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世紀末の詩 名セリフ+解釈+感想


[2003/05 update] 各話の解釈を追加して、以前の概要コーナーと統合させました

―― 4行詩
―― 野亜
―― 百瀬
―― 里美
―― 佑香
―― 各話ゲスト(a)
―― 各話ゲスト(b)

第1話:この世の果てで愛を唄う少女
第2話:パンドラの箱
第3話:狂った果実
第4話:星の王子様
第5話:車椅子の恋
第6話:天才が愛した女
第7話:恋するコッペパン
第8話:恋し森のクマさん
第9話:僕の名前を当てて
第10話:20年間待った女
第11話:LOVE

※このグレー色の部分は以下すべてFumiによる独断のセリフ解釈です
(制作サイドの意図とはだいぶ違う可能性があるので参考程度に見て下さい)

※このイエロー色の部分は以下すべて98年放送当時の当サイト掲示板の投稿からの抜粋です。投稿者の方々には感謝です。
(後半に多くなるのは序盤はまだ掲示板の投稿数が少なかったからです)


第1話 この世の果てで愛を唄う少女

ゲスト…小川すみれ (広末涼子)

汚いんだよ大人は
分かるけどね、パパ養子だから、ママのお金無駄にしたから家を出たの
もう互いに愛情はなかったんだよ
そんなの違うよ
愛は消えないんだよ!
なくなったんなら、最初からなかったんだよ

世の中には偽物が多すぎる
耐えきれなくて手放すのは愛じゃない
終わらないのが愛だって
変わらないのが愛だって
思い出にできないのが愛だって
100万回恋しても、決してたどり着けない…

ハローベイビー
僕はきっと愛を知らない
君もそうならついておいで
この果てしない物語の彼方へ

リアリティは追求しない寓話ということで、いきなり非現実的な幽霊・すみれが登場した。
それは死をも越える”永遠の愛”の象徴だろう。
愛は刹那的なものだと思っている現実主義者・百瀬には、すみれを見ることができない。
婚約者に裏切られたことをどこか根に持っていた野亜だが、すみれに出会うことで自分と婚約者との関係は「愛」ではなかったと気づかされ、1話から厳しい愛の定義がなされる。
愛は決して終わらず、変わらず、いい思い出にもできない。
100万回恋してもたどり着けない、それぐらいの「愛」。
果たしてそのような愛はあるのだろうか?
ここから愛を探求していく物語が始まる。

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第2話 パンドラの箱

・興梠 一郎 (38歳) - 斎藤洋介
・仁科 鏡子 (23歳) - 遠山景織子
・泉 誠司 (28歳) - 袴田吉彦

ラブバードって知ってますか?
あぁ、つがいで行動する鳥だろ
どちらかが死ぬと、もう一方も死ぬそうです
変な鳥だな
どうして?素晴らしいじゃないですか
愛に生き、愛に死ぬんですよ
ムキになんな
僕は見たいんだ、そんな美しい愛の形がある事を…

それはお前が、救いがたく心の卑しい人間だからだ
自分はちっぽけで小さな人間だと理解しながら、一方で自分より小さな人間を貪欲に探している
まるで、自分より不幸な人間を探して同情するワイドショー好きの主婦のようだ
しかもなお悪いことに、人間の価値を表面的な見てくれで判断しようとする
俺には、愛の花火がどこで打ち上げられたか、全力で、大汗かいて探し回った彼が星の王子さまに見えたけどな

貧相で不細工なコオロギを見下し、優越感に浸る野亜。
しかし百瀬はそんな心の卑しさを断罪する。
容姿、金銭…そういった価値は「愛」にとっては関係ないと。
世紀末の詩の「愛」は、金銭や容姿に翻弄される現代人の恋愛のはベクトルが違うことがこのセリフで示される。
よってこの時点でのコオロギと鏡子は、そういった見てくれの価値を乗り越えている愛の体現者である。

ある意味僕の理想のカップルなんです
ラヴバードのような
いつも寄り添い
互いにその相手だけが人生の全て
打算も裏切られる不安もない永遠のパートナー

鏡が見たいって言ってたよ
その鏡子って言ったっけ、彼女さ
目が見えたら最初に、恋人のコオロギじゃなくて自分の顔が見たいってな
人間はとても眩しい瞬間に、とても大事なものを見失う

はじめにこうしたやつがいる
こっからこっちは俺の土地だと
おそらく、何千万年前の原始人の内の一人が
所有欲の始まりだ
金銭欲、名誉欲、欲と名のつくほとんどすべてが見える物だ
彼女はそれを見ずに済んでいたんだ
だから恐ろしく透明だった
人間の欲には際限がない
特に、あれだけの美貌を持ってることを知ればな

ハローベイビー
僕はいつも不思議だね
人は見えるものを欲しがるんだ
いずれ自分は消えていくのに

手術は成功して視力を取り戻し、鏡子が自分の「美」という価値に気づいた時、野亜が、そしてコオロギが愛だと思っていたものは、簡単に壊れてしまった。
人は見えるものに惑わされることで、欲望は喚起される。そして愛を見失う。
金銭や容姿といった価値は世紀末の詩の「愛」とは正反対のものなのだから、それらに惑わされている間は愛に辿り着けない。
見えてしまうことの残酷さ、人間の欲深さが浮き彫りになっている2話。
コオロギは文字通り、愛に生き、愛に死んだ…。
2話に関しては違う観点からも考察したので参考にして下さい。>勝手に野島論・世紀末2話

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第3話 狂った果実

・津田 愛美 (25歳) - 小田エリカ
・津田 昭文 (52歳) - 清水紘治

たとえ仮に相手が死んでしまったとしても
心に永遠に焼きついて離れず
もう誰とも恋をしようと思わない
その回路が消滅するような、そんな唯一のものが…愛

瞬間的な愛は永遠になり得るのか。
相手の心の中に残れば、それは永遠の愛なのか。
ラストの愛美の行動に対する伏線でもある。

<愛美>
一度でいい、映画みたいな恋がしたかった
映画みたいな恋が
そしてずっと忘れられることのない、愛にもたどり着きたかった
そう、もしかなうなら、死んでしまってもかまわない

病気のせいで恋愛することができないでいる愛美。
だが愛のない人生に耐えることもできない。
だからこそ、たとえ死んででも愛が欲しいと。

太陽はこんなにも熱いのに、私にだけは冷たいの
だけど夜は違う
暗闇はいつも私の友達だった
ねぇ、みんなが暗闇を怖がるのはなぜだかわかる?
太陽は明るくて、いつも事実をみんなの前にはっきりと見せてくれるかもしれない
だけど、暗闇はそっと真実を置いていくの
みんなが怖がるのは、真実を見るのが怖いからよ

野亜、この部屋をもう一度よく見ろ
暗幕に閉め切られ、昼間でも電気をつけて生活する
まるで穴ぐらだ
日差しを欲しがる花もなく、つまりは、朝も昼も夜もない
救いようのない孤独は、臆病さと隣り合わせに、恋も愛も寄せつけない
僕を愛してると言ったのは…
むしろ、愛されたいと願ったんだ
勇気を振り絞って、一生に一度だけ

だって彼女は死ぬつもりなんでしょう?
ずっと僕、うなされちゃうじゃないですか
彼女はそれを望んでいるんだ
お前の中で、永遠に忘れられない女に
そんなの愛じゃないですよ
じゃあ彼女にとっての愛ってのはなんだ
この穴ぐらの中で一生を過ごし、年老いて死んでいくことか

僕はずっと君のこと忘れないよ
もしも君がそれを…それを愛と呼ぶなら

愛美は一瞬でも本当の姿で野亜に愛されようと、禁止されている太陽の下に…。
繰り返し見ていたビデオのひまわりは、愛美の憧れであった。
自分もひまわりのように太陽に向かって光を浴びたいという願い、それがラストの愛情表現に繋がった。

ハローベイビー
ピクニックに出掛けよう
不恰好なお握りまんまる頬張って
僕は優しくなれるだろう

当サイト掲示板の投稿より

ゴッホのひまわりがスパイスの様に効いていた。
ゴッホは光に憧れて、光を自分の絵の中に封じ込めようとした。
一連のひまわりの作品に基調として用いられている黄色は光の象徴である。
教授はそのことを知っていたはずだ。
知っていたとすれば、ひまわりのビデオを見た後の感情の爆発はしごく自然に感じられる。

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第4話 星の王子様

・山内 羽夢 (14歳) - 真柄佳奈子
・山内 徹 (60歳) - 谷啓
・岡林 聡 (48歳) - 布施 博

<羽夢>
父さん、負け惜しみじゃなくってね
僕は愛って、貧しさの中にあると思うんだ
世の中は物がどんどん豊かになっていて、こうやってひとつの物を分け与う機会が少なすぎるんだ
それこそが本当の、愛なのに

今の世の中は物質的には豊かになったが、一方で精神的な豊かさを失わせた。
愛…それは精神的な営みに他ならないから、物質主義的な社会の中では軽んじられ失われていくものだと。

僕は総理大臣になりたいんです
この世の中を住み良くしたいんです
争うことよりも仲良くすることを
奪うことよりも分け合うことの素晴らしさを、みんなに伝えたいんです

無駄な競争は心を貧しくする。
優位に立ちたいばかりで、負けたくない気持ちばかりで、思いやりや愛情は失われていく。
だから「愛」のある世の中にするためには、競争ではなく共存が求められる。

愛とは、時の流れに関連があるんだろう
同じ時を長く過ごし、互いに呼吸をし、それが互いの肉体の細胞に加わる
だから引き離される時、血の滲むような肉体の痛みをも伴うだろう
愛とは…息をすること

ハローベイビー
もしも僕に会いたいのなら
僕も君に会いたいのさ
きっときっと会いたいのさ

4話は人間の”幸せ”についてがテーマでした。
貧しい家庭でも愛する父と共に暮らしていく方がいいのか、愛はなくとも裕福な家庭で夢(総理大臣)に向かって育つ方がいいのか…?
羽夢が望んだのは前者ですが、徹は最終的には羽夢のためを思い岡林に引き渡す。
つまり4話の結末は、羽夢を引き取られたくないばかりに、偽って男として育ててきた徹のエゴが否定される形になった。
そして人生のすべてであった羽夢を失った徹は、生きる希望を失いまた浮浪者に……。

また、この4話を通してミアが鳩のポッポの世話をして、最後には空に飛び立たせますが、それは親の元を離れていく羽夢の巣立ちとのリンクでしょう。

当サイト掲示板の投稿より

愛するものがある事が生きてゆく意味を与えてくれる。
それでも愛するものの為にはいつかそれを手放さなければならない。
それは、徹も岡林も百瀬もみな同じなんでしょう。

徹が金銭目的で手放した訳ではない事を、岡林が羽夢に教えてしまえば、父(徹)に対する未練が残ってしまう。
教えなければ、親に売られたと言う事実が羽夢自身を歪めてしまうかもしれない。
岡林も親の愛情を試されていると思うのは深読みのし過ぎでしょうか。

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第5話 車椅子の恋

・星野 守 (30歳) - 三上博史
・佐々木 留美 (27歳) - 純名理沙

ギリシャ神話を知っているかね
オルフェウスは恋人を黄泉の国から助け出そうとした
決して振り返ってはいけない
振り返ると恋人を現世に連れ戻すことは叶わない
オルフェウスは不安で、ついに振り返ってしまった
そして階段は崩れ去り、恋人は再び黄泉の国へ…
悲しいお話ですよね
Trust、信頼関係が崩れたということだ
恋人はオルフェウスの背中を見ながら「振り返らないで」と祈ったはずだ
オルフェウスが信頼関係を破ったということですか?不安で
恋人もまた、不安だった
不安という一滴の濁り水が、鋼鉄の愛にやがて穴を開ける
愛とは互いの揺るぎない信頼

「恋人を信じられるか」が5話のテーマ。
二人の信頼関係に少しでもヒビが入ると、堅い愛の絆も簡単に壊れてしまう。

<星野>
僕が似顔絵を書き始めたのは
世の中には、悲しみや苦しみを抱えて生きてる人がとても多いと思うからです
その人を、嘘偽りのない自分の心の目で感じてあげたいんです
そうして、実際のその人よりもほんの少し良く描いてあげる
太っている人はスリムにとか
そういうことだけでなく、ほんの少し明るい色を使ってあげるんです
専門的に勉強したわけでもない僕が言うのもおこがましいんですが
僕が描いた絵を見て、ほんの少し元気を出して欲しいんです
頑張って仕事をしよう
勇気を出して恋愛をしてみよう
人生は…悪いことばかりじゃない
今の話、あいつは単純だから本気で感動しちまったようだが
俺には…あんたの懺悔に聞こえたよ

少しでも多くの人に生きる希望を与えたいと望む星野…
それがかつて犯罪者として生きてきた星野の贖罪。

信じなきゃいけなかったんだよ
愛してるんなら、不安なんかに負けてちゃだめなんだよ
オルフェウスの話ですね、まるで
愛って信じることなのに…
俺も昔、大事な人を信じなかった
今思うとしかし、愛ってのは信じることですらないのかもしれん
愛ってのはただ、疑わないことだ

ハローベイビー
泣かないで
偽物の愛をつかまされたら
僕がホントのにかえてあげるよ

過去に男に騙され続けて来た留美が、ようやく見つけたと思った幸せ。
しかし、疑い始めたことから星野に対する不信感は高まり、その愛を失った。
愛する人を信じることとは…?

以下、当サイト掲示板の投稿より抜粋

信じることと疑わないこと。
信じることって自分に相手を信じ込ませている感じで、自分のことばかり考えてる感じがするけど、
疑わないことは、相手のことをちゃんと考えてあげていると思う。

本当の愛ってのは、疑わないことじゃなく、疑われた後にその疑った恋人を許すことなんじゃないかって…。
だから線路の上の星野は、留美を許しながら死んでいったんだと思う。
あの微笑みは、「君を許すよ」って言ってたんじゃないかな…。

星野はなぜ微笑んだのだろうか?赦免という取り方もあるのだろうけれど。
死に際し、星野の中にあった感情はある種の諦観と感謝であったのではないだろうか。
星野にとって留美はあくまでマリアであったのだと思う。
病院で出会った女性によって命と心を得、同じ顔を持つ留美によって命を召される。
星野は過去に多くの人を傷つけて来たのである。
その因果応報を感じても不思議はない。
むしろ、短い間でも自分に心を与えてくれた存在に「ありがとう」と言っていたのではないだろうか?
やはり救いがないのは留美だろう。
星野にとってはマリアであっても留美は人間なのだ。
当初、純粋さ故に人に騙され続けた女性というイメージがあったが、考えてみれば、偽物の愛を選び続け、自ら傷つき、偽物のエメラルドの為に、本物の愛を偽物と判断し、殺した。
愚かな救いようのない人間という見方ができる。

愛とは一方的なものだと僕は感じている。
だから、相手が自分を愛している事が疑わしくても、たとえ相手が自分を愛していなくても、人を愛し、愛し続ける事はありうると思う。
留美から星野への愛が本当にあったのなら、裏切りに対する復讐は存在しえないのではないだろうか。
相手が自分を愛してくれるから、相手が何かをしてくれるから、人は愛するのだろうか?
もし、相手の本当の姿が自分が見ていた姿と違った場合、それを見抜けなかった自分に責任はないのだろうか?
簡単に騙されてしまうほど、愛って軽いものなのだろうか?
自分が生きてゆくために、相手の能力、時間、心を自分の物にしようとする感情を少なくとも、僕は愛だとは思えない。

補足 (Fumi)

> 相手が自分を愛してくれるから、相手が何かをしてくれるから、人は愛するのだろうか?

なるほどです。確かに留美は見返りを求めていたと言える。
だから騙されたと勝手に思い込んだ星野を許せずに、線路に置き去りにした。
それとは逆に、唐突に裏切られても微笑んで留美を許し死んでいった星野。
疑って断罪するか、疑われても許すか。疑う愛と疑わない愛。
ラストシーンではその二人の愛が浮き彫りとなって、対比されているのでしょう。
そして百瀬の言う「疑わない愛」はラストシーンの星野のように、恋人からの見返りがなくてもたとえ裏切られても、愛し続けるものであると…。
それは限りなく困難なものであるけど…。

愛する相手を間違いなく理解することなど私たちには所詮できはしない。
留美が星野を疑ってしまったのは、当たり前の話。
それこそおとぎ話ではないのだから、真実の姿を見抜く目なんて、真実を写す鏡がないのと同じで、現実の私たちには与えられないものだと思う。
でも、他人の真実の姿を見抜けないからと言って、人を愛せないわけではない。
私たちは、それが真実なのかは分からなくても、相手が自分を愛していることを、信じることができる。
それは相手を信じるのではなく、自分を信じることだ。
だから人を愛することは、自分を信じること。
そう思っていればおそらく裏切られたって、相手を恨むことはないだろう。
自分を信じる=自己満足だと言われればそれまでだけど。
自分のため、だからこそ相手からの”見返り”なんかなくたって、人を愛することができるのだと思う。

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第6話 天才が愛した女

・広田 馨 - 藤原竜也
・真中 徹 - 徳山秀典
・広田 清美 - 南果歩
・真中 良美 - 手塚理美
・広田 勤 - 永島敏行
--
・馨の弾いた曲 … ベートーヴェン 「ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57 - 熱情(Appationate)」
・徹の弾いた曲 … ショパン 「スケルツォ第2番」

しょせん、生きとし生けるものは子孫繁栄という大前提にあるわけだ
それならば、すべてのメスはより良いDNAを持つオスと結ばれる戦略を立てていくんだ
そこにおいて、最も吸引力の高いのは才能だ
しかし、いい女でも、才能ある男を手に入れられずにババアになると、ランクを落とす
つまり、子供を扶養する財力
わかりやすく言うと、医者とか弁護士だ
さらにランクを下げると、せめてバカでも、ツラだけでもといいやつに…
その理論だと、僕は優秀じゃないから結婚できないのかもって
まぁそう悲観するな
俺が思うにな、女の遺伝子の中にはお前みたいな何の取り柄もない男に吸引される例もある
慈しむ母性、つまり慈愛だ

自己のDNAは、より良いDNAを持つ相手を探し求めてゆく。
しかし”慈愛”はその法則に合致せず、取り柄のない男をも包み込む。

恋をして愛に移行するのは難しいんだとつくづく思いました
恋は喜びや楽しさで、やがて終わってもアルバムに挿めるものだ
時々、懐かしく開くこともできます
だが愛は違う
愛は悲しみも刻み込むものだ
お互いの心に、思い出にできない傷をも刻み込む
共に生きて行くから
人はしょせん孤独な生き物だから
相手に深く傷を負わせ、また一方で包帯を持ち寄るという自虐的なことをする
その瞬間の繋がりが、永遠の安らぎに変わることが愛なんですね
愛が懐かしい思い出になるのは、相手が死んだ時だけだろうな
互いに疑うこともなく
けど、それじゃ広田聡は死ぬ時でさえ安らげなかった
あぁ、その一枚の手紙の悲劇だ
一方的に愛し、妻からは愛されていると思えなかっただろう
奥さんは取り返しのつかない罪を
あぁ、もしかしたらいずれその酬いが…

ハローベイビー
僕がみかん色の夕陽にとけても
僕のことを忘れないでね
どうか僕を忘れないで

以下、当サイト掲示板の投稿より抜粋

人は一人では寂しいから他人の心に触れたいと思う。
でも他人の心に触れることは、自分を傷つけることや相手を傷つけることを伴う。
傷つけ合いながら癒しあう。
その繰り返しが安らぎに変わるなら、その相手を愛する人と呼んでも良いのかも知れない。
人が人との間で互いの居場所を見つけあう。
そのものが愛ではないかもしれないけれど、そこに愛があるような気がする。
6話からそんなことを感じました。

今回のテーマは「嫉妬」なんでしょうか?
野亜は里美の婚約者に…
おとなしい清美は、活発で人気者の良美に…
勤は才能のある兄の聡に、それぞれ嫉妬してたんですよね。
嫉妬は自分自身をも傷つけてしまう。
愛に至る道は、傷つき傷つけられる棘の道なのか…?

「才能があれば愛されるのか?」
愛にまつわる伝統的な命題に対して答えを求めるかに思えたストーリーも、遥かにそれを超える場所で展開されたように感じられた。
本当のところ、それをちらつかせながら何を表現したかったのかは僕の知識と頭脳と感性を超えていた。
ただ、物語の終局を、愛に届かんとして自身を損なっても跳ぼうとした凡庸なるものの姿で終わらせた。
その姿が、ベートーヴェンやゴッホ、宮沢賢治といった本当は寂しくてたまらなかっただけの孤独な人だったかもしれない芸術家達と重なった。

今回のテーマは、遺伝子の仕掛ける「愛」だと思います。
天才は凡人を愛し、凡人は天才を愛する。
それは遺伝子の働きで必然的にそうなるだけで、意志的なものであるはずの本物の愛とは別物だ、と言いたかったんじゃないでしょうか。
今回、愛があったとしたらそれは良美の勤への慈愛と、馨の母親への愛だと思います。

補足 (Fumi)

なるほど。世紀末の詩の愛は遺伝子の作用とは異なるベクトルなのでしょう。
遺伝子的な観点から6話の人物像を整理してみます。
広田聡の才能に魅了され、その才能を愛した清美。それは清美の凡庸な遺伝子が天才である聡を指し示し、聡の遺伝子を愛しただけとも言える。
そして天才的な兄との比較に苦悩してきた広田勤。勤は遺伝子的な価値は劣るのだが、その勤を遺伝子戦略とは違うベクトルである「慈愛」で愛した良美。
遺伝子に振り回された清美と、遺伝子に惑わされずに愛した良美。
その二人が対比されている。愛ではないと否定されているのは前者。

そして現実逃避的に生きる勤。彼もまた、遺伝子的な価値に捕らわれている愚かな人物なのだろうか。
良美に愛されながらも、自分は自分だと居直ることができずに、兄と比較して自分の才能のなさに絶望し、良美の愛も素直に受け入れることができない。

百瀬 > 一方的に愛し、妻からは愛されていると思えなかっただろう

これは清美と聡とのことだけど、良美と勤の関係にも当てはまるのではないか?
そうすると、良美の愛も一方的なまま成就されないでいる。

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第7話 恋するコッペパン

・石田真紀子 - 桜井幸子
・石田 基 - 大江千里
・石田涼子 - 池脇千鶴

もし無人島に、愛する者と二人流されてしまったとしたならば
その相手が病気になり、自分より先に死んでしまうとわかった時、あなたならどうします
私も後を追って自殺してしまうかも
それは愛と呼べるでしょうか
孤独に耐えられない
だから死ぬ
それは愛とは呼べない
それなら、一人で生きるべきだと?
生への執着かもしれない
相手が死んでも自分は生きたい
あるいは、死ぬ勇気がない
いずれにしろ愛とは呼べない

相手が先に死に逝くとき
後を追うことも、心の中に留めて生きるということも、愛とは呼ばない
真実の愛とは、相手の死を認知しないということだ
なぜなら、それが唯一のものであるから、認めることは心が壊れるということだ
あのパン屋はそうではなかった
認めて、苦しんでいた
奥さんの真実の愛を受け止めようと必死でやっただけだ
亘、俺のおふくろは親父の死を認知した時、気がふれたよ
石田さんの愛は偽物だというんですか?
奥さんの気持ちこそ愛なんかじゃない
愛する人を苦しめるなんてそんなの本当の愛情じゃない
愛はもっと優しいはずだ
"涙が出るほど優しい気持ちになった"
あんたは石田さんの作ったコッペパンを食べてそう感じたんだろ
あんな綺麗な遺体を初めて見たんだ
いつもいつも大事に見つめ、パンをこねる時に流した涙が恋するパンを作ったんだ
それを偽物だなんて…
あんたの言う愛がいかれてるんだ
気がふれるのが愛だなんて
愛とは…努力することなんだ
先に死んだ人間は何の努力もないじゃないか
僕は思う
愛とは、本当に相手を愛するならば
生きることなんだ
生きて生きて、愛する人を看取り、一人残される悲しみを受けることなんだ
愛とは生きることなんだ

ハローベイビー
優しさって
無限に続く愚かなほどの優しさって
いつかは愛にたどり着くかな

愛する者の死、その圧倒的な絶望に対してどう向き合っていくかというのが7話のテーマ。
百瀬が出した結論は、愛する者の死を認めないこと。なぜならそれが唯一のものであるから、認めることは心が正常でいられないから。
逆に野亜の出した結論は、愛する者の死を見取り、孤独に耐えて生きていくこと。
それが7話のゲストに当てはまるだろうか。

おそらく真紀子には不安があった。二人で紡いできた愛、それが一方の死によって、その愛が消えてしまうのではないか、忘れ去られていくのではないかという不安。
だから真紀子は遺体の冷凍保存を望み、基も承知した。
基もまた、冷凍保存が間違ったことであることを自覚しながらも、妻の喪失という孤独に耐えることができなかった。
真紀子の不安と基の孤独がそうさせた。
だけど、不安や孤独にさいなまれて、すでに魂の抜けた肉体に固執してしまうのは愛じゃないってことなのかなぁ。
本当の愛ならば、孤独に負けずに相手の死を受け入れることができ、そして自分の中に相手は生き続けると…。

以下、当サイト掲示板の投稿より抜粋

愛する人の死を見取り、後の孤独に耐えること!
野亜の台詞が、今までの中で一番シンプルで分かりやすくてその分胸に響いた…。
残された相手の事を思いやり、愛する人より長く生き、その後の孤独に耐えること。
愛することは生きること!
愛とはやさしさ…野亜らしい台詞でしたね。

愛とは努力すること、生きて 生きて、相手の死を見取り、その悲しみを受け入れて、なお生きる。
僕もこの意見に賛成です。恋の叶うコッペパンを作るほどの愛、いいですね。

「愛」がなくても人は生きていけるでしょうか?
私の答えは「YES」。
「生きる」ということは全ての変わりゆくものを見届けていくことだと私は思う。
永遠に変わらないものを「愛」だというならば、「愛」と「生きる」ことは対局に位置するのではないかしら? つまり「生」よりは「死」に属するもの・・・。
「愛」と「生きること」を結びつけるためには。
「変わってゆく」全てのものを許すことができなくては。
そんな強さを持てる人は多分少ない。
だから「愛」は時として死と結びつく。
でも「愛」がなくても生きてはいける。
そうして「生きていく」ことを私は否定しないでいたい。
たとえ、それが「愛」から遠くても。

愛が無くても生物として生存し続ける事はできると思います。
ただ、それは死への恐怖から、ただ死ねないといった感じでしょうか。
愛が無いと、降りかかってくるあらゆる困難に立ち向かう気力が無くなってしまうように感じます。

ただ、愛されなくてもあまり辛くはありませんが、愛すべき対象が無いのは耐え難いです。
別に人でなくってもよいのです。美しい夕焼けでも、一輪の花でも良い。ぽっかりと浮かぶ白い雲でも良い。
何か、自分の持てる全てに変えても、守るべき何かが欲しいと感じます。
そんなところが、現時点での実感です。

愛し合う事はできなくても、愛する事はできる。
そういう者も、現実には存在するのです。
そんな生き物でも消えてしまうのは恐いのです。

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第8話 恋し森のクマさん

・影山 宗一 (47歳) - 田中健
・影山 睦美 (20歳) - 持田真樹
・影山 歩美 (42歳) - あづみれいか
・影山 良希 (17歳) - 島田亮・島田潤

お前たちの中に感性のあるやつはいるか!
生きにくい世の中、いつも違うレベルだが存在する
感性が豊かであるが故に、はぐれる人間がいるということだ
矛盾や抑圧から不登校になる子供達は俺は認める
いつか目が覚め、世の中を救うからだ
しかしこいつのように、わかりやすくグレるのは、頭の悪いバカか親のしつけの問題だ
縁日の柔らかいモナカだ
その心は、すぐ溶けて金魚も掬えない

<影山>
野亜くん、親子といえどもね、努力が必要なんだよ
初めから愛情で繋がっていると考えるのは、幻想なんだ
お互いの歴史の中に介在し、ゆっくりと育んでいくものなんだよ
君も家族を持ちたまえ
いいかね、自分だけのために生きる人生は、いつか必ず後悔をするんだ
結果、誰にも影響を与えていないってことに気付くんだよ
スポーツでも学問でも、芸術でもそうだ
他人に影響を与えていると思うのは、うぬぼれに過ぎない
世の中がもっともっと荒れた時代が来ると、それらは何の役にも立たず、ただただ本質的なものだけが残る
食べて、眠り、愛するということだけだ
家族だよ
しょせん最後は家族なんだ
一人ぼっちで死んでいくというのは、出来の悪い映画的なダンディズムに過ぎない

私の家族がクローンだとして、それが何か問題があるのだろうか
わかりやすく君に置き換えてみたまえ
恋人はいるかね
片思いの人は…彼女は暮れに結婚してしまうんです
その人のクローンが欲しいとは思わないかね
自分の気持ちを受け入れてくれない人より、すぐそばで理解してくれる同じ人が手に入るとしたら
けどそれは彼女ではないですから
どうしてそんなことが言えるんだね
クローンはロボットではない
感情もあるんだよ
君の思う通りに、情緒も育てていけるんだ
それでも彼女ではないと言うんなら
君はその片思いの彼女の、何を知っていると言うのかな
心の全てを理解し、愛しているとでもうぬぼれるつもりかね
事故に遭い、心身を喪失した彼女と、まるで別人の肉体になった彼女
どちらを愛せるかと思うかね
前者のはずだ
別人の肉体など、意味をなさないからだ
君が思っているのは、姿形に過ぎないのだよ
まぁしょせん人間の愛などというものは、そういうことなんだ
だったら、自分だけを見つめてくれるクローンを愛せるはずだ
自分の意志を殺して、相手の自我に合わせる必要もない
教育によっては決して心変わりもしない
無限の愛を提供してくれるとしたら、どうなんだ
現代の家族に置き換えてみたまえ
みんなとても疲れた顔をし、安らげる場所さえもない
それぞれが自意識のみを押し付けて
お互いにそれを決して理解しようともしない
いつも苛立ちと諦めの中で、予定調和を探すだけだ
繋がりなどは、表面的なものに過ぎないのだよ
エセヒューマニズムのモラルで否定をするが
人間は最後は、自己愛でしかないのだよ
それに向けてくれるクローンの愛があれば、犯罪も消える
全ての人間の心の病は、全て解決できるんだよ

家庭が壊れたことで自分も壊れたんだ
そして俺もまた、お前よりむしろ奴の叫びに洗脳された
愛の究極がしょせん自己愛に根ざしているという論理には、つまらんモラルでの反論しかできない
俺もまた影山のように思うのかもしれん
クローンを愛せると
悲しみではなく、むしろ、安らぎの中で
だが、お前は生理的な嫌悪を感じた
婚約者のいる里美ちゃんは、お前に振り向く可能性は薄い
彼女のクローンが欲しいとは思わんか
ロボットではないんだ
天使の様に見えた睦美のように、生身の肉体だ
お前だけを愛する里美ちゃんだ

<良希>
ガキの頃からそうだった
親父は俺達に見向きもしなかった
悪さをしても、失望したような眼差しで他人のように黙殺された
殴られてもいい、実感が欲しかったのに
姉ちゃんは好きでもない男の子供を孕んで自殺した
俺達に親父はいなかった
愛されてはいなかったのに
親父は愛してると言った
俺やお袋や姉ちゃんに、似たバケモノを…

人間の愛はしょせん自己愛に根ざしているのかもしれない
僕も結局は、自分が一番かわいいのかもしれない
だけど僕が好きなのは、あなたを好きな自分なんだ
振り向いてくれなくたっていい
僕が想っているのは、あなたがこの宇宙で唯一のあなただからなんだ
この目を潰しても、あなたは宇宙で一人だけなんだ

ハローベイビー
心が壊れてしまうのは
いつか君が僕だったからさ
そして僕が君だったからさ

研究に没頭するあまり、崩壊してしまった家族。
その代わりに、自分の自己愛に向けて無限の愛を提供してくれる、理想のクローン家族を造る影山…。
クローンを想定するとどうしても生理的な嫌悪感が生じてしまうけれど、それは自己愛を満たしてくれる存在という象徴に過ぎない。つまり、ただ自分だけを愛してくれる、「自分の思い通り」になる存在。

恋人でも家族でも、その「愛」は大概自分の思い通りにはならない。
自分が真剣に愛しても、相手が愛し返してくれるとは限らない。思惑通りにはならない。期待は裏切られる。
その苛立ちが、自分の思い通りになる存在、自分だけを愛し続けてくれる存在を欲しいと思わせる。

ラストシーン、意外にも景山は笑顔で家族と共に生き延びた。7話までの悲観的・悲劇的なラストシーンとは少し違う。
しかし景山の愛が肯定されているわけではないだろう。
景山のように、ただ「自分の思い通り」になる存在が欲しい以上は、そこにしがみついている間は、決して愛には辿り着けないのだと、景山を生き延びらせたことで逆説的に愛の不在を証明しているのではないだろうか。

それに対する野亜の反論は「振り向いてくれなくてもいい」というもの。
自己愛に根差していることを認めつつ、しかしそのベクトルに収斂されることを拒否し続ける強い意志。
誰かを愛し、愛し返してくれなくても、そしてまた自分の意志と相手の意思に大きな隔たりがっても、決して嘆かず、むしろ愛を与え続けることができる。地道な努力を重ねて、ゆっくりと育んでいくもの。それが本当の愛だと。

以下、当サイト掲示板の投稿より抜粋

8話は「自己愛」がテーマであったことをもう一度確認したいと思います。
宗一から究極の愛としての「自己愛」が提示され、その手段としての「クローン人間」、そしてクローンを愛せるかもしれないと言った百瀬と、そうではないと思う野亜との対比。
所詮、愛とは自己愛かもしれない。でも、相手の自我を否定して自分の言うことを聞かせる、そのような磁場に「愛」はあるのでしょうか。

先週の話は、今までの話の中で一番さみしい気が私はしました。
だって、考えてみてください。
もしも自分の父親が、身勝手な子供や愛情が冷めた妻など「現実」の家族を捨てて、山奥でクローン家族との「作り物」の幸せな家庭生活を選んだとしたら。なんだかものすごく悲しい気がします。

現実では持ち得なかったものを、ああいう形で手に入れようとした切なさを思うと、あの人の行為を「NO」と否定し去ることは出来ないです。
あの人はきっと、何もかも諦めてしまったのでしょう。
そして自己愛に生きる決意をした。それは幻想に生きることを選んだということなのかもしれません。
自己愛なんて幻想みたいなものとわたしは思います。幻想の中の完璧な自分を愛するのが自己愛。

今回、クローンを用いたのはあくまで自己愛をテーマとする為の道具としてなのだと思います。
現実的にクローンが存在するならばやはり双子の兄弟の様なものなんでしょうけど、ここでは、あくまで一個の人格を持った人間ではなく、人間もどきとして扱われていると思います。
つまり、影山の新しい家族ではなく、影山の思い通りになる、心の中の理想の家族像そのもの。
影山も努力は必要だとは言っていますが、クローンが自分の予期せぬ存在になってゆく事を許す努力では無いでしょう。
野亜は、明日に絶望していないので、それに違和感を感じる。
でも教授は、自分の歴史に絶望してる上に明日が無いので、自分の思い通りになる存在に否定しがたいものを感じるのでしょう。

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第9話 僕の名前を当てて

・謎の男 - 大沢たかお
・ナオ - 坂井真紀(ミアとの2役)

<謎の男>
愛における喜びについて語ろう
喜びとはすなわち生まれるということ
込み上げる感情の発芽であります
しかし一方で決して永続性はない
ただただ、その瞬間におけるプラスの感情であり
つまりはそっからマイナスのエネルギーがなだらかに広がる
あるいは、急速に落ちてくんです
たとえば子供が産まれる
その瞬間に対する喜びはしだいに消え失せる
自分の老いの確認、経済的不安
成長する子供は決して期待にそぐわない
その緩やかな絶望
父性や母性は永続性があるじゃないか
父性や母性とはいったい何か
数学的、物理的に質量が測られるものではない
当たり前だ
世の中に当たり前のことなどありません
すべて原因があり結果がある
愛における喜びとは原因であり結果への誘導
絶望への過程を作る
何を言いたいのかさっぱりわからない
否定しているんだろう
喜びという感情などいらないと
その通りです
喜びなどなければ、絶望しない
人間の感情の中に喜びなどいらないんです
あらゆる犯罪は喜びに発動される
自分の喜びのために
あるいは他人を喜ばすために、人間は犯罪を犯す
喜びを貪るお前たちは罪悪の源だ

愛における怒りについて語ろう
野亜くん、僕が彼女をレイプしたらどうします?
殺すよ、お前を探し出して必ず
勇ましい限りだが僕の質問はそういう意味じゃありません
たとえば僕があなたに殺されたとして、その後のことです
君は彼女がレイプされたとして、その前と同じように愛せるかな
当たり前だそんなこと
彼女のせいじゃない、いたわって前より優しくするさ
表面的にはね
モーゼさんどうです、以前と同じように愛せますか
きっと無理だな、怒りが形を変える
素晴らしい、その通りですよ
野亜くん、先ほど君は怒りを覚えた
彼女が陵辱されることを想像して、我を忘れるほどの怒りを
怒りは確実に愛の形を変質させる
理屈では分かっていても、怒りが変質させた愛情は反比例のベクトルを目指すことになる
すなわち、彼女に対する生理的嫌悪です
優しくするといいましたね、いたわるとも
それは嫌悪の裏返しだ
自分の感情を押し殺すことになる
しかし彼女の方はそれ見抜きますよ
そして彼女は姿を消すでしょう、君の前から
野亜くん、その時君は内心ほっとするんですよ
わかってもらえましたでしょうか
人間の感情の中に怒りというものは必要ないんだということを
怒りは憎しみに変わり、愛する者をも恨んでいく
そんなもの、無くなればいいのに
そんなものが無ければ、愛は永遠だったかもしれないのに…

愛における哀しみについて話しましょう
つまりは、哀しみとは人間の持つ業そのものです
生きる者として、死なねばならない圧倒的な絶望から派生している
友人や恋人は、自分が死んだら涙を流すだろうか
流しても、その涙の質量はいかなるものか
時間の経過により、その存在自体もいずれ忘れられていくものならば
今生きてる自分になんの理由があるんでしょう
子供を残すため?
しかし、子供の未来など自分の消えていく過去を慰めたりするでしょうか
愛する者たちはいずれ、自分を跡形もなく忘れる
それならば、愛することに何の意味があるのでしょう
悲しみとは虚しさを生むものです
そして、虚無感は今の時代に集約されている
この世紀末に…

愛における楽しみについて話しましょう
楽しみとはすなわち育むこと
人によって細く、あるいは太く持続しようとする努力なき欲望
絶対的なものはつまりは瞬間的なものであるはずなのに
欲望ゆえに継続しようとする感情
しかも徐々に加速し、欲望がまた欲望を呼ぶ
いいですか
生き物はすべて与えられることだけを甘受すべきであるはずなのに
人間は与えようともする
しかし、その与えるという行為は一見聞こえはいいが
決して自分の持つ何かを与えることではない
つまり、他から搾取しようとするものです
与えられ…与え、そして不足し…さらに欲求し
人間は、自分たちの住むこの星さえもむさぼり尽くしていく
ただ楽しむために
愛における楽しみなど人間に必要ないものなんです
楽しむという感情がなければ
人間は堕落することがなくなる
あなたは喜怒哀楽を否定するんですね
人間の後天的感情すべてと言っていいでしょう
愛とは、根源的なものなんです
生まれながらに持っているものなんです
それをいつしか人間は、喜び、怒り、哀しみ、そして楽しむことで歪め失う

愛とは恋のように思い出にはできず
失えば誰かを好きになる回路すら奪われるもので
瞬間にして永遠で
疑わず、諦めず
そして喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、救われるものだと
恋する人と出会い長い時間をかけて魂が寄り添うことなんだ
それが愛なんだ
誰もが手に入れられるものじゃない
まして生まれながら持ってるものなんかじゃない
お前の愛は偽物だ

ハローベイビー
不幸の手紙は僕が破ろう
この世に終わりなんかないんだよ
君を愛する僕がいるから

確かノストラダムス自身は滅びると予言したわけではないと思います。
終末の考え方も、西洋人と日本人では違うでしょうし。
(日本人で時間が止まってしまうと考える人は少ないでしょう)
我々自身が人類が滅びると解釈しているのだと思います。
そしてその解釈の裏にはどこかで終末を望んでいる部分があるのではないでしょうか?
どこかで、僕たちは、ひどい場所に来てしまったのだと考えているのではないでしょうか?
どこかで世界がRESETされる事を望んでいるのではないでしょうか?
そんな気がします。

究極的な占い師ですね、ノストラダムスは。
将来の夢とか、将来の不安とか、見えない抑圧に対し、希望であれ、絶望であれ、何か姿形あるものが欲しいという人間の弱さでしょう。

どんなに自分でも、さらに人からも「すばらしい人生を過ごしている」と、思い思われていても、実は、あそこでは、あの時は、との悔いは残り、どこかでもう一度やり直したい、と感じているはず。
それは当たり前の感情なのに、あたかも見すかされ、さらけだされ、罪や罰として示唆されてしまうから、なのでは。
ノストラダムスに欺かれるとするならば、です。

破滅を望むのは私達自身であること。
でも、私達は「破滅」を望んでいるわけでは本当はなく、誰の心の中にもある「不安」を、頭が良く、他人を惑わすことを「ゲーム」として考え、自身は「虚無感」という意識に支配されている「誰か」が「終末思想」にすり替えているのかもしれない。
そういう「誰か」はこの現代にもいそうです。

9話は表面的にはノストラダムスの予言の否定なのだけど、その根底で語られているのは謎の男の「愛」です。
従ってここでは「謎の男」と「ノストラダムス」は切り離して、「謎の男の愛」について考えてみます。

その謎の男の愛とはつまり、愛に敗れた者が陥りやすい虚無感(ニヒリズム)です。
愛に敗れると、愛が得られないと、ああしょせん愛なんてないんだ!と思いたくなる。自己正当化のプロセスとして。
謎の男もそういう虚無感に陥った。その結果、究極的な愛の論理を生み出した。

それはつまり、
喜びたいという期待があるから、喜べない時は絶望してしまう。
人間は怒ることで、愛した者であっても憎しみ恨む。
圧倒的な哀しみに直面すると、すべてが虚しく思えてしまう。
楽しもうとするから、欲望が肥大して愛を見失う。

だったら初めからそんな感情なくしてしまえば、愛を見失うこともないと。

その理論はある意味で正しいのだけど、やはりそれは究極的すぎる。
たとえば一番目、喜びという感情を失くしてしまったら、絶望することがなくなる反面、喜びもなくなってしまう。
つまり喜怒哀楽を忌避すると、ほとんど人間ではなくなってしまうでしょう。
確かに謎の男の言うように、喜怒哀楽は諸刃の剣です。そこには「愛」を失わせしてしまう要因を常に含んでいる。
だから謎の男の愛というのは、「愛を失いたくない」がゆえの理論であり、愛が失われてしまう要因を徹底的に排除しようとした。つまり謎の男は誰よりも愛が永遠であって欲しかったのでしょう。

それに対する野亜の反論は、愛とはそういう喜怒哀楽を分かち合っていくものなんだ、ということでした。
喜怒哀楽の危険性を認知しながらも、愛はそれに負けず、それと共に生きていくことができるものだと。
つまり9話はニヒリズム(謎の男) VS ロマンチシズム(野亜)という対比だろうか。
当然ながら、虚無感に陥らないためには希望や理想が必要だから。

そして最終的に嫉妬だということでナオに断罪された。
自分が愛を得られないから、そんな自分を正当化したいから、自分の愛こそが正しいと主張し、他の人の愛は間違いだと否定したい。そこにあるのは嫉妬と自己正当化です。

余談ですが、そもそも世紀末の詩は「愛はない」ことを証明していく物語構造なので、全編にニヒリズムが漂っているとも言える。
そのニヒリズムの化身であり、最終ボスとも言える存在が9話の謎の男ではないか。
つまり野島氏の「愛はない」という虚無感を究極的に集約させたのが謎の男、そしてそれを自ら打ち砕き、乗り越えようとした話とも見れます。

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第10話 20年間待った女

・大島 武郎 - 杉浦直樹
・牧野 冬子 - 永島暎子

<大島>
不思議だな 私はこの大学の学長なのに、こんなところしか居場所がない
いや、大学だけじゃない
家に帰ってもそうだ
妻はにわかに着飾り始め
娘は結婚相手を選ぶようになり
息子は金がかかる留学をせがむ
それぞれが自己顕示欲を増幅させていく
私が学長になったということでだ
以前のささやかな団欒は今はない
いや、それは私の穿った見方なのかもしれない
私自身もまた、知らない間に周囲の人間を見下すようになってしまったんだろう
この私がだ
学者であることを誇りにしていた私が
人間関係の頂点に立たされて
いつか自分を見失ってしまった
力とは孤独を連れてくる
友人をも、社会でのランクづけで見下してしまうんだ
どこにスパイがいるのかと、猜疑心の固まりだ
私は裸の王様になってしまった
哀れな、老いた王様だ
あぁ百瀬か
なんて不思議なことだろうか
学長に上り詰めた孤独な勝利者の私と
敗残者となり、死期すら近い百瀬
まるで違う生き方を強いられている私たち二人が
最後に求めているものは、まるで同じものなんだ
あまりに変わってしまう人間の時の流れの中で、たったひとつ変わらぬもの
ただそこに、動かずにそこにある
ある?
いや、そんなものはきっと存在しないことも、私たちは知っている
夢と言ってもいいだろう
それは…女の愛だ

私、亘さんに怒られたんです
男と女は違うんだって
確かにそうかもしれません
女は…好きな人ができると前の人のことはあまり思い出すことはありませんから
だからたくましく生きられるんです
忘れていき、今を生きないと母親にはなれない
男の人も父親になります
極論すると、父親はいらないのかもしれません
弱い生き物である男が、子供たちの前で強さを見せていくのは大変ですから
失望させることの方が大きい
いや、弱さを見せて、例えば娘には母性の発芽を促すということも必要なのかもしれませんが
そんなに弱いですか?男の人は
そんなに弱いですよ、男は
とりわけ私は弱い

思い出ですか?
えぇ…そうね
単なる恋だったんですか?古いアルバムに挿んである
教授は愛していたと言いました
唯一愛した人だって、僕に言ったんです
それが?
それがって…
確かに教授は結婚しました
あなたを捨てて新しい恋に
でもそれは単なる恋だったんです
愛に辿り着くことはなかったんです
なぜならそれは、もう愛した人がいたからだったんです
愛は恋とは違う
本当の愛があったら…もう誰も好きにならない
なれないのが愛だからです
教授は、それに気づいたんです

ハローベイビー
いつの間にか眠っていたね
それがチッポケな夜明けでも
君の側で目覚めたいのさ

教授と冬子の間に愛はあったのだろう。
かつて「愛」に辿り着いたがゆえに、相手を入れ替えてももう二度と「愛」には辿り着けてなかった二人がそこにはいる。
でも皮肉なことに二人は再会することができない。

百瀬は一時的な欲望に惑わされて愛を見失ったわけで、世紀末の詩のパターンからしたら否定されている愛の形のはず。
それでも、冬子は20年間待ち続けた。
10話は百瀬の人間的な弱さが強調されていたし、冬子の存在というのは「高校教師」の繭や「この世の果て」のまりあの延長線上にある、どうしようもなく弱い男なのにそれでも見捨てず想い続ける母性的な愛情だろう。

しかし大島の言うように、それは「夢と言ってもいい」男性としての理想論である。
10話は愛の否定ではなくて、「夢」を描きたかったんじゃないかなぁと。
だから冬子の再婚うんぬんが明確にされなかったのかな。
20年間待ち続けたというのが、実は車内の男たちの勝手な妄想に過ぎないかもしれないという構造が、この10話が男性側からの理想論であるという構造に符号している。

10話に愛はあった。しかしそれは圧倒的なリアリティで迫る愛ではなくて、どこか憶測の中の愛でしかないことがやるせない…。愛=幻想のようなものだというテーゼこそ、リアリティなのかもしれないが。

なぜ冬子は、「愛はなかった…」って言ったのか?ずーっと考えてました。
たぶん冬子にとって、夏夫は過去の人じゃなく、今現在の人だったんだって…
思い出の人なんかじゃないから、「愛はなかった」って言ったんじゃないかな。
うまく言えないけど…冬子には、時間はあの時で止まったままだったんだと思う。
夏夫に首をしめられたあの時から、ずっと止まってたんだってね…

冬子は夏夫を愛してはいるんです。
でも、自分が夏夫を愛し続けていたことは彼女の中で自己完結しちゃってるんだと思うんです。
昔、悲しんだことも恨んだこともあったけど、それはもういい。
今は「愛していたこと」それだけ。
でも今、もう一度会ったら、恨んでいたことや、悲しかったこと、思い出しちゃうじゃないですか。
もうそんな思い、たくさんですよ。
本気で愛していたからこそ。恨みも悲しみも逆に言えば、彼女の中で過去にならない。
でも、相手に何も求めないことで、そういう思いには封印してきた。
ただ、愛していたことだけが残ってるんです。
今、夏夫に会ったら、封印してきた思いが解かれちゃう。
でも、責めることはもうできない。
それなら。冬子さんは言ってました。お芝居でもいいのかって。
でも、そうじゃないんでしょ?
本気で好きだったからこそ、ただ慰めのために「ずっと愛してた…」だけ言うのは偽善でしかないんですよ。

実感では分かりませんが、男と女の愛にどうやら違いはあると聞きました。
でもそれは、そういう特性を我々の体が持っていると言う事で、絶対的な違いではないと思います。
母系社会か父系社会かでも変わってくるでしょうし、人は本能のぶっ壊れた猿ですから。
教授は今も愛されているとは思ってはいなかったと思います。
どこかで期待する気持ちはあったとしても、冬子に抱かれながら死ねるとは思っていなかったと思います。
理屈で「この世に愛は確かに存在する」と決論づける事はできても、そのことを実感するのは難しい。
だから、自分が消えてしまう前に、確かめたかっただけなのだと思います。
自分が踏み損ねた道の彼方に、愛への可能性があった事を、実感しながら死にたかったのだと思います。

恐らく教授自身、会ったところでどうしたよいのかは解らなかったのではないでしょうか。
ただ会いたいと言う衝動があるだけで。
だから、千秋の存在を認識する事で十分だったのだとおもいます。
教授自身は愛に辿り着けないと認識していたのではないかと感じました。
でも、個人的には冬子は教授を愛し続けていると感じられました。
自分を捨てた男との間にできた娘を育ててきたとすれば、その感情はとても複雑でしょうけれど。

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最終話 LOVE

・三島麗美 (28歳) - ジョイ・ウォン

鏡は愛の敵と言えるだろう
自己愛を増幅するからだ
自分を好きな人間は、他人も愛せるとよく道徳の時間で言いますよ
表面的にはそうだろう
しかし、本質は違う
自分を愛し過ぎると他人を愛さない?
鏡の照り返しのように、したことを返せと要求するようになる
自分を愛するがゆえに、いつも不平や不満がある
恋を何度も繰り返すだけですね
恋というと聞こえはいいがな
性的な吸引に過ぎない
むろん、入口は動物である以上、DNAのアンテナには逆らえない
入口がまずそこにあるのは仕方ない
時の流れに負けてしまう?
そうだ愛とは熟練の鍛冶屋の打つ名刀のようなものだ
相手を変えて作れるものじゃない
一人の人と喜び、怒り、哀しみ、そして楽しむ、時の大いなる流れ
しかし、結婚していたずらに時が過ぎれば、たどり着けるというもんじゃない
既婚女性の7割は、仮に生まれ変わったら別の男性と暮らしたいというデータがあるそうです
心貧しき女だからだ
いやなら別れればいいのに、生活や子供などを重視する
子供を重視するのはいけませんか?
夫や妻よりも子供だというのは、逃避にすぎない
愛のない明らかな証拠だろう
相手が死に、生活に困れば、あるいは孤独に耐えられず再婚する
鏡をたくさん見る人間に多いはずだ

人間よ、自分と他人との区別をやめよ
わがままな子供を叱るのに、自分の子供も他人の子供も関係ない
手を差し伸べる若者に、年寄り扱いするなと怒る老人たちは哀しい生き物だ
愛とは極限であり、ほとんどの人間が手に入れられずに死んでいく
俺もまた…
そんなことないですよ
教授は待ってる女の人がいたじゃないですか
それすらつきつめると愛と呼べるのかわからない
いや、愛と呼べば、そこから逃げた自分はより哀れだからだ
愛する人がいて、食べるものがあり、眠る場所がある
これだけで幸福が得られるはずなのに
誰もが愛し愛されることにたどり着かない
恋を繰り返し、魂を汚し、自己愛に帰結する
自分を守るために他人を悪く言い、傷つけ、いつも被害者意識があり、その総意として戦争を起こす
愛はあるのか…存在するのか…

麗美、僕の愛する麗美…
ときどき君のそばを離れる僕を、どうか許して欲しいんだ
愛する麗美
君を愛するゆえに、僕は時に違う景色を見つめなければならない
僕がとどまることは、いつか愛そのものすら停滞させてしまうものだから
ああしかし一方で僕は、この肉体をなくしてしまうかもしれない
この山の頂きに抱かれて
それでも僕の魂は決して消えることはないだろう
いかに離れていても決して
麗美、僕の愛する人
僕の心をいつか、いつかわかって欲しい
たとえ僕が死んでも、魂が君に伝えてくれるはずだ
そして君もまた、僕だけのアンテナの中で捕らえてくれるだろう
僕は君のために、そして僕たちのために、時に離れる必要がある
どんなに今愛していても、その愛を守るために…

僕はもうすぐ肉体を死なせてしまうだろう
しかし、僕のことを許し、理解し、そして永遠に愛して欲しい
僕もまた君をそうするだろう
この肉体が死んでなお…
なぜなら愛とは…
唯一の真実の愛とは、互いの愛を確かめ合うための…
愛とは…冒険だから

ハローベイビー
愛って風船の形をしてるんだ
プーッと息を吹きこんで
苦しくなったら交替しよう
割れないようにキュッと結ぼう
赤、青、黄色それぞれに
色鮮やかな愛が上がるよ
時には風に流されよう
時には雨に打たれよう
いつか降りゆく場所さえも
僕と君は一緒なんだね

なぜ里美は草間と結婚したのだろう。
里美は現実に生きた女性だった。野亜との「愛」というロマンチシズムに、結局は婚約破棄をしてまで人生を投げ打つことができなかった。
だからと言って里美は別に悪役というわけではない。里美の感覚というのはごく普通の感覚だと思うから。
自分が教師であり、しかも同僚と結婚するのに、結婚式場に突然に現れた男と逃げ出すということは、すべてを投げ打つということだ。普通はそんなことできない。
「物語」ならよくあることかもしれないけど、やはりこのドラマは圧倒的にリアリティを持っている。

つまり最終話ではモラルという観点から里美は「愛ではない」ことが描かれているんじゃないかなぁ。
世間体とか常識とかのモラルに縛られたことで、(野亜との)愛に身を投じることができなかった。
モラルというのはあまり自覚的なものじゃないし、何事にも自然についてまわるものだ。 自覚的になれないぐらいに染み付いてしまっているものだからこそ、このドラマにおける愛=ロマンチシズムに身を投げ打つことが難しい。大人になればなるほど、愛なんかよりも生活やなんかが自然に優先されてしまう。
人はモラルを重視するがゆえに愛に辿り着けない、というテーゼ。

そうではなくて、もし「野亜への想い」を胸に抱きつつ草間との結婚を決意したのだとしたら、恋愛と結婚は別だという愛にとっては中途半端なテーゼに行き着くし、それは世紀末の詩らしくないからありえないだろう。

あの人たちはまだ、「愛」を探しつづけて行くんですね。
教授の言葉も、「答え」というよりは、これからも探して行くための地固め、といった感じを受けました。

僕は野亜の自殺はありえないと思います。
なぜなら愛は生きる事、そして冒険する事。
あれから野亜は冒険しに行ったのではないでしょうか?新しい愛を求めて。

愛とは何かという問いに明確な答えを出すことは、やはり大それたことであったように思えます。
そして野島氏はそのことを十分認識していたようにも思えました。
だから、この物語の結末をどのようにするのかすごく難しいであろうことは予想していました。
正直、物語の結末にある種の真理に到達した時の爽快感は感じられませんでした。
でも、それで良かったのだと思います。
亘が里美をさらってしまえば、それはそれで解りやすい結末で、亘が詩人でなかったら、ただ、傷から回復するだけの人間であったなら、それもありでしょうが、時の流れを切り裂いて、その断面を見せつける詩人としての力はやがて失われるでしょう。
多くの疑問、多くの謎は残されましたが、新しい扉を開くために、亘はそうするしかなかったと思います。
そして、本当の答えは皆がそれぞれ探す物なのだと思います。

愛とは冒険。
互いの愛を確かめ合うための冒険
そこに愛はあるのかと問い掛けること。
探し合うことそのもの。
人と人の間に探すことそのための冒険。
言ってしまえば、愛とは何かそれを人の間に探すこと、その心それ自体が愛。
そう言っていたように感じられました。

前の話から亘の憑依現象が気になっていました。他人の心を我が心とする。
黄色い潜水艦を亘は小さいころからの夢といいました。
また、観覧車の女に死んだ恋人の心を唄いました。
野島氏は結局、愛とは何かという問いをもっとも個人的な方法で処理をしたように感じられます。
それがもっとも野島氏にとってリアルな方法だったのかもしれません。
それは愛というよりも、愛とは何かと問われた時の詩人の生き方であったように感じられます。
詩人というのは結局のところ生命維持の労働に関係のない者なのです。
その詩人の存在意義を垣間見せたように感じました。

里美先生は、きっと野亜に対して恋心は抱いていたと思います。
けれど、結婚式の真っ最中に花嫁をさらいに来る野亜のことを待つ彼女は、ある意味エゴイストなのではないでしょうか。
愛が冒険ならば、あの誓いの場面で「誓いません」というなり、飛び出していくなりできたはずです。
そして野亜と共に冒険に出ていたでしょう。
つまり、女性にありがちな、受け身の姿勢だったのではないでしょうか。
後になって、もし後悔しても、いくらでも言い訳ができます。
「わたしは自分の意思で逃げたのではない、彼がわたしを連れ去ったのです」と。
きっと彼女にはモラルを重視してしまうことから逃れられなかったのだと思います。
往々にして殆どの人がそうしてしまうように。
そして彼女もまた、生まれ変わったら別の人と結婚したいと思うのではないでしょうか。
ある種の諦めと共に発した「誓います」の言葉を恨みつつ。
野亜はそれに気付いていたのでしょうか。
ただ漠然とまた愛を探しに出かけていったような気がします。
「愛の形が見たいですか」そう問いかけた野亜は、里美先生に「愛の形」は見せたけれど、それが彼女に対するものかどうかはわかりません。

野島さんは、「人生はドラマみたいにかっこいいものじゃない」ってことをすごく言ってたような気がします。
結婚式で花嫁を連れ去られた花婿の格好悪さから始まって、結局ヒーローにならない男、諦める女、海の上であんなに格好いい事を言っていた教授がトイレでブラジャー片手に死んでゆく様。
普通のドラマとして終わらないところが「やるな」と思わせるところです。

毎度毎度、見ている我々に現在の自分や、社会の在り方についていろいろ考えさせてくれるから、野島氏のドラマは良質で、クセになってしまうのでしょう。
他のドラマと違い、明確で、安易で、何となく結末が見えてしまわないところが、野島ドラマのたまらないところです。
今回の『世紀末の詩』の最終回も、明確で斬新な「愛=○○」の定義を求め過ぎていた人には、何か腑に落ちないものと感じてしまったのでは?(野亜と里美先生の結末にも)
かと言って、一個人の野島氏に今回の特に大きなテーマへの、明確で、端的な定義がTVごときで簡潔に出せるはずも無く、また、それが誰にでも判る様な明確な結末は、ひどく陳腐なものとなってしまったはずでしょう。
野島氏の示した「愛は冒険」もひとつの大きな解答、安直な我々への深い問いかけ、強い主張、ではありますが、それだけが誰しもに今必要な究極の正解では無いはず。
ジョンレノンの「LOVE」の様に、『愛=○○』と一言では言い表せる訳がありません。
ドラマに刺激され、現在の自分を省み、悩み、これからの自分を良い方向に持っていく事が、大切なことなのでは。

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