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過去ログNo1
ドラマと映画  Name:エミ
みなさんこんにちわ!!!
セカチューはドラマ版から見ました★一話一話必ず泣いていたので、映画も泣けるのかと思い、いまさらだけどレンタルしてきました♪
感想なのですが…率直に言うと、泣けませんでした!!
人それぞれ感じ方が違うけど、みなさんはどぅでした??一つ納得がいかないのは、森山君が泣かなかったのが残念です…
私は、ドラマの方が良かったのではと…
...2005/06/12(Sun) 13:20 ID:9V5VsFD.    

             Re: ドラマと映画  Name:say
映画の中の朔は亜紀が頭を剃ったのを病室を覗いて知ったとき、祭りの中を歩きながら泣いていましたね。
この時亜紀の死をリアルなものとして受け取ったのではないでしょうか。
それと亜紀が死んでからの朔の表情が見えるシーンは無かったと思いますから、泣きながら叫んでいたのかもしれませんし、この時には涙は枯れていたのかもしれません。

ちなみに私も数回見ただけでは泣けませんでした。
...2005/06/12(Sun) 15:43 ID:9YBGxus6    

             Re: ドラマと映画  Name:ひらぽん
私もドラマから見て毎回泣き、次に小説を読み泣き
映画を見ました。映画でもなきましたがドラマほどではなかったです、やはり時間の長さと濃密さがドラマの方が深くなってしまうと思います。映画を3度見直しましたが、映画もいいものだと感じます。人それぞれ同じような恋愛、ドラマ、ストーリー、人生があるように、ドラマと映画を別の物語、別の恋人のストーリーと、とらえるとそれぞれ味があっていいものに感じるかも知れませんね。
...2005/06/14(Tue) 00:07 ID:T8mkoLK.    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 私も,できるだけ公平な見方・書き方をするように心がけてはいるのですが,本音の本音の部分でドラマ派というところがどこかで出てしまうことがあるのですね。そういう意味では,無意識のうちにバイアスがかかっているかもしれないので,ちょっと割り引きながら読んでください。
 まず,白紙の状態で見るのと,既に何らかのイメージができた上で見るのとでは,受ける印象が違ってきてしまいます。同じ原作に基づく作品で,しかも,「亜紀を亡くした後のサクの葛藤」を描くというところまで共通点がありながら,映画とドラマではかなり切り口が異なります。映画を「サクと亜紀の物語」ではなく,「今サクと律子の物語」としてとらえれば,律子の登場の仕方や世界の中心の解釈についての違和感はともかくとして,「映画の世界」が理解できると思います。
 それと,映画館で見るのと,茶の間で借りてきたビデオなりDVDを見るのとでは,どうしても印象が違ってきてしまいます。私の場合,ビデオやDVDはストーリーをチェックするための「メモ帖」と割り切っていて,どうしても「感動」が欲しい時には,カネと時間はかかりますが,映画館にそれを「買いに行く」ようにしています。
 ただ,不思議なことに,一方にはまればはまる程,もう一方の「アラ」ではなく「よさ」が見えてくるというのが,この物語の不思議な魅力なのですね。冒頭に「どちらかと言えばドラマ派」と自己紹介しましたが,それでも一番のお気に入りのキャラは重ジイですし,一番のお気に入りのセリフは「○○ってのはエライこった」という部分です。
 
...2005/06/14(Tue) 04:35 ID:dOO9SsRc    

             Re: ドラマと映画  Name:騰コ
ちょっと話がずれるかもしれませんが、映画の中での深夜のラジオジョッキーですが、サクが始めて聞いたときの時間と、アキが病室にいるときの始まりの時間が違うように思いましたが、みなさんはどのように考えていらっしゃるでしょうか?

本当は謎解き・・・でやることかもしれませんが、あちらはもうすぐスレが埋まりそうで、自分が最後に書くのも申し訳ないと思って、こちらに書かせていただきます
...2005/07/19(Tue) 01:18 ID:.3EGzFgA    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 確かに,サクが自宅で初めてあの番組を聴く時の時計が深夜1時過ぎだったのに対して,亜紀が病室でラジオを聴いている時の枕元の時計は0時半頃を指していましたから,30分の時間差があります。
 このうちの一方(遅い方)が番組の途中ということであれば,話は簡単なのですが,いずれもアナウンサーが「これから番組が始まる」意味のことを話していますから,放送開始時間が違っていたと考えるほかありません。となると,その答は,2人が知り合った頃と亜紀の入院後という時期の差に求めるしかありません。
 映画もドラマも2人の馴れ初めは梅雨時でしたが,夏休みに入ってすぐに入院したドラマに対して,原作や映画では,夢島は夏休み最後のイベントで,亜紀の入院は2学期に入ってからという設定になっています。そこで,2つの可能性が考えられます。
 一つは,10月の番組改編で時間帯が30分繰り上がったという可能性です。
 もう一つは,サクが初めて聴いた時は,プロ野球のシーズン中でしたから,ナイター中継の延長のあおりで,後続の番組が30分ずつ繰り下がったという可能性です。
 ただし,第2案の方は,AM局ならともかくFM局がそもそもナイター中継をやるのかという根本的な弱点があるのですが,思い浮かぶ可能性としては,この2つです。
...2005/07/19(Tue) 09:09 ID:DV0xRJyE    

             Re: ドラマと映画  Name:くれい
映画・ドラマ共に一年前であるにもかかわらず
再びこのスレが立ち上がるとは、相変わらずの人気の高さですね。

映画でのアキの死に際してのサクの行動は示されてません。
強いてあげるなら冒頭のサクが防波堤で全力疾走して転び、絶叫するシ−ンはアキの葬儀の日だそうですからそれくらいでしょうか。
確かにアキの死直後のサクの喪失感を感じるシ−ンはないですが
変わりに今朔が写真館で「最期の時アキは会ってくれなかった」と号泣するシ−ンがあり、
そこで喪失感を感じることができるのではと考えます。
映画の短い時間ではアキの死直後のサクまでは描けなかったでしょう。
その足りない部分を補って完成させたのがドラマ版。
良くて当たり前なんですね。
...2005/07/19(Tue) 20:18 ID:T9uVdIgM    

             Re: ドラマと映画  Name:ガラスの貴公子
映画館に行って見るのと、レンタルでDVD見るのとは全く状況が違うと思います。
映画はそもそも映画用のスケールというものも考えながら作られてますし。
それを映画がいいか、ドラマがいいかと比較する必要はないんじゃないでしょうか。

どちらからもそれぞれの良さというのは伝わってくるわけですから。
...2005/07/19(Tue) 22:09 ID:xdXK1unc    

             Re: ドラマと映画  Name:騰コ
にわかマニア様、ありがとうございます。
たしかに時間の違いはサクとアキの時間の流れをあらわしているのかもしれませんね。

あと自分なりに考えたことは、最初の時はサクとアキが出会ったが、もう一日が終わる頃だと言う暗示(もうすぐアキが死んでサクとの楽しい現実の恋愛劇は終わる・・・そんな時期にサクとアキは恋人同士となり、小説にあるように全てが手遅れだった・・・)であり、あとの病院での時間はアキの死は確定的であり、夢島のように非現実的な世界の始まりを表しているのかもしれません。(たしか夜0:00を過ぎていましたものね。この時間は死者とか死後のとか夢の世界(病人を旅行に連れ出すと言う非現実・・・夢のような世界))をあらわしているのかもしれませんね。

くれい様、映画フアンとしては一言言っておきたい事があります(笑い)
映画の表現にはドラマにない良さがあるのです(笑い)

例えば、上に書いたような事であったり、矛盾を感じさせる事なく引き込む魅力や、スピード感などなどです。ですから全体的な部分でどちらが良いという表現は映画フアンを刺激しますので、個人としてドラマが好きだとか個別のこの部分ではドラマが優れているというような表現のほうが、適切かと思いますが、いかがでしょうか?
...2005/07/20(Wed) 00:26 ID:ISGaDcww    

             Re: ドラマと映画  Name:まち
>映画館に行って見るのと、レンタルでDVD見るのとは全く状況が違うと思います。
>映画はそもそも映画用のスケールというものも考えながら作られてますし。
これはそのとおりと思います。
「限られた尺の中で、如何に物語を見せるか。」とか、
大画面のスクリーンに映し出された時の画作りとか。
しかし、自宅で映画版を見ていて気になったことがありました。
(視聴環境は、150インチの液晶プロジェクターです。)
随分前に見たので、どのシーンかは忘れてしまいましたが、
画面が妙に上下に動くのは演出なのでしょうか?
(手ブレかと思いましたが、ハンディで撮るようなシーン
ではなかったと思います。)
大画面で見ていると非常に気になったので、演出とは
思えないのですが・・・。

またDVD、WOWOWでのハイビジョン放送と2回
見ましたが、
画質的にはどちらもダメダメでした。
現在と過去のシーンを区別するための演出ならば納得
しますが、現在のシーンも低画質のままでした。
また、映画の味を出すための演出とも到底思えません。
(「色調が薄め」なのは演出の様な気もしますが、ザラザラした
画作りは違うと思う。)

少し前の映画でも地上デジタルやBSデジタルで
ハイビジョン放送されると目から鱗状態のものが多いのに・・・。
(以前、地上デジで放送した「Shall we ダンス?」
は素晴らしく高画質でした。これでCMが入らなければ最高なのに(笑)

ちなみにドラマのDVDは、16:9サイズのため、大画面でも
違和感なく見られますが、亜紀の入水自殺を朔が止めようとした
ところは、唯一大画面向きではない、見づらいと思うシーンでした。
...2005/07/20(Wed) 00:45 ID:X/70P8V6    

             Re: ドラマと映画  Name:ダメ人間
>矛盾を感じさせる事なく引き込む魅力

矛盾とは違うかもしれませんが
私は律子がTVに偶然映ったところを偶然サクが見るところにかなりガックリして、以降映画に入り込めませんでした。
現実に可能性として全く無いとは言わないけど、あんなのって普通ないでしょう。

大沢サクが亜紀と体育館で抱き合うシーンも、私にとっては効果的な演出には映らず、単なる非現実的という意味で矛盾を感じました。ましてや、それを律子が見ている(と思いましたけど、違ったらスイマセン)なんて。

ま、ドラマだって一樹が一人でサクに会いに来ちゃうのだってあり得ないですけどね。
...2005/07/20(Wed) 05:26 ID:4HGUPsl6    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 「一つ納得がいかないのは、森山君が泣かなかったのが残念」というスレ起こしにあたっての問題提起との関連で,「冒頭のサクが防波堤で全力疾走して転び、絶叫するシ−ンはアキの葬儀の日」というのは,くれいさんからご指摘頂くまで気付きませんでした。

 やはり,映画の一番の醍醐味は,大画面と音響の映画館でしか味わえない迫力ですよね。限られた時間にいろいろな要素を盛り込む分,どうしてもポイントを絞った展開にならざるを得ず,あとは一緒に観に行った人と帰り道の喫茶店でプログラムを見ながら議論して補強してくれということで,観衆の解釈に委ねている部分もあるのかもしれませんね。
 例えば,「大沢サクが亜紀と体育館で抱き合うシーン」など,かなり解釈による補強が必要ですね。

 このほか,重ジイの所で写真を撮った後,病院に帰ってきた場面も,かなり難解です。
 カメラの切り替わりもなしに,階段を登って行ったのと同じ人物が同じ服装で同じ階段から降りて来たら,この一連の場面を連続したものとしてとらえてしまうのが自然です。しかし,階段を降りて来た亜紀は,同じ病気の手品仲間の患者が亡くなったと告げているのですね。
 「倒れて集中治療室に移された」というならまだ判りますが,病院を脱け出す直前,手品の話をし,検査をサボる算段までしていた人が,その日のうちに容態が急変して亡くなるというのは,それこそ「有り得ない」展開ですよね。
 よくよく注意して見ると,亜紀が階段を登って再び降りてくるまでの間,登場人物(廊下を通る人)の動きが不自然に遅くなっているのですね。間にスローモーションを挟むことで,連続した場面の間に実はそれなりの時間が流れているということを表現しているのでしょうが,これなども神経を集中させながら解読していかないと訳が判らなくなってしまうかもしれませんね。
...2005/07/20(Wed) 06:57 ID:F6vw4xCw    

             Re: ドラマと映画  Name:ゆいぽ
私もドラマと映画を見ました。白血病の怖さ、恐ろしさ、そして愛する人を失う悔しさ、悲しさを感じ取ることができました。
ドラマは、亜紀ちゃんと朔太郎の涙を見て、もらい泣きをしました。・・・あと、私はなぜか、第一話から涙を流してしまいました・・。
ドラマも最終回を迎え、終わる前(終わった瞬間)から、30分以上泣きました・・・・。
(信じないかもだけど本当です。
とにかくなけました・・・・・。
映画の方は、ドラマほど、泣けませんでした。やっぱり、ドラマの方が長く、内容が深くなるからでしょうかね?
とにかく”世界の中心で愛を叫ぶ”という物語は、多くの人に感動を与え、
私が最初言ったように、白血病の怖さ、恐ろしさ、そして、愛する人を失う悲しさを教えてくれる物語
でした・・・。
...2005/07/20(Wed) 15:38 ID:3FTNJs2. <URL>   

             Re: ドラマと映画  Name:ゆいぽ
私もドラマと映画を見ました。白血病の怖さ、恐ろしさ、そして愛する人を失う悔しさ、悲しさを感じ取ることができました。
ドラマは、亜紀ちゃんと朔太郎の涙を見て、もらい泣きをしました。・・・あと、私はなぜか、第一話から涙を流してしまいました・・。
ドラマも最終回を迎え、終わる前(終わった瞬間)から、30分以上泣きました・・・・。
(信じないかもだけど本当です。
とにかくなけました・・・・・。
映画の方は、ドラマほど、泣けませんでした。やっぱり、ドラマの方が長く、内容が深くなるからでしょうかね?
とにかく”世界の中心で、愛を叫ぶ”という物語は、多くの人に感動を与え、
私が最初言ったように、白血病の怖さ、恐ろしさ、そして、愛する人を失う悲しさを教えてくれる物語
でした・・・。
”世界の中心で、愛を叫ぶ”は、最高のフィクションでした!
...2005/07/20(Wed) 15:40 ID:3FTNJs2. <URL>   

             Re: ドラマと映画  Name:騰コ
少し8で書いたことを解説しておきます(わかっている人にはくどいかもしれませんが・・・)

ラジオの深夜のディスクジョッキーですが、サクとアキが出会った頃の始まりの時間がたしか23:30頃だったと思います。

この時間はその日の一日があと30分で終わると言う事であり、アキとサクの付き合いが始まったばかりなのにアキの病気によってそのつきあい(恋愛)がもうすぐ終わる事を、あの時間(23:30)が暗示しているように思います。

次にアキの白血病が発覚して入院しているときに聞いている深夜のディスクジョッキーは00:30?で、これは 8 で書いたように死の世界、夢の世界(夢島のように)をあらわしているように思うのです。深夜というのは、死者の世界、死後の世界を暗示しているように思えます。

わざわざ時間をずらして撮影した意味がそれなら納得できます(自分としては)。ただもしかしたら、この日(が何日かわかりませんが、決まった日なら)過去の新聞などをひっくり返せば、にわかマニアさんの言うとおり、野球などの延長と言う事もあったのかもしれません。その事実に基づいて、映画を作ったと言う事もあるかもしれませんね
...2005/07/20(Wed) 20:24 ID:ISGaDcww    

             Re: ドラマと映画  Name:くれい
字足らずで申し訳ありません。

俺はどちらかといえば映画派なんです。
ドラマの方が出来が良い、泣けるという文を良く耳にしますので、何故ドラマ版の方が出来がよく見えるかをちょこっと書いてみただけです。
映画の出来が良く、それでも描ききれなかった部分を足してさらに良くしたのがドラマ。
だから映画無しでいきなりドラマ版を作っていたら同じ展開でなかったかもと言いたいのです。
まあ感じ方は人それぞれですからねえ。
結論は両方とも良い作品であるということです。

映画の冒頭のシ−ンについては森山君や行定監督のインタビュ−で書いてあった気がします。
そう言われてみればシャツが長袖だったし・・・。
...2005/07/21(Thu) 01:49 ID:r97V.OZk    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
>映画の出来が良く、それでも描ききれなかった部分を足してさらに良くしたのがドラマ。だから映画無しでいきなりドラマ版を作っていたら同じ展開でなかったかも・・・

 原作が「散骨のためのオーストラリア行き」と「2人の交際の回想」を交互に展開した上で,最後に,10年後に「新たな交際相手」を伴って訪れた郷里で散骨を果たすという構造になっていることに着目し,喪失から再生までのプロセスを膨らませて描いたのが映像作品ですね。
 映画の製作委員会に東京放送が名を連ねる一方,映画版の監督がテレビ版の脚色にも参画し,テーマは喪失からの復活・再生,アイテムとして登場するのがカセットテープによる声の交換日記という点では,映画とテレビドラマは,ある意味では一卵性双生児なのかもしれません。
...2005/07/21(Thu) 08:40 ID:PLXvulxU    

             Re: ドラマと映画  Name:うてきなぷりぱ
私のセカチュウの出会いのきっかけはドラマの再放送でした、タイミング良く正月休みだったので見る機会ができました。休みじゃなかったら見ることはかなり困難だったと思います。今週から私の住む地域で2回目の再放送がスタートしました。ドラマはセカチュウとの接点が少なかった人々にも出会う機会を与えてくれたという功績は否定できないと思います。
...2005/07/21(Thu) 22:29 ID:e7ManVCE    

             Re: ドラマと映画  Name:
私はどちらかというとドラマ派です。どちらとも泣けはしませんでしたが、ドラマのほうがジーンとくるシーンがいくつかありました。その理由は、まず第一に、朔や亜季などいろいろな人が泣いているので、それだけ悲しいんだな、となんとなくかんじとれます。
第二に、山田君や緒方さんの語りというのでしょうか?その部分にいい言葉がたくさんあるからです。意味深い言葉が心に響く気が私はしました。
でも、映画のほうが登場人物はよかったきがします。演じる人が、という意味ではなく、ドラマの登場人物は時代に忠実すぎて、中学生や高校生が見ても、ダサいと思ってしまうからです。
まあ、どちらもいいところがたくさんちりばめられているということなんでしょうね。
...2005/07/29(Fri) 19:09 ID:HbIqZvk2    

             Re: ドラマと映画  Name:古巻
古巻です。私もエミさんと同じで、セカチュ−は、ドラマで・・・。実は、映画観てないんです。ドラマのセカチュ−は、ほんとに良かったです。うちには、姉が、いるんですが「このドラマあんま好かん。」って、言うんです。とっても、私は気に入りましたけどぉ・・・。山田くん(朔ちゃん)は、ほんとに良かったです。かっこよかったし、演技うまくて、ほんとに亜紀の彼氏みたいでした。セカチュ−のサントラもかなり気に入ってます。聞くだけで涙が・・・・。
...2005/07/30(Sat) 13:14 ID:mS8vKfBI    

             Re: ドラマと映画  Name:北斗七星
映画とドラマでは大人の「亜紀」と「律子」の存在が違いすぎていると思うので映画とドラマでは全く違う気持ちで見る(比べない)で見てみるとどちらのセカチューも楽しめるのではないでしょうか
...2005/08/01(Mon) 11:03 ID:5lMlifGs    

             Re: ドラマと映画  Name:エミ
お久しぶりです!!エミです☆
TBSの再放送を見てたときに、舞台のCMがやっていました!!その時に流れていた音楽が『かたちあるもの』だったんですけど…みなさんは、どぅ思いますか??『かたちあるもの』はドラマの主題歌として流れたので、それだけの物に使ってほしかったんですけど…
題名はドラマと映画≠ネんですけど、ちょっと気になったので、カキコしました。
...2005/08/03(Wed) 15:43 ID:UffjdzFE    

             Re: ドラマと映画  Name:北斗七星
そうなんですかぁ〜それは初めて知りました。
舞台の曲はまた新しい物がいいですね☆
あとエミさんに質問です!この話しはエミさんから始まったのでは?(笑)
...2005/08/04(Thu) 09:10 ID:kJC/laac    

             Re: ドラマと映画  Name:say
今日から舞台「世界の中心で、愛をさけぶ」東京公演が始まりますね。
TBSの早朝のニュース番組でリハーサルの様子や稽古中の様子が流れていました。

ちゃぶ台を前に爺ちゃんと朔と亜紀が話すシーンがあったり、朔は剣道部に入っているようで中身の入った竹刀袋のようなものを持っています。
そしてそのちゃぶ台の前で台本と称する紐で留められた紙の束を手に明希が「私(演劇を)やる」と言ったりしていて、そしてその練習中なのか判りませんが中世ヨーロッパを思わせる衣装を身にまとった明希が目眩を感じて倒れ込み、同じく中世ヨーロッパを思わせる衣装を身にまとった朔が駆け寄るというシーンがありました。
そんな訳で舞台版はまた別ストーリーのようです。
...2005/08/05(Fri) 07:29 ID:3Wo98lNI    

             Re: ドラマと映画  Name:say
「かたち あるもの」は明希が朔を想う歌、「瞳をとじて」は朔が明希を想う歌だと思っています。
ですから主題歌に関して「映画の」とか「ドラマの」という感覚は薄いです。私の場合。
それに柴咲コウさんは映画に出演していますしドラマの主題歌を歌っているし、そもそも原作本の帯に登場したりしてセカチューへの関わりはとても深いわけですから、一番ふさわしい曲かもしれません。
また舞台版の内容が「かたち あるもの」が適している内容なのかもしれませんし。
...2005/08/05(Fri) 07:39 ID:3Wo98lNI    

             Re: ドラマと映画  Name:エミ
そぅですね〜!!sayさの言うとおり、舞台⇔ドラマみたいな感じなんですかねぇー
個人的感情なのですが…私はもともとWBの山田君がファンでして。。
んで最近思ったのですが、山田君と田中(幸太郎)君との共演が多いのです!!
まずセカチュー、次にH2、気づいている方は少ないと思いますが電車男!!
まぁ…多いと言ってもB回なのですが…
そしてこの話題の『かたち あるもの』の音楽!!
山田君とつながっていて…つとは言ってもドラマ版セカチューに田中君が出ていますけどぉ!!!!!!
私には許せないんですよーー田中君のファンには悪いんですけどね…
  だんA愚痴レスになってきちゃいました↓↓
この辺で止めておきます(笑)

北斗七星さんのQにお答えします…
そぅですね…私から始めたんですけど…ずっとレスしてなかったので・・??
長々と申し訳ありませんでした。
...2005/08/05(Fri) 15:48 ID:3Wo98lNI    

             Re: ドラマと映画  Name:Wolfy
はじめまして、エミさん。Wolfyと申します。ROMは頻繁に、書き込みはたまにさせていただいている者です。
田中幸太郎君は「六番目の小夜子」にも出演していたそうです(あまり重要な役ではなかったようですが)。したがって、山田君との共演は少なくとも4回あります。まだ他にもあるかも知れませんが。
...2005/08/05(Fri) 20:27 ID:BNaS0PuY    

             Re: ドラマと映画  Name:そよか
私は絶対映画派なんですよね。映画を一番先に見て何の基礎知識もなしだったせいか、大泣きしてしまいました。
違うものを見てると比べてしまって素直に感情移入ができないんじゃないかな。それが私の場合はドラマにでましたから。
時間が長い分濃密、という方もいらっしゃると思いますが、私は間延びしてしまっている感じがして・・・。
とはいえ、比べてみていたせいだな、と思いレンタルしてもう一度見てみようかなと現在思っています。同じ題材を使った全く別の作品としてみないとね!
...2005/08/07(Sun) 11:07 ID:VSbSLXuo    

             Re: ドラマと映画  Name:エミ
そよかさんの言うとおりかもしれませんね!!
やっぱり、最初に見たほうが印象深くなっていくものです。
共演4回ですか…  うわぁ…↓↓
ドラマのセカチューを、今見ているんですけど…やっぱり感動しますね!!こぉゆぅドラマには一生遭遇えないかもしれません…
それほど大きいドラマですよね〜
...2005/08/07(Sun) 15:16 ID:TUDlai62    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 今は過去ログ入りしてしまいましたが,ドラマのポスターについて,脚本が最終確定する前に先行して制作したため,カットや小道具等が映画を参考にしているのではないかという議論がありました。また,本番では後で髪を束ねている亜紀ですが,ポスターの段階では髪を束ねていないという指摘もありました。

 今さらという感じではありますが,もう一つ気付きました。
 映画版の亜紀の時計は文字盤が内側に来ており,ドラマのポスターもそうなっています。ところが,本番では,亜紀の時計は文字盤が外側に来ているのですね。小林と谷田部の時計も文字盤が外側です。一方,文字盤が内側に来ているのが智世と黒沢です。
 このあたり,時代考証的にはどうなのでしょうか。
...2005/08/08(Mon) 02:31 ID:qDqkuY1w    

             Re: ドラマと映画  Name:
はじめまして凱と申します。
私は映画→ドラマ・原作という形で「セカチュウ」を知りました。(ドラマと原作が同じなのはドラマを見ている途中に原作を読んでしまったで・・・)
さてドラマと映画というお話ですが、私も個人的に思ったことをを書いてみたいなと思います。

そよかさんもおっしゃってますが、映画とドラマは別の作品としてみるのが正解だと思います。
どちらもいいお話だと思います。でもどちらかに感情が深く入ってしまっていたら・・・おそらく両方に感動するのは難しいのかな。なんて思います。

映画とドラマの違い・・・決定的なのは大人サクの中のアキの存在じゃないでしょうか?
34歳の時点で緒方サクが17年間どうしても忘れられなかったのに対して大沢サクは半ば忘れてしまっている(もしくは無理やり心のどこかへ封印している?)
おそらくこれだけで十分にアナザー・ストーリーだと思いますよ。
そのせいもあって映画版はドラマに比べ、サクのアキに対する感情が若干ドライかなと思います。(もちろん映画はドラマに比べ時間も1/5しかないし、細かい部分は描けないということも考慮してです
が・・・。)

でも映画版もドラマ版もアキが死んでしまうということは動かない事実なんですよね。
私個人的には夢島までのサクとアキの輝いていた時間が好きでした。ずっと続いて欲しかった。サクが最後に結ばれるのはやはりアキがいいな。そんなアナザー・ストーリーが映画でもドラマでも映像で見れたらなと、勝手な希望を抱いています。
...2005/08/12(Fri) 15:41 ID:Nd3VvZnw    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 「忘れなければいけない」と思いつつも,自分が亜紀の寿命を結果的に縮めてしまったこともあって,忘れることに「後ろめたさ」を感じているドラマ。律子との挙式日程も新居も決まりながら,過去を封印したため,律子が自分にも亜紀にも関わりのある人物であることを知らないままの映画。いずれも,亜紀の死から逃げて,きちんと向き合えていない状態が表現されています。
 小林に背中を押してもらって,やっとテープの入った缶を開けられたドラマに対して,自らテープを取り出して,それを聴きながら思い出の場所をたどる映画ですが,それでも,最初は「時の番人」の館である雨平写真館の前は素通りしています。雨平写真館を訪ねるのは,律子からの電話を受けてのことです。

 私は,再婚相手(律子・小林)の位置づけや,大人サクの中の亜紀の存在の差以上に,映画とドラマの決定的な違いは散骨シーンの描き方と「世界の中心」の解釈の違いにあると見ています。
 ウルルでの散骨という遺言自体は,原作・ドラマ・映画に共通していますが,原作とドラマが両親への遺言なのに対して,映画だけがサクへの遺言テープの形をとっているのですね。しかも,前二者では,遺言を受けた両親はサクを伴ってウルルに向かっており,違和感なり躊躇を感じたサクだけが遺灰を持ち帰り,後日,思い出の場所で散骨するという構造になっています。これに対して,映画では,明示的に示されている限りでは,散骨は17年後のサクと律子による1回きりです。
 つまり,「亜紀にとって,あるいは2人にとって相応しい場所での散骨」と「亜紀の遺言」とのギャップに対して,原作とドラマは「両親による散骨」と「サクによる散骨」を分けるという解決が用意されているのです。ところが,映画のように散骨を1回きりのものとして描こうとすれば,遺言テープを無視するか,ウルルこそ「ふさわしい場所」という解釈をとるかしかありません。このため,ストーリー全体の脈絡や整合性を多少犠牲にして,大沢サクに「ここが世界の中心のような気がしてきた」というセリフを言わせているのですね。
 ところが,ウルルが世界の中心であるというのは,「そう考えている民族がいる」というレベルの話なのですね。原作ほどアボリジニの世界観にはまった訳でもなく,夢島で拾った先客の忘れ物のカメラに写っていたというだけでは,ウルルと亜紀を結ぶ線はかなり弱いと言わざるを得ません。
 このあたり,亜紀の存在について「点在から遍在への遷移」を自覚し(象徴的な映像表現として「ソラノウタ」),思い出の地で散骨に至った原作やドラマの方が,世界の中心がどこかの解釈も含めてスマートだという感じはあります。

 もっとも,これは別に,映画の価値を貶めようという趣旨ではなく,原作との距離というモノサシで測った場合,映画は独自の完結した世界観が展開されているというだけのことなのです。そういう意味では,映画は,原作を読む前か,一度原作を忘れた上で観た方が,その世界にドップリ浸ることができると言えるでしょう。

(追記)
 その後,別スレで,テリーさんから,映画版もウルルに向かったものの,途中で車が故障して最終目的地に着く前に散骨しているとのご指摘を頂きました。
 以下,これを受けてそのスレに書き込んだことの要約を再掲します。

 原作・映画・ドラマを「一覧表」にまとめた際,映画における散骨場所と「世界の中心」を「ウルル」という一言で片付けてしまうのは正確さを欠いていたのですね。地理的にいくら「近辺」であっても,「ウルル」と「それ以外の場所」では物語における意味合いが大きく異なってきます。
 アクシデントに見舞われ,途中で散骨したとなると,映画も「約束の地」以外での散骨という立場を採っていることになります。そして,「世界の中心がどこか判った」というセリフの意味も変わってきます。つまり,世界の中心とは,アボリジニの聖地でも,亜紀の遺言の地でもなく,自分の心の中にあるという「再定義」としての意味を,このセリフは持つことになります。

 原作もドラマも,学校での散骨は「ウルルでの散骨の否定」の上に成り立っています。もっと言えば,「否定」するためにわざわざウルルに行かせたという描き方です。もし,散骨場所と世界の中心の解釈について映画も同じ立場を採っているとするならば,ウルルでの散骨を「頭の中で」ではなく,「実際に現地に向かった上で」否定する必要があったのでしょう。但し,「第1案の否定」と「最終結論」が,原作やドラマのように「歳月を経て」ではなく,「ほとんど同時」になされているため,観る側の解釈に混乱を呼んでしまった側面があるかもしれません。
 ではなぜ車の故障だったのでしょうか。台風による足止めだと,「挫折の壁の象徴」という朔五郎さんの解釈(謎解きスレのパート1参照)もあるように,「外からの力が働いた結果の結論」という位置づけになってしまいます。これに対して,車の故障なら,修理が終わるまで待つとか,代わりの車を手配するといった選択肢もありえます。実際,画面を見ると,律子は道端に座って修理を待っているような感じでしたし,サクが丘を登っていくのを見た時,最初は「何を考えているんだろう」という表情でした。
 つまり,障壁は障壁でも,完全に道が断たれてしまうのではなく,サクの側に「初志貫徹」か「別の道」かの選択権が留保された状態にあることが必要だったのでしょう。言い換えれば,映画の設定の諸条件の下でサク自身に「世界の中心」と「亜紀の存在」について考えさせるには,オーストラリアに着いた後,ウルルに向かう途中での車の故障というというのが「ギリギリの条件」だったのではないでしょうか。
...2005/08/14(Sun) 09:14 ID:QCGg4OuM    

             Re: ドラマと映画  Name:
こんにちわ凱です。

にわかマニアさんの仰っていること、もっともだと思うんです。でも何故私が大人サクの中のアキの存在が決定的だと書いたのか、少し書かせてください。(個人的な意見なので私の書き込みで不快な思いをする方いるかもしれませんが、ご容赦ください。)

私が前回このように書いたのは、あくまでも映画とドラマを見る上での視点の話なんです。

映画もドラマもサクは34歳(実際には33歳?)という年齢で「アキの死を乗り越える」という転機をむかえますよね?
でも、もしその時に乗り越えられなかったら・・・

多分・・・

大沢サクはアキの死から逃げ続けたとしても律子と家庭を築いていると思います。律子がアキの最後のテープを持っていた子供でなかったとしても。それで幸せを感じることが出来たかどうかは分かりませんが、それでも意図せずしてアキの望みであったように今の自分を生きていくんだと思います。

一方で、緒方サクはずっと自責の念と葛藤の中でまた次の17年を過ごして行くんだと思います。故郷にも帰れず、おそらく明希と家庭を持つことはないでしょう。ずっとアキを引きずりながら。

あの運命の日に空港で「助けてください・・」と言ったサク。おそらく森山サクも山田サクも同じ気持ちだったと思います。映画では時間の関係もあり詳しく描かれていませんが同じような過程をたどったのではないでしょうか?でもその後の二人はまったく違う17年を過ごしたんでしょうね。

同じようでまったく別人の二人のサク。そんな二人の目線で描かれている映画とドラマ。どちらかのサクの目線でもうひとつの作品を見たら、つまりどちらかに深く感情が入っていってしまったなら、同じ様に感動するのは難しいのかなと考えたのです。
それと映画がドラマに比べてドライだなと感じたのは単に比較の問題で「いい悪い」ということではありません。純粋にどちらもいい話だと思います。

最後に・・・

私の中で「セカチュー」は単純に「サクとアキの物語」なんです。だから「どこで散骨したのか」とか「どこが世界の中心だったのか」はあまり大きな問題ではないんです。
もしアキが病気にならなかったら、もしアキがしななかったら・・・。映画にもドラマにもならないようなそんなサクとアキの二人の恋の物語なんです。
...2005/08/14(Sun) 18:17 ID:XLCQho5s    

             Re: ドラマと映画  Name:ザルボ
原作のあるもの(小説等)を映像化する場合2つの選択肢があると思います。1つは原作に忠実に描くこと、もう一つは原作を意識しつつも別のストーリー展開すること。セカチューの映画版は後者を選択しました。交換テープや、結婚写真、ウルルでの散骨等、映像ならではの表現を駆使していたように思います。映画のヒットを受けてのドラマ化。制約は映画のときよりも多かったと思います。映画の模倣をするわけにはいきませんし、そこでドラマは映画のおいしいところを受け継ぎつつもオリジナルの展開を原作が大きく逸脱しない範囲内で描いたのではないかと思います。映画無くして、ドラマは語れません。2者とも書き下ろしのストーリーではない以上、双方の良し悪しを比較することは困難ですし、それ自体意味のないことだと思います。映画にしてもドラマにしても、製作者の方々はそれぞれのおかれ
ている制約の中で・最大限の力を発揮されて、すばらしい作品を世に送り出したのではないかと思います。
...2005/08/15(Mon) 18:25 ID:qA7vNQFw    

             Re: ドラマと映画  Name:たこ焼兄さん
たこ兄です。ご無沙汰してました。

実は先月末にPCがクラッシュして修理に出していて、2週間程アナログな生活を送っておりました関係で久々のカキコです。

このスレッドに関連してまた新たな疑問・・・というか発見?が有ったので書かせて下さい。恐らくまだどなたも書かれていないと思いますが、既出でしたらご勘弁下さい。それは出演者名の並び順についてです。朔、亜紀、新恋人の並びはこうなっていると思います。(敬称略)

<ドラマ>
山田孝之、綾瀬はるか、緒形直人、桜井幸子

<映画>
大沢たかお、柴咲コウ、長澤まさみ、森山未來

そうなんです。ドラマでは少年朔、亜紀が先に来て大人朔、新恋人小林明希の順であるのに対し、映画では大人朔と新恋人律子の後に(何故か)亜紀、少年朔の順になっています。これは2つの作品を比較した時、どちらに重きを置いているかを表しているのではないでしょうか。

オープニングシーンではドラマ、映画とも内容は違いながらも夢から目覚めて大人朔が登場しますが、ラストは映画では律子とのウルルでの散骨、対してドラマはあの世(或いは大人朔の夢の中?)での亜紀との再会で幕を閉じるというのはご承知の通りです。映画の大人朔がテープを聴きながら過去と現在を彷徨するのに対し、ドラマの大人朔は広い意味で語り部的な立場でもあると言えると思います。(少年朔の語りも含めて)

即ち本当の意味での主人公は映画が今の朔、ドラマが少年時代の朔で有り、それ故にこの2つの作品を比較して(どなたかが書かれていたかと思いますが)亜紀との距離感にも温度差を感じるのかもしれません。

更に感じたのは、映像化はされませんでしたが「指先の花」は律子の目線で語られているのに対し、谷田部先生の目線で語られるドラマ特別編では(当たり前ですが)小林明希は全く登場していないんですよね。勿論律子は子供時代2人に関わっていたという事でも小林明希と同一視出来る存在では無いのでしょうが・・・

やはり私も同じテーマから生まれた全く別の作品だというのが自然な解釈であるような気がしました。

何か久々に書いたので取り留めの無い内容になってしまいごめんなさい。
...2005/08/15(Mon) 23:56 ID:FLWoCzbo    

             Re: ドラマと映画  Name:say
セカチュー映画での演技を評価されて森山さんが貰った賞は「助演男優賞」長澤さんは「助演女優賞」です。
映画版のストーリーが大人になってからのサクを描くことに主眼を置いていた事からもわかるように主役は大沢さんです。

対してドラマは高校生時代の周りの人達との関係をも含めて描くことで新たな展開を図った事からもわかるように主役は山田さんです。ちなみに綾瀬さんは第42回ザテレビジョン「ドラマアカデミー賞」で貰った賞は「助演女優賞」でした。

この辺りは石丸プロデューサーへのインタビューや行定監督へのインタビューを網羅してチェックしていれば誰が主役なのか判ったかと思います。
...2005/08/16(Tue) 04:14 ID:guQSY0cY    

             Re: ドラマと映画  Name:うてきなぷりぱ
 みなさんは映画、ドラマを見られて、登場人物の誰が一番印象に残りましたか。きっと百人百様でしょう。私の感想を述べさせていただくと、映画では藤村律子、ドラマでは廣瀬亜紀です。映画では、藤村律子演じる柴咲コウさんの出番はことのほか少ないにもかかわらず、妙に印象に残っています。私はある意味裏の主役と思います。ドラマでは廣瀬亜紀が別の意味で主役かと思います。と言いますのも、原作と映画では、廣瀬亜紀の人となりが、いまいちはっきりしないままで、自分なりに消化不良状態でした。ドラマでは、亜紀自身の描写はもとより、智世をはじめとする友人、谷田部先生、二人の両親を詳細に描くことにより、今まで謎に包まれていた(私の中で)、等身大の廣瀬亜紀を描くことにより、多くの方が廣瀬亜紀という一人の人間に感情移入されたのではないかと思うのですがいかがでしょうか。最終回のエンドロールを見る限り、廣瀬亜紀は朔太郎以外の多くの人々の心の中に生き続けているように感じられます。
...2005/08/17(Wed) 22:12 ID:FMEEAYkY    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 かなり前のどなたかの書き込みの中に,「律子が台風のニュースに偶然映ったところを偶然サクが見る」のは,「可能性として全く無いとは言わないけど、あんなのって普通ない」ため,「かなりガックリして、以降映画に入り込めませんでした」というのがありました。もっとも,この時,サクは律子の携帯を呼び出している最中で,画面の中に律子を見つけて携帯を切っているのですね。つまり,偶然,律子が映っているのを見なければ,電話がつながって,今どこにいるかを直接聞き出した可能性も用意されているのですね。
 一方,ドラマでは,サクの帰郷のきっかけは恩師からのハガキでした。映画とは逆に,心配した小林の方がサクを郷里に追いかける展開になりましたが,小林がサクの行き先の見当がついたのは,郵便受けに入っていたそのハガキを病室に届けたのが小林だったからでした。つまり,ここでも偶然が働いていることになります(ただ,小林がハガキを届けなかったら,あのラジオ放送だけでサクが郷里に帰ったかどうかは判りません)。
 いずれにしても,サクに亜紀とのことのケジメをつけさせるには郷里を再訪させる必要があり,出奔同然に郷里を飛び出し,その後ずっと足が遠のいたままになっているサクを郷里に引き戻すには,それなりのきっかけが必要だったし,それを映像的に表現するものも必要だったのでしょう。
...2005/08/19(Fri) 08:38 ID:ZrvRwk4.    

             Re: ドラマと映画  Name:shinichi
お久しぶりです。

で、ドラマと映画・・・なんて話ですが、ぶっちゃけた話、そんな事をあれこれと論争する事は無意味だと最近は思います。

感じる事は人それぞれですし、とても一括りにはできないと考えています。

僕としては、映画、原作、ドラマ、どれを見てもどれかが決して著しく劣っていると言う事はない、と考えていますし、それぞれ片山先生と行貞監督、そして堤監督や森下さんがどう捕らえて、どう料理したか(ちょうど堤監督の『寿司職人』の話と考え方は同じかな・・・)という所でしかないと思います。それぞれ共感する人がいるわけだし、こんな話をすると『映画は○○がダメ』だのとか『ドラマは○○が気に食わない』だのとかという話でそれぞれの作品のファン同士でいがみ合いが起ってしまいますからね・・・僕としてはそれが耐えられないです。

そんな事より、僕的には綾瀬はるかさんと長澤まさみさんが、いつ、どんな作品で共演するかが楽しみなのです。役者という職業柄、共演する機会が一度もないという可能性は、控えめに言って十万馬券が当たる位確率の低い事ですし、そのうちあるんじゃないかな、とほんの少しだけ期待してます。そんな中で、「同じ役をやったんでしたねぇ・・・」的な話で少しでも『世界の中心で〜』の話が出てくれば・・・と思います(というより、業界的に何かマズい事でもあるのかなぁ。現時点にしても同じ枠に収まる機会が何回かはあってもいいのではないか、と思うが・・・・)。
...2005/08/24(Wed) 21:17 ID:sHkg7lOk    

             Re: ドラマと映画  Name:say
いがみ合いは確かに不快ですね。
でも「自分はこう思う」と言うこと自体は大切な事だと思いますよ。
「Noと言えない日本人」という本がありましたが、論争を避けようと、または相手に遠慮して自分を主張せずに陰で文句を言ったりストレスを溜めている人を見るにつけ、そう思います。
またそのように気を遣う表現の先には、表面的で嘘くさい、裏では何を考えているのか判らない会話や人との繋がりが待ちかまえているように思います。

重要なのは、他の人が言った事に対して、その人がそのように感じる事(その人の価値観)を尊重する事でしょう。
「自分の好みに合わない」のような表現は適切だと思いますが、「XXXがいいなんておかしい」という表現の場合は相手の価値観・感性そのものを否定している事になりますし、それこそお前は何様だ?という発言ですから不適切でしょう。

長澤さんと綾瀬さんの共演ですか。
一応世間ではライバルという見方をしている向きがあるようですし、事務所同士としても出演枠というパイの同じカテゴリを食い合う位置関係ですから当面は無理なように思います。
それぞれの事務所同士が仲がよいとか協力関係にあれば共演する可能性もあるとは思いますが。
...2005/08/25(Thu) 04:56 ID:0WKyI.js    

             Re: ドラマと映画  Name:shinichi
この手のスレッドを見てて何が一番不快かと言えば、著しい偏見による書込みです。例えば「ドラマ版は明らかに男受けを狙っていて、綾瀬の演じた廣瀬亜紀はあまりに不自然」だのとか、「映画や原作は難病をネタにして一儲けしようとしているだけ」なんて発言は見ていて非常に不快です。でも、感情に任せて他人を攻撃するのは好ましくない行動ですよね。
現に、このスレッド上でも著しい独断と偏見による不快な書き込みは多いです。そんな状況で適切な意見のやり取りができるでしょうか?少なくとも、偏った見方しかできない状況にあったり、公平公正な見方ができない状況では、「比較」だのという事をするのは全く意味のない事です。複数ある事象のうち、自分の気に入った事象だけをべた褒めし、他方を全否定するのはもってのほかです。
...2005/08/26(Fri) 01:52 ID:dQTfrSzU    

             Re: ドラマと映画  Name:say
>現に、このスレッド上でも著しい独断と偏見による不快な書き込みは多いです。そんな状況で適切な意見のやり取りができるでしょうか?

そのスレッドへの書き込みをおこなっている人で偏見ある書き込みをおこなう人が大多数なら無理だと思います。

また一人一人の書き込みに対してこまめに返事を書くスタイルをとっている(ところ|人)の場合も無理でしょうね。

このような電子掲示板(BBS)というのは20年以上前から存在していて、私の場合ほぼ20年前からBBSを利用しているのですが当時からこの手の問題は存在していて、多分永遠になくならない事だと思います。

そのような昔から、この手の問題への対処で一番効果的なのは「相手にしない」という事です。
相手にされない事に怒りを覚えてその旨の書き込みがあっても度が過ぎれば管理人による削除の対象になりますし、度が過ぎない程度あれば無視することも可能なわけです。

見方を変えると不快さを覚えた事への自分の感情コントロールを試せる場だと考えてみてはどうでしょう。
勿論、そこまでして参加する意味はないという考え方もあると思います。
...2005/08/26(Fri) 08:53 ID:X4P2xPfA    

             Re: ドラマと映画  Name:shinichi
あんまりこの手の話で長引くのは好ましくないので、この辺にしますが、あんまり人を不快にさせるような投稿はお互いの不利益になりますのでやめましょう、とだけ申し上げておきます(自戒の意を含む)。
...2005/08/26(Fri) 21:59 ID:J/z2CvIM    

             Re: ドラマと映画  Name:裕介
 「今、会いにゆきます」が選挙の為か低視聴率の為か
分からないけど、一話カットされました(全10話)。 もしセカチューが今年、放送だったらどうなっていたのかな。
...2005/08/31(Wed) 10:21 ID:LdMU/aYs    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 裕介さんのご発言の真意がいま一つ明確ではありませんが,昨年も6月24日告示・7月11日投開票で参院選がありましたね。第1話の自転車で橋を渡るシーンにも,某党のポスターが映っていました。
 そのことがらの評価は別として,日本では,選挙期間中のゴールデン・タイムに政見放送や候補者・政党によるテレビ討論会をやるような慣行がありませんから,開票速報で日曜日の番組が飛ばされる以外に,定時番組への影響はないようです。また,各局とも改編期や年末年始等の特別番組の枠を言わばバッファーとして持っていますから,「突発事故」で1回くらい飛んでも,トータルの中で吸収できるようになっているはずです。
 くどいようですが,主権者に対する判断材料の提供,あるいは,もっと根本的に放送電波の免許制も含めたジャーナリズムと政治の問題という見地から考えた場合の評価は別ですよ。
...2005/08/31(Wed) 12:33 ID:siZ6Dnhg    

             ドラマの嘘  Name:アンディ
映画のTV放映によりセカチューを知った最も遅いファンです。映画→原作→ドラマ、と見てきましたが、ドラマはだいぶ原作と違いますね。
 一つドラマの最大の嘘を指摘したい、死ぬかもしれないと思われるアキへ明るい態度を取れる友人、親は作劇上の都合であるが嘘だろう。彼らはアキと親しければアキと同じような重苦しさと不安に打ちのめされるのが普通だと思う。死ぬかもしれない人間と一緒にいるのは辛いことだし、平静を保つこと自体が難しいものだ。
...2005/10/10(Mon) 04:01 ID:CvCdqn9Y    

             ふ〜ん・・・  Name:まち
こんにちわ、アンディさん
自分はドラマ→原作→映画で見たクチです。
友人や親の態度が別にウソとは思わないけどなぁ。

高校で知り合った友人は、病気により小学校時代から車イスの生活をしていて、当時20歳まで生きることは難しいと言われていたらしいです。そんなことを聞かされた親御さんは大変なショックを受けたはずですが、彼のために出来るだけのことをしてあげよう、明るく過ごそうとしていました。
高校卒業後、暫くして寝たきりの状態になりましたが、自分を含めて何人かが毎週のように週末に彼の家に遊びに行っていました。テレビゲームをしたり、映画をみたり、バカ話を深夜3時くらいまでよくしていました(遊びに行くのが夜10時〜だったもので(^_^;;)
一時危篤状態になり、病院のICUで過ごしたのち、本人の強い希望により家に帰宅した後は自分の寿命を感じ取ったのか、精神的にかなり不安定になりました。(支離滅裂で、慰めの言葉を掛けても全く聞き入れない状態でした。「死が近づいている人間の気持ちが理解できるか!?」と思っていたようです。)
しかし亡くなる直前は死を受け入れ、非常に穏やかで、普通に会話もすることが出来ました。(自分がもし彼の状況に置かれた場合、彼のように出来るか全く自信がありません。)

状況は違っても、誰しも似たような経験があるから、ドラマは受け入れられているのだと思います。

アンディさんは似たような状況を悲観して過ごしたか、「・・・重苦しさと不安に打ちのめされるのが普通だと思う。」と書いているところを見ると、経験ではなく、状況を想像してのカキコミかもしれません。しかし、自分の経験?と違うから「最大の嘘」と結論付けるのは少々乱暴な話かと思います。
...2005/10/10(Mon) 09:26 ID:R2It283A    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 アンディさん・まちさんのご意見,拝読いたしました。
 確かに,死ぬかもしれない患者と一緒にいるのは辛いことです。平静を保つことすら難しいし,重苦しさと不安に打ちのめされるというのも,そのとおりでしょう。だから,両親もクラスメートも,病室を出たロビーや登下校の道中等では深刻な表情になっているのです。
 しかし,そのことと,病室を訪ねた時までそうした暗い沈んだ表情を持ち込んで,それで患者のためになるのかということとは別の問題です。患者を元気づけたり,何か力になれることはないかとそれぞれが模索しているからこそ,見えないところでお百度を踏んだり,患者の前では努めて明るく振舞ったりしているのではないでしょうか。

 アンディさんもそこのところは判った上で,それが1回や2回の見舞いなら何とか無理ができても,そうそう毎日続くはずがないという意味でおっしゃっているのでしょうが,まちさんのおっしゃるとおり,それをいきなり「最大の嘘」と斬って捨てるのは,いささか乱暴の感は否めないでしょう。
 ここまで決め付けるのであれば,誰もが納得できるだけの例証と論理構成を基にきちんと根拠を示した上で結論づけるべきでしょうし,そうでなければ,「自分の経験では」とか「周囲の人に聴いた範囲では」といった一定の留保を付けるのが議論のエチケットではないでしょうか。
...2005/10/10(Mon) 11:47 ID:2KgPBHqg    

             Re: ドラマと映画  Name:dance in the dark
アンディさんには まわりの振舞い方が納得いかないようで・・・。

もともと 作品自体がフィクションで 言ってみれば 嘘 ですからね。

無菌室から出てキスしたり 病気も末期なのに 男子を突き飛ばしたり 看護婦の巡回掻い潜り 旅行の準備をしたり・・・。
また映画でも  探していた律子が偶然テレビに映っていたり 同郷のふたりが結婚するまでの仲なのに あんな衝撃的な 過去 を話し合ってなかったり つっこみどころはたくさんあります。

しかし AH病である私(と にわかマニアさん)は納得の上で観てます。

このドラマは他の物とは違います。・・・と思っています。
どこが違うのか?ずっと探し続けてます。
...2005/10/10(Mon) 14:07 ID:j4OwNuHY    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 それなしには物語が成り立たないにもかかわらず,最大の突っ込みどころでもあるのが「重病人を連れ出す」という行為です。既に過去ログ入りした議論のダイジェストが,本サイトのトップページの左側にいくつか選択肢が並んでいる中の「セカチューの謎」というコーナーの10番目で取り上げられています。
 その中で,現職の医療関係者である続編スレのメイン・ライターの朔五郎さんからのご指摘をご紹介いたします。
 「欧米では、死を目前にした人の希望をかなえてあげる、という考え方は珍しいことではないようです。さすがに海外旅行は聞きませんが、「イルカに乗りたい」という夢がかなった少女が、2日後に安らかに旅立ったとか、その類の話は聞きます」(引用ここまで)

 「周りの振る舞い方」との関係で,先程の書き込みで落とした部分がありますので,以下に追記しておきます。
 映像として提供される場面は,主人公の闘病シーンが中心になりますから,どうしても見舞客や家族とのやりとりが前面に出てきます。ただ,問題は,これが全てではなく,映像化されない部分をいかに想像力を駆使して読み解くかということなのではないでしょうか。仮に,見舞いに行き,努めて明るく振舞ってのやりとりが30分あったとしても,残りの23時間30分は心配で重く暗く沈んだ状態なのかもしれないのです。しかし,そこは映像的には提供されません。ただ僅かにヒントとして遺された断片(廊下やロビーでの何気ないショット)から察して,類推していくことで,行間に込められたメッセージを読み解いていくのもまた醍醐味なのかもしれません。

 以上,AH病かどうかはともかく,「エライこった爺」症候群と「挨拶おじさん」症候群にダブル感染した者としての述懐です。ところで,私の症状って,どれくらいの重さなんでしょうかね。
...2005/10/10(Mon) 16:26 ID:2KgPBHqg    

             Re: ドラマと映画  Name:アーツ
この3連休で映画、そしてドラマDVDを初めて観た者です。それぞれに良さがあって、一年遅れのセカチュー中毒者になりました。さて、先輩方にお伺いしたいことがあります。ドラマでは傘をさしかけて、お互いが気になりだしたと思うのですが、映画では、何故優等生の亜紀が劣等生の朔太郎に興味を持ったのかがわかりません。過去に答えがあったらすみません。初心者ということで教えていただければ幸いです。
...2005/10/10(Mon) 19:29 ID:Uk7v4LoY    

             ドラマの二つ目の嘘  Name:アンディ
レスありがとうございます、セカチュー熱いですね。まちさんの体験はよく判りますが、実はそこに第2の嘘が隠されてますね。
 死にゆく人はどうあるべきなのか?周囲にいる人間にとっては穏やかな状態がいい事のように思うが、本人にそうさせねばいけないのか?その人が死ぬのは嫌だと言っている時にどうすればいいのか? ドラマでは死の受容なる状態が理想的に描かれますが、それは原作から受け継いだお話を作るための嘘(作劇上の嘘)でしょう。原作ではアキが死んだ後のサクの心理が大きなテーマなので、アキには焦点をあてず、問題なく死ぬことが必要だからです。
 ドラマが死にゆくアキとサクの関係に重きが置かれているのも関わらず、アキはきれいに死ぬ、それは今度は(悲恋もの)という一種の綺麗ごとのための嘘でしょう。
 例えアキがどんなに死にたくないと言っても、アキは死ぬ、その残酷さ。死ぬ間際にまだ体力があれば恐るべきあがきが現れる事もある、その醜さ。周囲の人間にはそういうアキへの罪悪感、無力感が出る。そういう恐ろしい話はドラマにはしにくいですね。
セカチューのいい所は、悲恋ものの美しさと死に別れたサクの心理が描かれていることだと思います。
それには上記の嘘が必要なのです。
...2005/10/10(Mon) 19:53 ID:CvCdqn9Y    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
>セカチューのいい所は〜(中 略)〜。それには上記の嘘が必要なのです。

 この文面から拝察するところ,アンディさんは「嘘」というコトバを必ずしも当該論議の対象にマイナス・イメージを刻印するための道具として用いておられる訳ではないようですね。それも,「必要悪」という「消極的容認」よりもさらに進んで,そこに積極的な意味づけをされておられるようにも見受けられます。
 「あがき」と周囲の者の罪悪感・無力感を見せないための「奇麗事」というご指摘は,描き方に多少の差こそあれ,原作・映画・ドラマの三者を通じてサクは亜紀の臨終に立ち会っていないということの意味にも通じるものだと思います。

 そういう意味では,アンディさんの投稿は,刺激的な標題とは裏腹に,なかなか深い問題提起を含んでいるとは思います。ただ,問題は,そこに議論の焦点をあてるにしては「嘘」というコトバは余りにも刺々しく,筆者の意図するのとは違う方向に議論をミスリードする惧れがあるということです。
 作品のテーマを際立たせるための演出・創作と言うのであれば,刑法上の犯罪である詐欺罪の構成要件でもあり,対象を貶めるニュアンスすら持つ「嘘」という劇薬的表現でなくても,もっとふさわしい表現があったでしょう。また,こうした創作はドラマだけに限ったことではなく,原作や映画も同様なのですから,作品比較を議題とする本スレにドラマだけを取り出して「嘘つき」と論難するかのごとき標題をつけるのは,フェアな態度とは言えないのではないでしょうか。その点,もっと慎重な配慮が必要だったのではないでしょうか。
...2005/10/10(Mon) 20:56 ID:2KgPBHqg    

             Re: ドラマと映画  Name:朔五郎
アンディ様
もし「死の受容」ということに関心をお持ちなら、アメリカの精神医学者、エリザベス・キューブラー・ロスの著書をお読みになってはいかがでしょうか。ロスは死を避けられなくなった患者がその現実を受け入れるまでの心理的プロセスを5段階に分けて説明しています。代表的な著書である「死の瞬間」などは大きな図書館には置いてあるのではないでしょうか。
もちろん、宗教観の違いもあり日本人にそのまま当てはまるものではないと思います。しかし、映画版亜紀はともかく、ドラマ版亜紀の心理的な変化は、この5段階のプロセスにかなり当てはまるのです(もちろん偶然かもしれませんが)
死を前に、静かにその現実を受け入れる患者も存在することは、必ずしも嘘ではないと私は思います。
...2005/10/10(Mon) 20:57 ID:ylURmiC6    

             ロスの著作について  Name:アンディ
朔五郎さんへ
 有名なキューブラー・ロスの本には死の受容に関する五段階について記述はありますが、全ての人がこの階梯を最後まで進むとは書いてないし、進むべきだとも書いてないと思います。
 死にゆく者の関係者としてはこのような過程が望ましい・都合がいいという一つのモデルに過ぎません。
 実際には死を拒否しながら死ぬ人間もいるということです。そして昨年のドキュメンタリーではロス自身が死を前にして拒否している姿が映し出されていました。
 嘘という言葉はレベルが色々ありますが、ドラマは深刻さ醜さがみじんもないレベルですね。そして嫌なもの・解決策のないものを映画で取り上げることの難しさを考えれば、このような筋立てになるのは必然でしょう。
 もしこのドラマを見た人が、人は最後は死を受容して死んでいくものだ、などと思ったらそれが最大の嘘になってしまうということですね。
...2005/10/10(Mon) 22:30 ID:CvCdqn9Y    

             Re: ドラマと映画  Name:まち
自分はマンガばかり読んで、本も読まない。勉強も嫌いなので高校卒業後すぐに就職したため、キューブラー・ロスの事なんか全く知りません(笑
「まちさんの体験はよく判りますが、実はそこに第2の嘘が隠されてますね。」>これって自分が書いた「死を受け入れ、非常に穏やかで・・・」ってところにかかってくるのかなぁ? 死を受け入れる人間はいないと? しかし「実際には死を拒否しながら死ぬ人間もいるということです。」>とあるので、死を受容する人もいるということでは?
なぜアンディーさんはドラマの中で亜紀が「きれいに死ぬ」(死を受容する?)ことが嘘(レベルの違いって何?)ということに結論をつけたいのか イマイチよく判りません。 ひょっとして「もしこのドラマを見た人が、人は最後は死を受容して死んでいくものだ、などと思ったらそれが最大の嘘になってしまうということですね。」とあるとおり、ドラマにはまりすぎている人への忠告なのかな?(世の中そんなきれい事ばかりではない、と)
まぁ、フィクションですから、セカチュー(中)毒の方も程々にというところでしょうか。(論点おもいっきりズレてたらスマソ)
...2005/10/11(Tue) 00:34 ID:P7m9DOS6    

             Re: ドラマと映画  Name:say
> もしこのドラマを見た人が、人は最後は死を受容して死んでいくものだ、などと思ったらそれが最大の嘘になってしまうということですね。

これは嘘ではなく、そう思った視聴者の単なる勘違いでしょう。
勘違いを嘘と表現するなら、世の中のすべてのことは嘘になってしまいます。
...2005/10/11(Tue) 00:48 ID:FattdbJg    

             Re: ドラマと映画  Name:一言居士
>ドラマは深刻さ醜さがみじんもない。嫌なもの・解決策のないものを取り上げることの難しさを考えれば、このような筋立てになるのは必然。見た人が、人は最後は死を受容して死んでいくものだ、などと思ったらそれが最大の嘘になってしまう。

 その論法でいくと
「ウソをつくのが嫌なら
 映像作品では登場人物を一切死なせてはならない」
ということになりませんか。
...2005/10/11(Tue) 12:16 ID:9hSU2Tz6    

             死の受容について  Name:dance in the dark
事故死や突然死は別ですが この病気の場合 段階を経て死に向かっていきますよね。
病気自体の体の変調 痛み それを抑制するための薬の副作用。頭痛 吐き気 下痢 体に差し込まれた複数の管。たまに流し込んでもらうモルヒネ?も 次第に効き目が薄れて行く時 とりあえず この苦しみから逃れたいと言う気持ちの先の選択のひとつに「死」もあるんじゃないでしょうか?
原作でも告知ではなく 自覚症状や治療法などで病名を自然に知るところとなってますよね。
自ら進んでではなく 仕方なく 心の万策も尽き果て 死を受容するようになるんでは?
それを拒否できるのは その前の段階の患者ではないのかと思います。
...2005/10/11(Tue) 23:45 ID:KvOc1XcM    

             死を描く映画  Name:アンディ
批判するつもりはないのですが、映画公開から1年以上もたったのでシリアスな意見があってもいいと思うので書きます。
 実際の所、自分の死を知りつつ死んでいく人間を映画で描くのは難しいでしょう。「病院で死ぬということ」「病は気から・病院へ行こう2」などがそれですが雰囲気ははるかに厳しくなりますし、死へ抵抗しようという動きは醜くくなりがちです。そして「大病人」のようなわざと誇張した映画的な描写になりがちです。しかしそれでも死にゆく人間の心を本当に描けているかというとまったく怪しいでしょう。
 更に、病気による悲恋ものとしてよく似た「愛と死をみつめて」と比べてもセカチューの美しい処理(綺麗事)は明らかです。吉永小百合主演で大ヒットしたこの先行作は、セカチューのドラマと同じく死にゆく女性との涙ぬきでは見られぬ美しい話が展開します、その点ではドラマのファンにも好まれる映画だと思います。その美しい話の中でも、顔半分をなくすような大手術への恐怖やためらいが描かれますし、そういった犠牲をはらったのに最期の場面で主人公は「痛い、痛い」と言いながら一人で死んでいく。
 死のあり方は人により違うし、表現などは一概には言えない点もありましょうが、現在の基準ではあのドラマの表現は”わざと”現実的な部分は省略し、美しい印象を残すようにしてあると思いますよ。それを作劇上の嘘とよぶのが私の認識ですね。
...2005/10/11(Tue) 23:56 ID:KKpor7i6    

             Re: ドラマと映画  Name:dance in the dark
「愛と死をみつめて」はリアルというより 実話ですもんね。そして後にマコはこの本の読者と結婚してます。
マコが結果的に最後のお見舞いに行った時 ミコは「誕生日 何が欲しい?」と聞きます。「今度でいいいよ。」と言うと「今度はないのよ。」と確か答えてます。
そして手紙では <もし私に健康な三日間をくださるなら 一日目 両親のもとへ・・・・。二日目 あなたの部屋へ・・・。三日目 思い出と遊び 夕暮れ 永遠の眠りにつくでしょう。> そんな内容でした。
 
世界の・・・の場合 死にリアル感がない(と思う人がいる)のは ドラマの焦点が別のところにあるからじゃないでしょうか?
発病する前のエピソードだけでも 私は充分堪能できますよ。
...2005/10/12(Wed) 00:46 ID:d5CJnmS.    

             Re: ドラマと映画  Name:しお
 参考になるかどうかわかりませんが、急性でなくて、もう少し長い時間をかけて死んでいく病気の場合、ならわかりますので、参加させてください。
 死や病期を受容している人よりも受容していない人のほうが多いと思います。人の性格はいろいろですし、今までの人生や発病してからの周りの環境もいろいろです。ですから、いろいろな人がいるのは当たり前です。重圧で精神障害になる人もいます。
 ただ、受容した方がいいに決まっています。近年は、同じ病期の患者だけで集まってカウンセリングなどをお互いに行ったりしています。
 
 ドラマがリアリティがあるかどうかですが、過去の同種のドラマに比べると、かなり研究されていると思います。(映画は、この視点から見ると、あまり評価されていませんね。時間が短いのでしょうがないと思います)。
 ただ、私は、急性の病気のことは知りませんので、当時の白血病の患者の家族などからすると、おかしなところはたくさん目に付くんだと思います。
 私も、自分がよく知る分野のドラマはおかしいと思うことがたくさんあります。

それと、50番のアーツさん、はじめての書き込みということなのに、話がほかに行ってしまいましたね。スレッドを別に立てて見られてはいかがでしょうか。
...2005/10/12(Wed) 01:31 ID:VEi.gSW2    

             Re: ドラマと映画  Name:まち
 アンディさんは死期を迎えた人の現実を知っていて、ドラマでも現実らしさを見たかったのかなぁ(謎
 人は最初に見て、受け入れることができたものを一番と感じるみたいです。(セカチューで例えるなら、原作・映画・ドラマとそれぞれのファンがいるように。あっ、自分はドラマを最初に見たのでドラマファンです。) 
 アンディさんのなかでの悲恋ものの基準は「愛と死をみつめて」(見てない&読んでないです。スマソ(^_^;;)で、40年前に制作された劇中でさえ「最期の場面で主人公は「痛い、痛い」と言いながら一人で死んでいく。」のに、「現在の基準」(昔よりも映像その他の表現は過激でOK・・・ってこと?)で制作されたセカチューがあまりにも綺麗すぎる! といったところでしょうか?
 「それを作劇上の嘘とよぶのが私の認識」とのことですが、自分はそれを「演出」と認識します(笑

しおさん>「自分がよく知る分野のドラマはおかしいと思うことがたくさんあります。

これって自分もあります! そうですよねぇ、人それぞれ得意分野がありますから〜。
...2005/10/12(Wed) 01:53 ID:52/u3.nE    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
>わざと現実的な部分は省略し、美しい印象を残すようにしてある。

 どこがどの程度といった細かな点はともかく,仮にそれが実話に基づくものであったとしても,作品としてのメッセージを強調するために何らかの人為的な加工を施しているという点については,誰しも異存のないところでしょう。また,多くのドラマや映画では,ラストに「この物語はフィクションであり,実在する個人・団体とは関係ありません」という断り書きのテロップを流しています。
 つまり,作品に何らかの人為的な手が加えられているということは製作側と観衆の暗黙の了解・前提条件であり,ドラマや映画を観るということは,この暗黙の信頼関係の上に成り立つ行為なのです。
 但し,その人為的な加工がどこまで許されるかという許容範囲は論者によってバラツキがありますが,そこを大きく逸脱した場合,これを「過剰演出」と呼び,批判の対象となります。
 ここまでは,事実関係についての一般論ですから,アンディさんも含めて皆さん共通の前提でしょう。

 問題は,その先です。
 作品に施された何らかの人為的な加工について,アンディさんは,これを「嘘」というコトバを用いておられます。ここがハレーションの元なのです。
 「事実と違う」とか「創作」とかいう表現であれば,賛否は人それぞれとしても,それは「当該対象物」についての客観的な論評ということになります。ところが,「嘘」というネガティブな意味を持つ用語を用いて表現したとたん,その意見は対象案件に限った論評という位置づけを離れ,言わば「全人格的否定」に転化してしまうのです。
 つまり,「この作品は嘘である」という表現は,単に「作品の描いた世界は事実からかけ離れている」という意味にとどまらず,「森下や行定は嘘つきである」という作家の人格に対する誹謗中傷になってしまうのです。

 「嘘」というコトバは問題だと言うのは,そこのところなのですが,どうやら,アンディさんはある種の確信を持ってこのコトバをお使いのようですね。
 そうなると,アンディさんは,どうやら,私たち「普通の常識」の世界の住人とは別の言語体系の中で暮らしておられるのか,それとも,ある種の意図の下に,あえてこのような挑発的な言辞を弄しておられるのか,そのいずれかであろうと判断せざるを得ないのです。
 ただ,欠席裁判にするつもりは毛頭ありませんから,反論があれば,いつでも受けて立ちますよ。

>「それを作劇上の嘘とよぶのが私の認識」vs「自分はそれを「演出」と認識します」
 まちさんに座布団10枚!
...2005/10/12(Wed) 08:48 ID:GOnm.o.w    

             映画のつく美しき嘘  Name:アンディ
こうした意見交換は思考を刺激しますね。さて、セカチューの死の表現が嘘かどうかという話ですが、過去の死が恋を引き裂く悲恋ものを振り返ると、実はセカチューはむしろ現実的という所でしょう(前回投稿と矛盾しますが)。
絶唱       '58 浅丘ルリ子×小林旭(原作:大江賢次、死人の花嫁)
愛と死をみつめて '64 吉永小百合×浜田光夫(入院患者との往復書簡と面会、実話)
千曲川絶唱    '67 北大路欣也×星由里子(原爆による白血病で死ぬ男に裸身をさらす)
赤い疑惑(TV)  '75 山口百恵×三浦友和(被曝事故の白血病で死ぬ恋人)
風立ちぬ     '76 山口百恵×三浦友和(原作:堀辰雄、結核で死ぬ)
などを振り返ると「愛と死をみつめて」を除くと病気による苦しみなどは少ししか描かれません。昨日NHKBSで放映していた「風立ちぬ」では、恋人と割合普通に話していた百恵さんは次の親の電話のシーンで友和に死が告げられる。絶唱などは死人の嫁入りシーンが一つの見せ場となっています。白血病による悲恋というのが一種の悪口となるのもこうした表現の偏りがあるからでしょうね。楽しみのために見る映画では、死も美しい話の一要素として取りこまれてきたのでしょう。こういった悲恋ものを見ると作劇上の嘘という意味も少しつかめてくるのでは?

 しかしホスピスが日本でも普及し、死そのものを映画でも扱うようになってきた現在ではある程度現実的な描写がないと収まらないのではないでしょうか。そしてセカチューがそういう悲恋ものの単なる再来に収まらず、愛するものを失った者の深い喪失感とか、骨髄バンクへの関心を高めるような意味があるのを私はいいことだと思います。
 特に映画版は大人のサクの喪失感と回復を描いていてよかったですね、でも感想を書く人の多くは映画版のよさを感じていてもそれを明確にできていないのが残念です。
...2005/10/12(Wed) 23:00 ID:C2la8gn6    

             Re: ドラマと映画  Name:アーツ
61のしおさんへ
ありがとうございます。
ちょっとへこみましたが、自分なりに考えてみます。
...2005/10/13(Thu) 16:53 ID:92lKUYsI    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
>ホスピスが日本でも普及し、死そのものを映画でも扱うようになってきた現在ではある程度現実的な描写がないと収まらないのではないでしょうか。そしてセカチューがそういう悲恋ものの単なる再来に収まらず、愛するものを失った者の深い喪失感とか、骨髄バンクへの関心を高めるような意味があるのを私はいいことだと思います。

 このあたりの問題認識については同意見なのですが,そうした議論を展開する上で,あえて「嘘」という刺激的なコトバを使ったことが問題だと言っているのです。
 他の皆さんのご意見もうかがってみましょう。
...2005/10/14(Fri) 08:24 ID:EtPIoLbQ    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 お待たせしました。アーツさん。

>ドラマでは傘をさしかけて、お互いが気になりだしたと思うのですが、映画では、何故優等生の亜紀が劣等生の朔太郎に興味を持ったのか

 確かに,防波堤で最初に話した時,別れ際に「何で」と聞くサクに対して「話してみたかった」と言うあたり,「気まぐれ」という感じを受けますね。演出的な効果という意味では,出だしをこのように描くことで「ゴーイング・マイ・ウェイ」という性格を観衆に印象付けるという意味もあったのでしょう。このあたり,今は過去ログ入りしましたが,「映画版ヒロイン像」というタイトルのところでも取り上げられていたような記憶があります。

 これを,映画のキーワードが「衝動」だから出会いも「衝動」として描いたと言って済ませるのは簡単ですが,もう少し合理的な理由はなかったのでしょうか。そこで着目したいのが重ジイの存在なのです。
 この物語では,重ジイは2人にとっての共通の知り合いのように描かれています。とすると,直接に会って話したことはなくても,重ジイから「こういう奴がいるんだが」という話を聞いて関心を持っていたという可能性はあるのではないでしょうか。
...2005/10/14(Fri) 08:36 ID:EtPIoLbQ    

             Re: ドラマと映画  Name:不二子
アーツ様

初めまして、不二子と申します。
「へこみました」
とお書きになられていたので気になっていました。そしたら、にわかマニア様が書いて下さっていて流石という感じです。

折角初めて書き込まれたのに、出来るだけ的確な「答え」を導くためには、新たなスレッドを立てられた方がよいのでは・・・、というのが、しお様の仰りたかったことだと思います。あの時は、ここのスレッドがアンディ様の投げかけられた議題に沿って流れていましたので、折角のアーツ様の問いかけが埋もれてしまうことを、懸念されて しお様が教えて下さったのです。


『世界の中心で、愛をさけぶ』も、原作→映画→ドラマと推移し、このファンサイトも管理人様が随分長いこと管理して下さっていますが、新しい議題が出ていつまでも賑わっていて欲しい、というのは私の希望でもあります。今までも、新たな疑問や、また疑問を反復することで、見えていなかったものが見えてくることも多かったと思います。
上記のにわかマニア様の「重じいから聞いていた」というご意見も、考えてみて初めてなるほどと思いました。

初めて来られたのに、「へこんだ」ままでここを離れてしまわれるのは、残念なことですし、きっと他にも色々な疑問をお持ちのことと思いますので、是非また問いかけてみられては如何でしょう。きっと、この作品に対するご自身の想いなどを確認出来る場になるのではないでしょうか。(えらそうな事を書いていますが、私はまだまだ未熟なセカちゅーです(笑))

これはおせっかいな、手紙です。どうか、アーツ様に届きますように。
...2005/10/14(Fri) 10:50 ID:fgEqJOyg    

             Re: ドラマと映画  Name:アーツ
にわかマニア様&不二子様

ご丁寧なレスをありがとうございました。
皆様から1年遅れの感動で、勢いでカキコしたので、
スレ違いだったのかな?とかベテラン(笑)の方は
新参者のくだらない疑問なんて相手にしてくれないのかな?なんて、ちょっといじけてました。
申し訳ありません。
同じ物を観て感動できた人同士なら、わかりあえる
ような気がしました。
いろいろ、ありがとうございました。他人に聞くだけじゃなく、自分自身でも考えてみますね。
全てを説明せずに、観た人、それぞれに違うとらえかたをさせるのも、映画のよさですし。
お騒がせいたしました。
...2005/10/14(Fri) 14:10 ID:23aFett.    

             Re: ドラマと映画  Name:say
> このあたりの問題認識については同意見なのですが,そうした議論を展開する上で,あえて「嘘」という刺激的なコトバを使ったことが問題だと言っているのです。
> 他の皆さんのご意見もうかがってみましょう。

 意図的に「嘘」という言葉を使ったような印象は私にもあります。
 また「作劇上の嘘」というのは深読みをすると創作(嘘の意にも使われる事がある)の中での嘘(自分が利を得るため、または他人に不利益をもたらしたり騙すために意図的につく偽りという解釈もあり)とも受け取れるため、そのような意図がないなら言い方をもう少し工夫した方がよいと思います。

 確かに「創作」とか「実際とは異なる」という言い方であればここまで話がこの箇所で展開する事はなかったと思いますが、事実と異なることを配慮せずに描いているのだと言いたいような印象がありますので、もしそうであれば...なんでしょうね...少し考えてみましたが適切な言葉が見つかりませんで、単語で済まさずそのままを文章で表現するしかないんでしょうね。

 基本的には「嘘」という言葉を範囲を限定せずに使ってしまったことが他の方々が反論を書き込む原因になったと私は思っています。
...2005/10/14(Fri) 18:59 ID:/84TwnLI    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 アーツ様
>全てを説明せずに、観た人、それぞれに違うとらえかたをさせるのも、映画のよさですし。

 映画の「持ち時間」は2時間半前後ですから,ドラマ3本分程度に凝縮して描く必要があるため,どうしても,解釈の細かな部分は観衆に委ね,ポイント・ポイントに絞った展開になってきます。それでも,解釈の「導きの糸」になるような素材は,断片的にせよ,本編中に散りばめられていますから,それを見つけながら観るのも,ちょっとした「宝探し」ですね。

(10月22日追記・一部既出)
 サクが亜紀を異性として強く意識するきっかけとして描かれているのが弔辞のシーンですが,原作と映画やドラマでは季節が異なります。
 原作では,担任と亜紀がともに2学期の初めに入院し,年末に葬儀という「反復の構図」から,このシーンを冬場として描いたため,暗い空から光が刺してきたことで亜紀のまぶしさを意識するという構成になっています。一方,中学生の頃からの2人の交際のすべてを高2の半年間に凝縮して描いた映画やドラマでは,「時期も含めた反復の構図」は断念し,弔辞のシーンを梅雨時に持ってきた結果,亜紀のまぶしさは雨に負けずに弔辞を読み通す姿として描かれます。

 ここまでは,映画とドラマに共通項があり,原作と設定を変えているということになりますが,その一方で,原作と映画の共通項に対してドラマ独自の設定というのが「傘」なのです。原作も映画も,サクは亜紀を「ただ眺めている」だけですが,そこに「傘をさしかける」という「具体的・積極的な行為」を追加したのがドラマなのです。
 これは,原作と設定を変えた結果,必要になってきたものだと考えられます。原作がこのシーンを「ただ眺めているだけ」で済ますことができたのは,2人は中2の頃からの交際で,既に亜紀はサクにとって特別な存在であり,弔辞のシーンは亜紀の存在を「再認識」するきっかけではあっても,「馴れ初め」ではなかったからです。
 ところが,ある出来事を2人の「馴れ初め」として描くには,一方の「内面に起きた変化」だけでは相手方もそのように意識するようになったと表現する上での「決定的な何か」が不足しています。そこには,「内面の意識を外部に発信する具体的な動作」が必要になってきます。それが「傘をさしかける」という行為として描かれているのでしょう。

 それでは,ドラマでは,この「傘」が「すべての始まり」だったのでしょうか。そこは,これまでにも議論のあったところですが,傘が「一気に顕在化させるきっかけ」になったことは間違いありませんが,「いつも自転車のカギをなくす」クセを知っている(観察していなければ判らない)など,以前から「何となく気になる存在」であったとも解釈できるようにつくられているのです。

 さて,カギの件は本人が観察していれば見抜けることですが,リクエスト葉書を咎める際とっさに「妹が」というセリフが飛び出すのは,誰かから聞いていなければできないことです。そして,2人にとっての共通の接点に位置しているのが,亜紀にとっては陸上部の仲間で,サクにとっては幼馴染の智世です。
 恐らく,練習を終えた帰り道などで,亜紀は智世から幼馴染についての話も聞いていて,サクという存在もそれなりに頭の中にインプットされていたのでしょう。また,智世を通じて,彼らの溜り場があのタコ焼き屋であることも聞いていた(智世と一緒に立ち寄ったこともあるかもしれません)からこそ,雨の中の下校シーンでリクエスト葉書の文案を練っているサクをタコ焼き屋で待ち伏せすることもできたのでしょう。

 そこで,「傘」の登場しない映画についてですが,亜紀の側に何らのきっかけがないままにスタートすることができるのかという疑問に対し,前述したような眼で改めで見直したとき,「2人にとっての共通の接点」として浮上してきたのが重ジイだったのです。
 2人の間で重ジイの話題が最初に出てきた時,いきなり説明なしに「重ジイ」で話が進んでいきます。「重ジイって誰」と聞き返すこともなく,「雨平写真館って知ってる? そこの店主だけど」という説明もありません。以前から知っている存在であるならば,写真を現像に出しに店に立ち寄った際などに,「おまえのクラスメートに朔太郎ってのがいるだろう」くらいの話を聞いていたのかもしれないと判断したのが,この前の書き込みの理由なのです。
 思いのほか長文になってしまい,申し訳ありませんでした。
...2005/10/22(Sat) 07:22 ID:gY1TuzYA    

             Re: ドラマと映画  Name:不二子
先日のにわかマニア様の書き込みで、私が注目したのは、

>出会いも「衝動」として描いたと言って済ませるのは簡単ですが,もう少し合理的な理由はなかったのでしょうか

という部分でした。
何故、亜紀はサクに興味を持っていたか?
この基本的な問いに対して、私はこれが答えだと言える程の見解を持ってはいませんでした。セカチュウに限らず、物語の理由付けをそれ程気にする方でもないので、ヒドい時は「ドラマだからそうなるの」とか「インスピレーションよ!」で通り過ぎることも出来ます。(何ておおざっぱな・・)
しかし、にわかマニア様の仰る「合理的な理由」を考えることが、物語全体を膨らませ、より厚みのあるものへと変化していくことを思います。そして、それに合わせて想像も深まって行きます。
確かに「好き」に理由はないのかもしれませんが、サクに目が向かうきっかけというのは必ず存在したと思います。それはもしかしたら、学校での友達とのやりとりだったかも、もしかしたら、先生に質問する時の様子だったかも。または、授業中居眠りする時の横顔だったかも。そして、その中の一つが、重じいからの話だったかも・・・、という仮説は、私にとってとても楽しいものでした。
重じいからサクの話を聞いた亜紀がどんな風にサクのことを目で追っていただろうか。どのタイミングで声を掛けようか、ずっと見計らっていたことはあの亜紀なら容易に想像出来ます。合わせて、重じいからサクの話を聞く時はどんなに瞳をキラキラさせていただろうか・・とか。
ドラマでも映画でも、本当に楽しいのは登場人物が描かれていないところで、自分の頭の中を勝手に動いたりする時のような気もします。

ドラマにおいて私がそれを強く感じるのは、あのエンディングの8mm映像です。
あれは、一般的にはサクの記憶と言われているようですが、その記憶の内容は二人で過ごした何気ない時間であり、特別なことをしているわけではありません。「幸せって特別なことじゃない」そのまんまです。学校が終わった後、二人は宮浦の町をあんなふうに歩いた。宮浦の風を肌で感じながら、橋の上や堤防や町の路地をこんなふうに歩いただろう。そんなことを考えていたら、この作品のことを想う時、私の頭の中には昼下がりの穏やかな宮浦の風景が広がって行くのです。
...2005/10/23(Sun) 13:15 ID:ff/cZ4jE    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 不二子さんに言われて,改めて「キーワード検索」をかけてみて,いささか驚きました。過去ログを除く現在のBBS中,「合理的」でヒットした10件のうち6件が私の書き込みで,残る4件のうち2件も私の書き込みの引用でした。「整合的」に至っては,4件全部が私の書き込みでした。まさか,こうまで理屈っぽい性格が数字になって現われるとは・・・
 しかし,正直に白状します。ここまでドラマや映画にハマってしまったのは「世界の中心で・・・」が初めてなのです。
 忘れもしない昨年の7月9日。帰宅して着替えもそこそこにビールの栓を抜いていたら,高校生の娘が何やらテレビを見ていて,画面から「盗んで欲しい」という物騒なセリフが聞こえてくるではありませんか。
 「何。これ」
 「世界の中心で・・・」
 「ひょっとして,あの亡くした恋人の灰を撒くっていうベストセラーのやつ?」
 実は,これが「世界の中心で・・・」という作品や森下佳子さんとの出合いでした。
 この時,何となく「まあ,物語だからねえ」で済ますことができず,「これはどういう意味だ」と考えるようになったのは,「好きな人といるのと遠くから思うのと」とか「そのままがいい」とか,随所に問いかけが散りばめられ,その受け答えがさらに次の問題提起につながっていくという森下脚本の構成にハマってしまったためでした。
 その後,原作や謎解き本を読み,ドラマも第5話まで観てから映画を観たとき,正直言って,最初は「一気にそこに持っていくのは,ちょっと強引じゃない」とか「そこは原作の解釈からいってどうなのかな」という部分もあって,ちょっと引いてしまいました。でも,丁寧に見返していくいちに,説明を必要最小限にとどめ,かなりの部分を観衆の解釈に委ねているものの,描かれていない部分を解釈で補うにあたっての道しるべは本編の中にさりげなく散りばめられているということが見えてきました(何回も見直さないと気付かない鈍感さはご容赦願います)。
 もっとも,何度も見返せば見返すほど深い味わいが出てくるというあたり,映画にしてもドラマにしても,家庭にビデオデッキが普及した時代だからこそできた作品と言えるのかもしれません。
...2005/10/30(Sun) 10:30 ID:2xj6JS7s    

             Re: ドラマと映画  Name:灰人
初めまして、灰人(かいと)と申します
今までROMってましたが今回初めて書き込ませていただきます
自分はドラマよりも映画派だったりします
映画の朔が泣かなかったのは身近な死というものを普通の高校生であった朔が受け止める切ることがができなかったのではないのでしょうか?
つまり映画の朔は泣きたくても泣けない状態にあると自分は思います

まぁ、あくまで自分が感じたのことなのでツッコみどころ満載ですが^^;
...2005/11/04(Fri) 16:30 ID:qB/DQujg    

             Re: ドラマと映画  Name:朔五郎
映画については、行定監督自身が「一種のファンタジーである」と語っています。
それなので、映画の方はあまりディテールにこだわらず、映像と音楽の絶妙なコラボを楽しむほうが良いのではないかと、私は思います。
気にし始めると、いろいろアラが見えて来る作品だと思うのですが・・・(苦笑)
...2005/11/05(Sat) 00:48 ID:khNNV7tM    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 確かに,映画は,朔五郎さんのおっしゃるように「気にし始めると、いろいろアラが見えて来る(苦笑)」ような側面もない訳ではありませんが,それでも,よく注意して見ると,その「アラ」というのは,それなりの根拠をもって登場しています。これは,「持時間」の制約もあって,説明を必要最小限度にとどめ,観衆に解釈を委ねた部分が大きいということも影響していると思われます。
 ちなみに,私自身は,ドラマにすっかりハマりこんだがゆえに,原作・映画・ドラマの三者を対照しながら見るようになり,そのことによって映画の「アラ」よりもむしろ「よさ」が見えてくるようになりました。

 スレ起こしにあたって,エミさんは,映画ではサクが泣かなかったことが残念とおっしゃる一方,直前の投稿で灰人さんは,現実を受け止めることができなかったのだとおっしゃっています。お二人のベクトルの向きは逆ですが,ともに,サクは泣か(け)なかったというのが前提になっています。
 確かに,亜紀の病状が深刻化した頃,祭の中を涙しながら歩いていたシーンを除いて,直接的にサクが泣いたシーンが映像として提供されている訳ではありません。しかし,くれいさんが6番目の書き込みで指摘されているように,冒頭の防波堤での絶叫シーンは亜紀の葬儀の日のことという解釈(制作側がインタビューで述べているのですから,これが言わば「内閣法制局による有権解釈」なのでしょう)もあるのですね。
 いずれにしても,亜紀を亡くした後のサクの心の動きは解釈で埋めていく必要がある訳ですが,そこをどのように律子との出合いやラストの散骨のシーンにつなげていくのか,想像力を働かせる楽しみもある訳です。

 泣けなかったという点では,ドラマの第3話で,祖父を亡くした実感がわかず,葬儀の時点では泣けなかったという展開は,亜紀を亡くしたことを受け容れられず,葬儀からも逃げ出してしまうという最終回の展開を予告するとも解釈できます。事態を受け止め,泣けるようになるためには,大切に思い・思われる人物の存在を必要としたという構図まで似ています。
 いずれにしても,涙と一緒に感情が流れ去り,泣いていても悲しいのかどうかさえ判らないという原作冒頭の表現が,いろいろな場面で形を変えて投影されているようです。

(11月14日追記)
 一部既出ですが,法務省が洋上散骨に対して,節度をもって行われる儀礼であれば墓地埋葬法違反にはあたらないとの見解を示したのは90年代に入ってからのことでした。これは奇しくも骨髄バンク設立の時期と重なるのですが,原作の舞台はこういう世界なのですね。
 したがって,原作の場合,なぜドナー探しに東奔西走しないのかという突っ込みどころが生じる反面,「死んだら一緒に撒いて欲しい」という祖父の遺言は違和感なく受け止めることができます。

 これに対して,映画やドラマの80年代は,もし重病人を連れ出さずにいたら骨髄移植に間に合っていたかもしれないという自責の念が強調される反面,散骨は当時,一般的には違法行為と認識されていたことになります。
 そのためか,映画では,重ジイは「骨を取ってきて欲しい」とは頼んでも,「撒いて欲しい」とは言っておらず,後生大事にしまっていたような描かれ方です。その分,「ウルルの風の中に撒いて」という亜紀の遺言は,やや唐突な感じが否めません(ウルルに惹かれたきっかけが先客の忘れていったフィルムというのも動機付けとして弱いということもあります)。
 一方,あくまでも反復の構図を追求したドラマは,祖父を早々に他界させてまで,主人公の2人に「散骨」を刻印しています。これは,全体の流れとしてはスッキリしているのですが,誰も合法性について気にしなかったのでしょうか(第2話の「刑務所・少年院問答」に見られるように,墳墓窃盗については罪の意識はあったようですが)。
...2005/11/14(Mon) 20:48 ID:QCGg4OuM    

             Re: ドラマと映画  Name:裕介
 今日の静岡新聞の朝刊に長澤まさみさんが、一面に載っています。インタビューも掲載されています。
...2005/11/30(Wed) 19:30 ID:L1AZigEE    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 一部既出ですが,なぜ映画の舞台が1986年と2003年だったのかという問題がどうもうまく解決できません。
 亜紀を亡くしたのが17歳の時で,亡くしてからの歳月も17年という構造は映画もドラマも共通ですが,17年間の時間差なら,なぜドラマと同じ1987年と2004年(封切りの年)の組み合わせにしなかったのか。あるいは1年早めて1985年と2002年ではいけなかったのでしょうか。

 台風を「乗り越えられない障壁」として描いた意図は判るのですが,カレンダーを1枚ずらすだけで,1986年には日本列島に1個の台風も上陸しなかったはずだという無用の突っ込みを避けることができたのに,なぜそれをしなかったのでしょうか。ウルルがユネスコの世界遺産に登録されたのが1987年ですから,むしろ1年後ろにずらした方が矛盾を感じさせずに済んだような気もします。
 改めて気象庁のホームページ等にあたって調べてみたところ,1987年の場合,映画の設定にピッタリなのがありました。台風19号が10月16日から17日にかけて,四国に上陸し関西方面を通過して一度日本海に抜けた後,津軽海峡から北海道に再上陸しているのです。2人の誕生日を半月程度繰り上げるだけで済むのに,どうしてこれを使わなかったのでしょうか。

 ひょとして,亜紀の誕生日(あるいは命日)に意味を持たせたのではないかということも考えて,10月28日という日をあたったところ,1986年の10月28日は,米国の自由の女神像の除幕式100周年にあたる日だということが判明しました。キラキラと駆け抜けていった映画版のヒロインを「自由の女神」に見立てていたのでしょうか。
 もう一つ,10月28日といえば,チャイコフスキーの交響曲第6番(op.74 h−moll)がペテルブルクで初演(1893年)された日にあたります。日本では「悲愴」というタイトルでおなじみのこの曲,実は原語の「パテティチェスカヤ」は悲愴というよりは,むしろ「情熱的」という意味の言葉なのですが,どちらの意味をとるにしても,このあたりのことも念頭に置いていたのでしょうか。
...2005/12/06(Tue) 20:36 ID:rfEou48U    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 別スレで,覇気がないとか,未来は「与えられる」ものかといった大人サクについての議論をしているうちに,ここのスレでも映画版とドラマ版の大人サクについての議論があったことを思い出しました。

 映画もドラマも,大人サクが初めて画面に登場するのは,職場に泊まりこんで朝を迎えるシーンでした。
 それでは,何故,普通に街を歩いているシーンや,何かを回想しているシーンや,職場を撮るにしても普通に働いているシーンではなく,「夜勤明け」のシーンだったのでしょうか。「覇気のなさ」という描かれ方とは別に,夜を徹して働く人物でもあるということを示すためでしょうか。それなら,「徹夜明け」ではなく夜勤のシーンそのものでもよかったはずです。
 とすると,生きているのか死んでいるのか判らない状態をそれにかぶせて象徴させるために,起きているのか寝ているのか判らない状態の「夜勤明け」のシーンを必要としたとは解釈できないでしょうか。

 では,その「激務ぶり」は,職場環境からくる「必然(そういう職場環境を放置していいのかという問題はともかく)」のものだったでしょうか。その答えは,ドラマの第1話と第4話で大人サク自身の口から語られます。何も考えなくても済むから忙しいのは有り難いとか,忙しくしていれば,人生はあっという間に過ぎていくとか。つまり,何かから逃れるために,あえて自らそういう環境に身を置いている訳です。
 もちろん,その一方で,一樹のことを気にかけている「家庭人」としての大人サクの側面も観衆に提示されています。
 翻って,映画版ではどうでしょうか。納期の関係等で泊り込みで仕上げることもあるような描かれ方ですが,同時に大人版の大木が営む「行き付けの店」や,挙式の日取りも決まり新居に越す仕度をしている婚約者も登場します。

 ここで私が注目したいのは,映画とドラマの力点の置き方の温度差よりも,「与えられた未来」という共通項の方なのです。
 観衆には「ひょっとしてこの人が再婚相手」と印象づけながらも,字こそ違え亡くした恋人と同じ発音なるがゆえに未だファーストネームで呼ぶことすらできないドラマに対し,映画では,確かに律子は最初から婚約者として登場します。しかし,その律子は,大木の紹介で知り合ったという設定です。もっと深読みをするならば,「早く立ち直れよ」という意味も込めて大木が気を回したとも解釈できます。しかも,婚約まで進みながら,お互いに「相手が誰なのか」を正確には知らないという,そこだけ抜き出せば違和感を禁じえない描かれ方になっています。
 しかし,ドラマで語られる「与えられた未来」という不思議なキーワードを映画にかぶせて読み解くと,過去を封印して逃げ続け,婚約者ともきちんと向き合えない(素性を知らない)のは,この時点では,この婚約者も「自らつかんだ未来」ではなく,「与えられた未来」だということが見えてきます。そこに「プロポーズ」という主体的・能動的な行為が介在するとしても,過去ときちんと向き合えていない段階では,婚約もまた「逃げ場所」の一つであり,自ら「選び,つかみとった」訳ではないから,あえて上記のような不自然な描かれ方になっているのでしょう。
 そして,「与えられた未来」を「自らつかんだ未来」へと転化させていくためには「自分探しの旅」を必要としたということになります。このあたり,具体的なストーリー展開や作中人物の登場する順序は異なるものの,映画とドラマに共通する要素を見出すことができるのではないでしょうか。
...2005/12/20(Tue) 07:04 ID:F6vw4xCw    

             Re: ドラマと映画  Name:無名
アキを亡くした直後から始まりほぼ全編同時期(アキの死の前後)を描いている原作と、1987年を詳細に描いているドラマ版は、視点が近いです。

それに対して、はっきりと2003年から過去を回想する形式をとる映画版は視点が根本的に異なるのです。ドラマ版も同じ形式を取ってはいますが、1987年の場面の比重が圧倒的に大きく、その年の出来事は過去の出来事であるにもかかわらず細部にわたる具体性をもって現在進行形でみることができます。一方、映画版で展開される高校時代のできごとは、17年後から回想した細切れの断片であって、個々の回想の断片は、映像の色使いからもなにか記憶の中の再現であることを感じさせます。各回想シーンには、それに先立って必ずその場面の記憶を引き出してくれる2003年になって17年ぶりに再生された肉声テープの存在があります。肉声テープに関連したエピソード以外はほとんど連想されていません。過去を思い出すという行為からすると、実は映画版のしくみは結構リアリティがあると思いますね。

まとめると、ドラマ版(と原作)は高校時代のできごとを詳細に追体験して感動するしくみ、映画版は17年後から過去を思い返す追憶の感情そのものに感動するしくみです。追憶という言葉だけで何かしら心を動かされるモノを何か持っている人なら映画版を見て泣くでしょう。一方ドラマ版は目の前に提示された詳細な事実に泣くわけですね。
以上のように同じセカチュー、同じ題材で、同じ展開でもドラマ版と映画版では感動の質は異なると思ってます。
自分の場合、映画とドラマの両方に感動できましたけどね。
...2005/12/24(Sat) 03:03 ID:16RSo1hw    

             Re: ドラマと映画  Name:shinichi
あ〜、へっこんだ・・・・。某『このサーバと同じところのどこかにある某作品のファンサイト』じゃあ、僕の恐れる事が実際に起こってしまっています(たぶん、うてきなぶりばさんもご存知かと思われますが・・・・)

それはともかく、最近思った事を3点。

映画版の森山未來さんの演じた朔太郎は、ドラマ版の山田孝之さんの演じたそれに比べると「チョイ悪」な感じに作られていましたね。それとか、高橋一生さん扮する大木竜之介も呵り(確か、作中にコンドームが出てきたのは映画と原作で、ドラマ版は出てこなかった・・・と記憶していますが・・・)。そして、コンドームのシーンを勘案すると、原作者の片山氏が目論んだ朔太郎の『1/3の不純な感情』の書き方は映画に1ポイントを差し上げたい、と私は思います。でも、ドラマ版でも大木竜之介(所謂スケちゃん)は髪型をリーゼントにしたり、東京の彼女の所にシケ込もうと思ったりとか、ってチョイ悪を演出するシーンはあるにしても、「コンドーム」という「余りにも不純な事を連想させる」物体の登場にはかなう物ではないな、と考えています。

そして2点目。
「夢物語とリアリティ」に関して。
よく言われる事ですが、原作や映画は「夢物語のような〜」と表現される反面、ドラマはそのリアリティが評価されています。にわかマニアさんの言う「バイアス」を持った人間として書かさせていただくと、石丸Pや堤監督は『映画や原作にヒケを取らないようにするには、リアリティを最大限表現するしかない』と考えたのかもしれません。多分、TBSの『報道特集』などその他のドキュメンタリーが仕舞ってあるアーカイブスを少なからず引っ掻き回していると思われるし、その地道な下地作りがドラマに生かされた、と僕は思うのです。

そして第3点。
現代の周囲の登場人物による廣瀬亜紀の描かれ方。
映画版では、現代の大木(東京で食堂を経営しているという設定)は「おまえは廣瀬亜紀との思い出を探しにいったんじゃないだろうが!!」の一言で解るように廣瀬亜紀を「過去の人間」として割り切っています。しかし、ドラマ版での大木は、自分の乗る漁船に自分がシャッターを切ったサクと亜紀の写真を載せています。しかも、「ホレた女と夢島の・・・」という発言を見る限り、きれいな想い出として記憶に仕舞っています。ここの所の描き方も賛否両論はあれども、現代の朔太郎の置かれた状況と共に解釈の仕方で評価が分れるところではないだろうか、と考えたりします。そして、これが誰かの言った「男性と女性の好感度の違い」に出て来るのかな、と思ったりします。

で、オマケ。
確か、映画版では上田は中川(ドラマ版で言うところの坊主)とくっついていたのが、ドラマ版での上田(言うところの智代ちゃん)は大木に想いを寄せていました。これも解釈の違いなのでしょうと考えられますが、ドラマ版の上田は当然の事ながら、『廣瀬亜紀の大親友』という役割も背負っています。これは、映画と原作が『2人の間の純愛』という事をクローズアップしている事に対して、『親友や、それぞれの父母や谷田部先生などの大人たちがいたからこの2人がやってこれたんだ』という事の表現という、人からよく言われている事の端的な一例ではないかと考えられます。

ところで、森山未來さん主演の映画"School Days"が単館上映から全国ロードショーに切り替わりました。ひょっとすると、来年の”日本アカデミー賞授賞式”では、映画版とドラマ版の4人がハチ合わせな事になるのではないか・・・・とついつい考えてしまいます。

・・・・ってより、長澤さんと綾瀬さんは、結局「黒木さんと川島さん」的な関係でしばらく続くのでしょうか・・・・。
...2005/12/28(Wed) 23:33 ID:QgOzLXTM    

             Re: ドラマと映画  Name:にわかマニア
 shinichiさんのご指摘に関連して・・・
 このサイトは少年少女の皆さん方もご覧かもしれませんので,直接的な表現は避けますが,shinichiさんが1番目で言及された「ブツ」は,ドラマに登場しない訳ではありません。ただ,「そのものズバリ」の単語がそのまま活字になっている原作や,「例のブツ」を渡すシーンが映っている映画と違って,ドラマの場合,夢島の桟橋でのスケちゃんとサクの会話の中に「それ」を想起させるやりとりが登場したり,亜紀に見つかる場面でも,枕を取り上げるシーンだけが映され,その下に何があったかは映っていないなど,あくまでも間接的な表現にとどまっています。
 これは,書店や図書館に足を運んだり,映画館まで出かけてチケットを買うなど,そこで何が提供されるのかを承知の上で目的意識的に手に入れる小説や映画と異なり,テレビは意図せずして茶の間に入り込んでくる存在だということも大きいでしょう。つまり,原作や映画なみの「露骨な」表現は,一家団欒の茶の間で見るものとしては相応しくないという判断があったのでしょう。

 もっとも,それにしては,「白夜行」の前宣伝は,思春期の子を持つ親としては,教育上宜しくないのではないかという気もしています。(ただ,白夜行スレにおける「セカチュウ症候群中年」さんの問題提起も踏まえて一言付言すると,自分自身は「教育上宜しくないもの」を見たいとも思わないし,自分の子にも見せたくはありませんが,それはあくまでも市民の良識によって自然淘汰されるべきものと考えています。ですから,罰則付きの法律で取り締まることについては反対ですし,チャタレイ事件の最高裁判決も「言論の自由」と「公共の福祉」の関係についての憲法判断を誤っていると考えています)

 本題に戻って,
 サクと亜紀にしぼって,あるいは,大人サクの回想に登場する範囲にしぼって描いた原作や映画に対して,確かにドラマは主人公たちの周囲も丁寧に取り上げています。その際,智世を登場させたのも,ある意味,リアリティの追求に関連していると考えられます。
 原作では,中2で初めて同じクラスになった2人が恋愛に発展するまでの熟成期間が用意されています。映画やドラマはこれを高2の半年間に凝縮して描いていますが,その分,2人の「出合い」をどう描くかが難問なのです。
 原作も映画もドラマも「葬儀での弔辞」のシーンを「きっかけ」として描いています。しかし,同じ「きっかけ」でも,もともと面識があって,それなりに交際していた相手を改めて魅力的な異性として「再確認」するのと,「なれそめ」として描くのとでは意味合いが異なります。弔辞のシーンで亜紀に惹かれたことを観衆に印象づけることはできても,それはサクの内面の出来事に過ぎませんから,亜紀との間の双方向的な関係のスタートとしては弱いのですね。
 だから,映画では,亜紀がサクに初めて声をかけるシーンがやや唐突に見えるのです。その意味では,ドラマで「傘を差しかける」シーンが描かれているのは,サクの内面の変化を具体的・外形的に発信する手段を用意したものと考えられます。
 更に言えば,クラスメートの描き方にもいろいろあったであろう中で,「智世」という存在が登場してきたのは,以前からの2人の接点として,一方にとっては幼馴染,もう一方にとっては部活の仲間という位置付けの存在を必要としたからでしょう。
 つまり,亜紀との接点を持たせるためには女性である必要があったし,サクとの間柄を「恋愛感情」とは別の世界に位置づけるためには異性という意識の入り込む余地が比較的少ない「幼馴染」という設定が必要だったのでしょう。そして,いわば「ダメ押し」の形で,もし「恋愛感情」があるとすればサクではなく○○という解決を用意するために,「幼馴染」を複数形にしたのでしょう。
...2005/12/29(Thu) 19:11 ID:xaoTDHzE    

             Re: ドラマと映画  Name:shinichi
さすがですねぇ・・・・にわかマニアさんの分析力には脱帽です。

でも、ドラマにも「不純な事を連想させる」演出があったんですねぇ・・・不覚にも気がつきませんでした。というより、「例の『そのもの』」が映像化されていなかった為に印象が薄かったのかもしれません(もう一回再視聴の余地ありですね)。

で、映画とドラマの冒頭の弔辞のシーンですが、これはドラマに1ポイント、と私も考えています。映画もドラマも、その弔辞のシーンがきっかけだった事は明白ですが、映画では確かに廣瀬を見つめているだけの朔太郎に対し、ドラマ版では傘を差し掛ける、というワンステップ踏み込んだ動作が、切っ掛けとして自然かつインパクトの強い演出になっている、という事なのでしょうね。

<12月31日追記>
レス80番で、映画版の現代の大木が朔太郎を立ち直らせるために律子を紹介した、とも解釈できると表記がありました。その事に関しても、映画版では周囲の人々があまり想い出に執着していないような感が否めません。確かに、中川は朔太郎の墓参りのシーンで出てきて廣瀬亜紀を回顧するシーンはあるのですが、ドラマ版の中川ほど廣瀬亜紀と深い関わりを感じさせるものは見当たりませんでした。これは大木にも言える事で、ここの所を見ると、この「世界の中心で〜」という作品を純粋な恋愛作品と見るか、それとも恋愛作品のサイドストーリーとして存在した『友情物語』を作中に取り入れた作品として見るかという、これもよく人が言う事の端的な一例なのでしょうね。それによって、評価も人それぞれ分かれるし、「男性と女性の好感度の違い」というものに繋がっていくのであろうと考えられます。
...2005/12/30(Fri) 10:59 ID:POjDvtAU    

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