このサイトでも,それは何故かという問題の立て方が何度かなされましたが,その答が「ソラノウタ」でした。
 では,その「ソラノウタ」がサク宛てのものだったことがなぜ判ったのかと言えば,ぶんじゃくさんのおっしゃるとおり,「あれだけ朔ちゃん朔ちゃんって言っていればそう思う」でしょう。それに,「親にがんばれとは言わない」でしょうし・・・
 あと,もう一つ付け加えるとすれば,標題が「生きていく「あなた」へ」だったこともあると思います。あの時点で亜紀が「あなた」と呼ぶ可能性のある人物が他にいたでしょうか。いくら普段はファーストネーム(の略称)で呼んでいたとはいえ,親や教師を「あなた」とは呼ばないでしょうし,消去法で消していくと,最後に対象として残るのは恋人以外にはありえないと特定されてくるのではないでしょうか。
...2007/09/14(Fri) 01:25 ID:XMATyNFY    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 そうでしたね。「生きていくあなたへ」が冒頭に来ることを考えると、朔太郎宛の作品だと思いますよね。それと、さすがに親に「がんばれ」はないですよね。


 それにしても、真と綾子は「ソラノウタ」を見て、すぐに亜紀の骨をウルルに撒いてやろうと、なぜ思ったのでしょうか?
 やはり、あの詩がアボリジニのものであり、その聖地がルルであることを、二人とも理解していた上で、そこに自分を撒いて欲しいという、亜紀の願いを叶えたいと、すぐに思ったのでしょうか。
...2007/09/14(Fri) 16:12 ID:ZsmgnP/2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 最後のときサクと会っていない(179頁)亜紀の遺言は,映画のようにテープで伝えられるか,原作やドラマのように両親に伝えられるかしかありません。それを聞いた側にしてみれば,違和感は感じつつも,「何だか気になって,叶えてやらないと心残りだから(186頁)」というのが正直なところでしょう。
 ドラマの場合,少なくとも,綾子については,亜紀が最後の力を振り絞って完成させた「ソラノウタ」を手にして,亜紀の最後の願いを叶えてやろうという気になったと考えられます(どこまで納得したかはともかく)。

 ただ,ドラマの真の場合,判って実行したと考えられる点があります。
 まず,ドラマの場合,亜紀にアボリジニに関する本を差し入れたのは真でした。もちろん,書店で店員に「何かアボリジニのことを書いたものを」と注文して,出されたものをそのまま買って帰ったという可能性もありますが,真の性格からして,実際に自分の手にとって一読した上で買った可能性の方が高いでしょう。
 本を差し入れた時点で,その書いてあることをある程度知っていたとすれば,「ソラノウタ」を手にした瞬間,その意味するところが判ったでしょう。また,内容まで判らないまま単に差し入れただけだったとしても,単なる童話の絵本ではない「ソラノウタ」を手にしたら,そこに「何かかる」とひらめくものがあり,改めて自分が差し入れた本を読み返したということも考えられます。
 次に,二度の埋葬と永遠の命というアボリジニの死生観ですが,現地のガイドや運転手によって語られる原作や映画と異なり,唯一ドラマだけが真によって語られます。しかも,なお躊躇を見せる綾子やサクに「これは亜紀の願いなんだ」とまで言っています(もちろん,自分に言い聞かせるという意味もあったでしょうが)。
 つまり,少なくとも,散骨に向かう時点までには,真はアボリジニの世界観も含めて亜紀が何を思っていたかを理解していたと考えられます。

 亜紀が病院を脱け出した時,取り乱しそうになる綾子を制して,まずテープを聴いたのは真でした。これは,夢島で亜紀が倒れて帰ってきた時にサクを張り倒し時の対応とは明らかに異なります。
 ウルルに向かう直前になって,「父の好みで」と思い込んでいた廣瀬家のクリームコロッケは,実はそもそもは亜紀のリクエストだったというエピソードが登場するのも,ここで「実は娘のことを何よりも考えている父親」像を提示することによって,なぜ亜紀がアボリジニの聖地を目指したかを理解している人物としての真を表現しているのでしょう。

 あと,「ガンバレ」で締めくくられた「ソラノウタ」をサクに手渡す際,真は「よく頑張ったなあ。もう十分だ」と言っています。これも,半ば真自身のコトバではあるのでしょうが,直前の小林とのやりとりと併せて考えると,亜紀になりかわって言っているようにも見えます。
 あるいは,真は亜紀だけではなくサクの理解者だったのかもしれません。
...2007/09/15(Sat) 08:05 ID:.c8pBoK2    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 おっしゃるとおり、真は朔太郎のよき理解者だったと思います。早い時点から、これから白血病との長期戦を余儀なくせざるを得ない亜紀に付き合っていこうとする朔太郎を、真は案じています。朔太郎の亜紀への誠実かつ深い想いを、真は認めていたが故の、朔太郎への理解だと思います。


 ただ、亜紀を病室から連れ出した朔太郎の行動について、真はどう思っていたのでしょう。

 潤一郎が葬儀場で亜紀の遺影を真に渡し、「あの馬鹿が、すみませんでした」と言って頭を下げたのに対し、「こちらこそ、「さいご」までありがとうございました」と真が答えます。
 真のこの「さいご」は「最後」だったのか、「最期」だったのか…。
 「最後」だと、潤一郎が遺影を準備してくれたことだと思います。また「最期」だと、朔太郎が亜紀の願いを叶えようと、亜紀を空港まで連れ出したことに対してだと思います。

 ただ「最期」については、真が素直に「ありがとうございます」と感謝していたものなのか?
 わたしは、「夢島の時も体調の悪い亜紀を家から連れ出し、倒れるまで無理をさせた上、重体の亜紀までも病室から連れ出し、瀕死の状態にまでさせたではないか」、そんな思いが真にはあったんじゃないかと考えます。もちろん、二つの行動とも亜紀の強い意志があったことは理解していたと思いますが…。
...2007/09/16(Sun) 06:05 ID:isW1WFeA    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 183番で書いたこととも重複しますが,確かに,重篤患者を病院から連れ出すという無謀とも言える行為が周囲(特に親)にどう見えたかが以前から気になっていました。
 ただ,少なくとも,ドラマ版の場合,この脱出行は主犯=亜紀・共犯=サクという構図になっています。そのきっかけを作った本を差し入れたのは真ですし,娘の性格も知っていますから,そこに亜紀の強い意志が働いていたことも感じていたでしょう。
 そのせいか,亜紀が脱け出した後の病室のシーンで,主治医の素っ頓狂ともいえる「反抗期」という見立てに,真は妙に納得したような表情を見せています。あるいは,この時点で,あの「最後の晩餐」は家を空けている間に荷物を取りに行かせる工作だったのかと気付いたのかもしれません。

 もちろん,人間の感情は,いろいろな要素が複雑にからみあって存在していますから,ふうたろうさんがおっしゃるような気持ちもあったと思います。そして,そういう疑問をむしろ原作の方に感じてしまうのです。
 原作では,亜紀は「とにかくここから逃れたい」という気持ちは抱いていましたが,それをオーストラリアへという具体的な方向に持っていったのはサクの方でした。その娘の寿命を縮めた人物と亜紀の両親が一緒に散骨に向かうシーンから始まり,しかも,サクの父も空港まで見送りに行っているという原作を初めて読んだ時以来,両親の心境はどうだったのだろうかということが気になって仕方ないのですが,なかなかうまい答えが見つかりません。
...2007/09/17(Mon) 07:53 ID:bZgZ8Mu6    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:ふうたろう
 そうなんですよね。ドラマでいえば、真と綾子の亜紀を連れ出した朔太郎への感情は、計り知れないところがあります。

 例えば一人の人間に二面性があるとすれば、冷静な部分では、亜紀の願いを最後まで叶えてくれようと感謝し、かつ、叶わなかったウルル行きを私たちと一緒に行ってやって欲しいという気持ちがあったのでしょう。だからこそ、散骨に朔太郎を誘い、連れて行ったのだと思います。
 しかし一方の感情として、「亜紀の先が長くないことを知っていて、なんてことをしでかしてくれたんだ。おまけに、亜紀の葬儀にも来ず、仏壇にも手を合わせようとしてくれない。」という気持ちもホンネのところであったのではないでしょうか。いえ、朔太郎が亜紀の死を受け入れられないことを、重々承知の上で。
 わたしはそれが、「ソラノウタ」をすぐに朔太郎に渡さなかった一因ではないかとも考えています。
...2007/09/17(Mon) 09:01 ID:V84GJo.A    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:おじいちゃんっ子
原作の朔太郎は祖父の骨を撒いたのでしょうか。撒いて欲しいと頼まれ、どこで撒くかのやりとりは書かれていますが、撒いたかどうかは書かれていません。亜紀を亡くして何年か経った後に帰郷した場面の書きぶりからすると、その時点で既に祖父が亡くなっていたことは確かなのですが、よくわかりません。
...2007/11/12(Mon) 10:07 ID:iZuJLRQo    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 撒いて欲しいと頼まれたのは,亜紀の存命中のことでしたが,好きな人を亡くす辛さなどについての会話は,亜紀の葬儀から最初の散骨行(亜紀の両親とオーストラリアへ)の間のことでした。その時には躊躇を感じていたのが,原作のラストではそれほどの葛藤もなく撒いています。
 この言わば「ある種ふっきれたような気持ち」をもたらしたものが,亜紀をめぐる気持ちのありようの変化(亜紀はどこにでもいると実感できるようになった)だけなのか,その前に祖父を送った体験で一種の「免疫」ができたためなのか,判断に迷うところです。
...2007/11/12(Mon) 12:40 ID:GOnm.o.w    

             Re: 謎解き世界の中心で愛をさけぶ2  Name:にわかマニア
 映画の重ジイは主人公とは血縁関係のない存在として描かれ,サクたちは骨を盗ってきて欲しいと頼まれるだけで「撒いてくれ」と頼まれた訳ではありませんが,原作・映画・ドラマの三者は,祖父と昔の恋人の骨のエピソードは結ばれなかった人と死後の世界で一緒になるという意味を持っている点で共通しています。
 しかし,それと同時に,この物語を貫くテーマの一つが「好きな人と一緒にいるのと,遠くにいる好きな人を想いながら暮らすのと,どちらが幸福か」という問題提起です。そして,現実のサクは,亜紀を亡くした後,原作では氏名不詳の人物と,映像作品では律子や小林と一緒に暮らしていくことになります。このサイトでも,「その後のサクはどちらを想って生きていったのか」というテーマで議論が交わされています。
 つまり,同じ散骨でも,祖父の散骨と亜紀の散骨では意味合いが異なってくることになります。そこの問題があるため,同じモチーフでも,単純に「AはBの再現」とはいかなくなっています。原作が祖父の散骨について明示的に触れていないのは,そうしたことも含めて読者に解釈を委ねているのかもしれません。
...2007/11/12(Mon) 12:58 ID:GOnm.o.w    

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