世紀末の詩BBS

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移転しました
投稿日 4月23日(月)17時22分 投稿者 ふみ 削除

「世紀末の詩」BBSは下記アドレスに移転しました。
ここはもう書き込みできませんがこのままにしておきますので、過去ログの参照などに使って下さい。


世紀末の詩って、何度見てもいいですよね♪
投稿日 4月22日(日)03時59分 投稿者 ツヨシ 削除

みなさん、はじめまして。
この頃、再放送でリップスティックがやってたから世紀末の詩が見たくなってビデオを借りてまた見始めました。(^_^)
世紀末の詩は、最初は笑えて最後は泣けるドラマですよね。
今日、一巻を見ました。二話では、あのまま目が見えないままの方が良かったのにって思いました。人間は誰もが欲を持っている。目が見えないままだったら、あの人は純粋に愛せたのに・・・。永遠に愛しあえたのに・・・・。でも、現実を見てしまったからあんな事に・・・。やっぱり、人間って愚かな生き物ですよね・・。
三話では、現実を恨みたくなりました・・。あの子は、ひまわりのビデオを何回も見てた・・。あの子は、ひまわりがうらやましかった・・・。太陽の光がないと生きていけないひまわりが・・・・。
みなさんは、どう思いますか?みなさんの感想も聞きたいです☆


愛について。
投稿日 4月19日(木)02時40分 投稿者 towa 削除

最終回否定派が多いですが、みなさん勘違いしています。
「愛」がなんなのか誰にも分かるはずないんです。野島さんにも・・・
なぜならば、「愛」は存在しないからです。
ヒトが勝手に作り上げた「幻想」だからです。
幻想は目には見えない。
だからその正体が何なのかわからない。
つまり「愛」は存在しないのです。


>ありすさん
投稿日 4月10日(火)19時47分 投稿者 MR.未成年 削除

すみません。完璧に忘れてました。
でも過去ログを見返したら思い出しました。
takiさんとバトっていた方ですね(笑)。
僕とは直接意見を言い合ったことがなかったですから
忘れられているとは思いますが
またこれからよろしくお願いします。

出産、おめでとうございます。
体に気をつけて頑張ってください。


御久し振りです。
投稿日 4月4日(水)14時05分 投稿者 ありす 削除

こんにちわ。かなりの御久し振りです。久し振り過ぎて、
もう覚えてる方が居らっしゃるかどうかも・・・不安。

ありすは先日、長女を出産しました。
子供が生まれると、何だか人生変わります。自分と好きな彼の
血を受け継いだ子が此処に存在して居るという事に、
何だか無性に感動してしまいます。
「愛の結晶」なんて云われたりしますが、正にその通りだなと、
自分が母親に成ってみて、始めて実感しました。

まだ退院して間も無いので、体調も完全ではないのに加え、
慣れない子育てに梃子摺って居るので、何とも落ち着かない
毎日ですが、合間を見つけてまた遊びに来ますので、
その時は宜しくお願いしますー☆


最終巻は...
投稿日 4月3日(火)21時12分 投稿者 櫂 削除

10話と最終回ですね。
最終回は約1時間30分の長丁場なので...
くまさんの言うとおり10話はとても美しい話で、一番スキです。
最終回は僕は否定派ですが...


>パパイヤさん
投稿日 4月3日(火)14時56分 投稿者 くま 削除

最終卷って何話からでしたっけ?
第10話は美しいお話で結構好評ですよ。
最終話は賛否両論ありますが僕は良かったと思います。
ネタバレしそうなので感想はこの辺で・・・
絶対見た方がいいですよ!!


教えてもらいたいです!
投稿日 4月2日(月)16時50分 投稿者 パパイヤ 削除

 世紀末の詩はドラマではなく3話セットのビデオで見ていて、最初に「恋するコッペパン」の入っている3巻を借りました。はまってしまって、一週間巻き返し巻き返し見ました。バイトから帰ってきても一日に起こったニュースも見ずにずっと”愛とは何か”というテーマについて永遠語り合う百瀬夏夫と野亜亘を見ているのがストレス解消というか落ち着いた気持ちにさせてくれました。邪道かもしれませんが私は3巻から見始め、2巻、1巻と借りていきました。3本とも返却時期が近づいてくるとつらくなり、1日ずつ延滞してしまいました。
 最近このHPを見つけて色んな人の恋愛感に触れてほくほくしているのですが、困ったことがあるのです。いやこのHPに問題があるのではなく、私の問題で。最終巻が借りられないのです。結末に背を向けるなど、幼稚だなと自分でも思います。でも完結して欲しくないのです。すごく借りたいけれど借りられないところに問題があるのです。話の中でことごとく愛の形は否定されていますよね、私も自分なりに愛の形とはどんなものだろうと考えたりしていて、どんどん気持ちが高まってしまいました。”愛とは、、”の先は一番知りたいところであってめをつぶりたいところでもあるのです。
皆さんは最終話をみて良かったですか?見ることを恐がっている私は間違っているのでしょうか?


僕の捉え方!?
投稿日 4月2日(月)02時14分 投稿者 くま 削除

謎の男はひとつのものの考え方としてある程度成り立っているのかなと思います.賛同はしないですけどね.基本的に否定的な立場なんですが,この男を否定する際に,この男は愚か者だからとか虚無感にあふれているからだと言うのは男の愛を否定する理由にはならないかなと思います.
正しいことを言っていても愚かだと思われることは世の中ざらにあると思いますから.
だから,自分と違う考えだけれど極力嫌悪感抜きで,考えているつもりです.
そしたら根本的にひっくり返す部分が,あんまりなくなっちゃったのが現状です.
そこで,「哀しみ」を否定する男に嫌悪感を抱く僕は「哀しみ」が必要だと考えているのか?それはなぜ?ってわからなくなってしまったんです.
おそらくこれ自体が男の考えにはまりまくっているんでしょう(笑)

改めて・・・・
虚無感っていうのは偉大ですね(笑)
極端に言うと誰もが生きている本当の理由なんてわからずに,それぞれにとりあえず自分を納得させてますからね.
それを全部デリートしてしまうんですから・・・.
改めて怖いけど強力だなぁと・・・・


ニヒリズム・科学など。
投稿日 3月29日(木)03時48分 投稿者 ころすけ 削除

きょむ 【虚無】
(1)何も存在せず空虚なこと。特に、価値のある本質的・本源的なものの存在しないこと。
(2)はてしない大空。虚空。
(3)「虚無の学」に同じ。


ニヒリズム
[nihilism]
真理・価値・超越的なものの実在やその既成の様態をことごとく否定する思想的立場。
(1)一般に無や空を主張する思想態度。仏教・老荘思想をはじめとして古来から多くの形態がみられる。
(2)特にヨーロッパ近代社会やキリスト教文明の根底に対する否認の思想。一九世紀後半のロシアの文学思潮・革命思想、ニーチェの哲学などに顕著。虚無主義。


えいごう-かいき【永劫回帰】
〔(ドイツ) ewige Wiederkunft〕ニーチェの根本思想。あらゆる存在は意味も目標もなく、永劫に繰り返されるが、この円環運動をあえて生きる決意をする者は生の肯定に転じている。永遠回帰。



ニヒリズムの代名詞とも言える人物にニーチェがいますが、彼はキリスト教を批判しましたが、否定はしていないと思います。ニーチェに関しては、このBBSをさかのぼるとtakiがガイド的な説明をしているので割愛させてもらいます。私が言っている「批判」とは下に書きました「(3)…その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。」です。


ひはん 【批判】
(名)スル
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。




続きまして、科学について。


かがく 【科学】

〔science〕
(1)学問的知識。学。個別の専門分野から成る学問の総称。「分科の学」ないしは「百科の学術」に由来する。
(2)自然や社会など世界の特定領域に関する法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み。実験や観察に基づく経験的実証性と論理的推論に基づく体系的整合性をその特徴とする。研究の対象と方法の違いに応じて自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。狭義には自然科学を指す。

じんぶん-かがく 【人文科学】

広く人類の創造した文化を対象として研究する学問。哲学・文学・史学・語学などが入る。文化科学。



私が考察BBSで使いました「科学」というのは「(2)…探究の営み。」というニュアンスから出たものでした。私の個人的な主観ですが、科学というのは常に発展途上であり不完全なものだと思っています。だからこそ科学者たちは探究を続けるのではないかと思います。ニヒリズムが探究のひとつの成果だとするならば、いつか誰かがそれを超えるものだと思っています。と言いますか、真のニヒリストとは、ひたすらに探究を続ける人たち(この一言で言い尽くせるわけがありませんが…)だと思います。もう一つ付け加えると、「発展途上であり不完全なものだ」としても、歴史上の科学者、哲学者、思想家…たちは、皆すごい人たちだと思います。歴史に残るような人たちは、既存の価値や概念、常識などを打ち破ってきた人だからです。

以上、科学についてでした。


上記の語句説明は、すべて『大辞林 第二版』から引用したものです。
HPは
http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/jp-top.cgi
です。


http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


音楽会の絵
投稿日 3月26日(月)23時49分 投稿者 nori 削除

2000年3月24日に東京オペラシティコンサートホールで音楽会の絵と題して千住3兄妹のジョイントコンサートが行われました。
組曲「世紀末の詩」世紀末の詩〜ELEGY〜THE LAST SONGが生演奏されました、素晴らしかったです。ちなみに野島伸司さんも花を送っていました。


野島伸司詩集について
投稿日 3月24日(土)01時52分 投稿者 MR.人間失格 削除

僕は最近あの廃盤になったはずの「野島伸司詩集」を手に入れました。
さて、それはどうしてでしょう?
何故かというと、「クロネコヤマトのブックサービスで購入したからです。
インターネットで「クロネコヤマトのブックサービス」を検索したら分かりますよ!!


野島伸司詩集
投稿日 3月23日(金)11時35分 投稿者 おじん 削除

野島伸司詩集の一番最初にでたやつが廃盤になったという噂を聞いたのですが、どっかにありませんか?あれだけ持ってないんで絶対欲しいんです。誰か情報下さい。


ありがとうございます。
投稿日 3月21日(水)14時33分 投稿者 順子 削除

takiさんどうもありがとうございました。
早速探してみますね


本の情報。
投稿日 3月20日(火)11時23分 投稿者 taki 削除

ISDN4−8470−1302−6
このナンバーを本屋さんか、オンラインブックストアで、
注文したら手に入ると思いますよ。>順子

http://alived.com/autism/


教えてください
投稿日 3月20日(火)10時05分 投稿者 順子 削除

世紀末の詩は小説として出ているのですか?
書店では見かけませんがもしやと思って、、。


>教えて下さい
投稿日 3月20日(火)00時31分 投稿者 ふみ 削除

世紀末の詩の音楽は千住明さん作曲で、サントラCD出てますよ。
東芝EMI \2854です。


教えて下さい
投稿日 3月17日(土)00時40分 投稿者 sin 削除

テーマ曲でクラシックぽいのとかありましたよね。できれば全曲おしえていただきたいんですが。お願いします。このホームページはじめてきました。また来たいと思います。それでは。


薔薇
投稿日 3月14日(水)22時00分 投稿者 茶夢姫 削除

第9章
彼は「青いバラに抱かれるためです」「その意味は神の祝福」と言いました。

<薔薇の花の神話>
”花の女神フローラの愛する妖精が死んでしまいました。
 フローラは神々の前に亡がらを運び、その妖精を
 花の女王とも仰がれる不死の花に変えて欲しいと頼んだのです。

 神々は、妖精を薔薇の花に変えることにし、ビーナスが美を
 風の神ゼフィールが雲を吹きとばして光の祝福を
 酒の神バッカスは香りを、他の神々が優雅さや喜びを与え
 フローラは花にさまざまな色を与えたとされています。

 しかしフローラは、青い色だけは与えませんでした。”


再度、レス。
投稿日 3月14日(水)07時51分 投稿者 taki 削除

なにか、同タイミングで書きこんじゃってたみたいですね。
下記の私のレスも見ていただきたいのですが、もちろん新たな書き込みにも更にレスをさせて頂きます。
それに関して、重複して言うことがあるかとは思いますが、そこはご容赦を。

> 「人間は欲求する故に、人間がこのような文明を築いてこれた。欲求こそが全ての感情の根源。」

そうなんですが、「全ての感情の根源」なのかは疑問です。
文明や進歩の根源的要素ではあると思いますが、感情の根源となると、また違った
意味を持ってくるのではないでしょうか。
感情と発展の根源の混同がないでしょうか。

> 「愛」というのも感情の1種であると私は捉えます。違いますか?

これは皆さんにも聞いて見たいですね。
これだけ考察BBS戻りにさせてもらいたいです。
9話に関連することとも思いますので。
でも、あちこち移動してすいません。(笑)

これに関して、私の意見は向こうで書かして頂きます。

> 矛盾がしょうじてきます。何か自問自答しているみたいですが・・・

ですね。それも向こうで。(笑)

> そういった意味で、『愛』はないのでは?と述べたのです。

むー、どういった意味か掴めてませんが。

> そういう意味でも「愛」を証明するのは難しいでしょう。

難しいですね。しかし、その段階的論証は即物的であるような気がします。
個人的な証明部分は、その人個人の人生にあるものなので、概念的なのは至極当然なことと思います。
でなくては、相対的観念であろう愛を、個人単独で思索するに当たって無理が生じてしまうものと思いますので。
(では、個人の中に内在するものは、「自己愛」だ。と話がそちらに流れるのですが、自己愛とは別に考えなくては、
混同、混乱激しく、論点がばらけてしまうので)

元々、世紀末の詩は愛に対し、定義的、概念的アプローチを行っているので、
世紀末の詩における愛になると、その論証方法はしかるべしなのではないでしょうか。

> 私は「愛」があるならば、愛とは母性に近いものだと解します。

母性は源流的なもので、愛情の発露を促す根源的なものですよね。
下記で仰っていますが、それは愛そのものではない。
(当然、世紀末の詩的な愛です)

> 要するに感性が違うんです。そんな2人の間に「愛」などとんでもない。

根源的に他者の受け入れがなされていないと無理な話ですよね。
これは乗り越えられないもの、不可能なレベルの物事とは思いませんが。
別に例でいうと、古来より「近親同志の恋愛」は戯曲、ストーリー化されてきていますよね。
それらは「他人」とは言えない。

しかして、他者は受け入れられないことは、単に過程をこなしていけば可能と言えるものだと思うので、
愛の発生しない原因にはなり得ないのではないでしょうか。

> しかし、「近い」だけです。時の流れがその想いをも変容させる。
> よくマスコミでとりあげられる、子どもの虐待死が代表として上げられるでしょう。
>
これは「虐待」に関しては同一性の錯誤によるものも多いかと思います。
マスコミの記事に頼らず、知人間でも思うのですが、
母親は子どもとの存在的境が曖昧になってしまうことがかなり多い様に感じます。
子どもの意見を聞かず、「私はさせたくない」、「〜させてあげなくてはいけない」。
また、子どもも愛されたいが故に、主体が母親になって行く。
それは成長、発達過程時のサンプリングとして、時期的に正しくもあるのですが、
無論、過程の話なのでそこには変化がその時期時期に発生してきます。
一様に「母性」が子ともとの関連性を言い表せるものではないと思います。

時の流れが変容させることもあるでしょうし、不変である場合もあるでしょう。
それは親子という関係性の獲得と言えるもので、愛の変容の事例にはならないのではないでしょうか。

> 「世紀末の詩」内で、野亜が「愛というのは所詮自己愛に根ざしているのかもしれない」と言いましたよね、

(出ました。もうカンベンしてください。と言いつつ・・・。)
自己愛に関してはここのBBSで散々遣り合いました。
その上で、まだ定義的に曖昧な部分をメルマガ(野島ドラマ考察委員会)の増刊号として準備中です。
それを購読して頂き、ご覧になった上で再度行いませんか?

> この母性ってヤツも自分の痛みと引き換えに生んだとあって、自分をわが子に投影しているだけだと思うんです。

心理学的に「母性は完全なる自己愛」と言われている学説もあるようです。
母性論として、まだなんの感情獲得もしていない幼児に対しては、よき「投影対象」であるとは思います。
しかし、それは時期的なもの。
子どもは成長し、自己を獲得して行く。
それにより、親自身も何らかの補正をされて行くものだと思うのです。
「負うた子に教えられる」のは我が子でなくとも、子どもに接した者には経験があるのではないでしょうか。

> とにかく心の中では自分が1番だと思っているエゴイストの集団なんです。

エゴイズムの弊害としてよく考えなくてはならないのではないでしょうか?
ここで仰ることは「利己的」なことと、捉えさせて頂きますが、
利己的なことから発生する「偽善」は悪でしょうか?
対象の善行をされた者に対し、その質を問うことは無意味ではないかと思います。
かといって、「偽善者陶酔浸り屋さん」はキライなんですが。(笑)
でも、それは個人的に相対する時の人間性としての嗜好ですね。

資本主義的社会は言わずもがな、「営利、利益追求」社会です。
人間がそう言った社会的側面と、個人的人間性の側面を併せ持つのは、
社会性の資質として自然に身に付けなくてはならないものと思います。
仕事にすべて個人的な人間性を反映してやって行くのは無理なことですし、
それが個人的人間性を圧迫させなくてはならないものではないと思います。

心の中でのエゴイストはとても親しい人間関係では弊害になりうると思いますが、
それは気質的、性格的な要素も含みますので、利己的と言うことをすべて戒めることが
愛への弊害を追い払うことにはならないとも思います。
つまり、利己的性格、及び行動が「他者の受け入れ」に関して、
すべからく排除すべきものとは言い切れないと思うんです。
逆に利己的ではない人が親近的感情は得やすいだろうけど、
それらは可能性の大小であって、「得れる要素という資質ではない」のでしょうか。

> そんな私たちに「愛」なんていう超越したものが、芽生えるとおもいますか?私は思いません。

これが「私達」の括りなのでしょうか?
かーなり疑問ですよ。

> 長いレスですみません。あなたの考えもぜひ聞きたいです。

こんなもんでいかがでしょうか。
長くなるかな?これは。(笑)

http://alived.com/autism/


愚かなリアリストのぼやき
投稿日 3月14日(水)05時36分 投稿者 唯人 削除

takiさん
申し訳ない。説明不足でした。「人間は欲求する故に、人間がこのような文明を築いてこれた。欲求こそが全ての感情の根源。」とのべてきました。「愛」というのも感情の1種であると私は捉えます。違いますか?
そう捉えたなら、「求めずともそこにあるもの」ということに矛盾がしょうじてきます。何か自問自答しているみたいですが・・・
そういった意味で、『愛』はないのでは?と述べたのです。
わたしは考察BBSで言ったように「恐ろしいくらいのリアリスト」なのです。「愛」を否定し続けているのもそこからです。しかし、人の意見を聞かないような愚か者ではありません。自分自身が納得できる説明を頂けたら、きっと考えも変わるんでしょうが・・・そもそも「愛」というものは実態がないから、証明することは難しいでしょう。とにかく、概念的過ぎる。野島伸司氏が愛について作品を書き続けるのも「愛」の実態を把握できていないからに他ならないからでしょう。誰もが「愛」を求め続けてきたのでしょうが、スタンダールにせよ、武者小路実篤にせよ主観が入り過ぎているから万人が納得しないのです。そういう意味でも「愛」を証明するのは難しいでしょう。
私は「愛」があるならば、愛とは母性に近いものだと解します。
やはり、恋人や結婚相手は所詮他人なんです。生まれた環境も違えば、育った環境も違う。宗教も違うかもしれない。要するに感性が違うんです。そんな2人の間に「愛」などとんでもない。
逆に、母性は何より強いものです。自分の内部から新しい命が誕生し、耐えがたい痛みと引き換えに産み落とされる。母にとって何よりいとおしい存在でしょう。その経験から、母は子を溺愛するでしょう。しかし、「近い」だけです。時の流れがその想いをも変容させる。よくマスコミでとりあげられる、子どもの虐待死が代表として上げられるでしょう。「世紀末の詩」内で、野亜が「愛というのは所詮自己愛に根ざしているのかもしれない」と言いましたよね、この母性ってヤツも自分の痛みと引き換えに生んだとあって、自分をわが子に投影しているだけだと思うんです。人間なんて醜いもので、自己愛を超越するものなんて存在しない。だから、戦争で平気で人も殺すし、人種差別もするし、障害者に対して冷たかったり、とにかく心の中では自分が1番だと思っているエゴイストの集団なんです。
そんな私たちに「愛」なんていう超越したものが、芽生えるとおもいますか?私は思いません。長いレスですみません。あなたの考えもぜひ聞きたいです。


考察BBSより。唯人さんへ。
投稿日 3月14日(水)05時35分 投稿者 taki 削除

9話と離れて行くので、こちらに書かしていただきます。

> 「愛」とは、私たちが作り上げた想像上の産物にすぎない。
> つまり、「愛」とは、いくら私たちが望んでも手に入れることができないもの。

上記の根拠は一体何処にあるのですか?

> その際限なき欲望が科学技術を発展させ、現代の便利な生活を作り上げた。

それが上記の「際限なき欲望」にあるのでしょうか?
全体的に考えると、欲求が元々あった愛を壊す、また知覚できなくなる、と仰ってるんですよね?

さらに知覚できたような時代にはもう戻れないとも。

しかし、現代が平和とは言い切れるんでしょうか?
個人個人に相対的なものであって、
(戦争などや原始的な生活苦にしても安穏とした人々は居たと思いますし)
時代を普遍的に平和と言えても、
それが考察上の「愛を感じることが出来ない定義」として言えることでしょうか?

現代は確かに欲望が肥大した時代です。
それは一般的に難しい時代とは言えても、
それゆえに「感じることができない」とは言い切れないと思うのです。

さらに
> 求めずともそこにあるものそれが「愛」なのではなかろうか?
> そう考えると「愛」など存在しないと考えるのがだとうであろう。

と続く文に矛盾がないでしょうか?
それに妥当でしょうか?ここで仰ることを
論証的に普遍妥当性を見出すことは出来なかったのですが。

前提的に愛はない、と言うことでもご自身は愛を求めてしまっている、
という趣旨だろうと思うのですが、それが現代と前提との関係性が混乱しているように
思うのですがいかがでしょう。


考察BBSの2つめの書きこみついてですが、

> 要は、動物の欲求と人の「欲求」は全く種類の違うものということが言いたいのだ。

人間が現在は欲望が肥大した存在であり、
対比として必要最低限しか求めない動物と引き合いに出されているのですね。

でも言葉のニュアンスとして、欲求は動物的本能的なもの、
人間も欲求を持ち合わせているが、思考により肥大したものは「欲望」と呼ぶ。
と言う感じはいかがでしょうか?

> 次に、平和な時代・激動の時代を問わず「愛」なんてものは、無いといっても過言では無いだろうか。

今度は時代背景は関係ないことを前提にするんですね。
となると、欲求(欲望)からの社会の変化に置いて、人間性をも変化したことから
人は愛を感じることが出来ないのではないか?
という、以前の書きこみはなかったことにして。

> つまりは、「愛」なんてものは無いと考えるべきなのだ。現に、誰も「愛」というものを見たことがない。知らない。
> 人間が存在しだしてもう永い月日が経過したにもかかわらず・・・

愛が知覚できるかどうか?ってのは別問題ですよね。
見えないから本質は否定。とは安易過ぎるのではないでしょうか?
愛に関わらず、人間の絆や友情は目に見えないものではないでしょうか。
何がしかの実力や賞賛にしても同様かと思います。
それに形而上的なことは時間的問題だけで解決はつかないのではないですかね。

もし、実体を表現し得ていても、それが万人に理解できるものでしょうか?
もしかしたら、表現できているものがあるかもしれないし、
また自分自身がその感性のなかで、知覚に近い感覚を得れる表現があるかもしれない。
こういった字などは、そこに至るための個人個人のためのとてもいいヒントになり得ているのではないでしょうか。
それらは相対的であるが故に定義などは出来ないものとは思いますが、
否定することで思考停止に陥ってしまうものではないのでしょうか。

> 聖書に書いてあることが実際に起こったかどうかは誰にもわからないはずなのに、
> それ元にどうこう言うのは非現実的過ぎないか?

これを言い始めると、自分の人生に関わったこと以外はすべて、非現実になってしまいますよね。
そこには「史実」という重みは必要なく、寓話としてでも検証は可能と思います。
しかし、パレスチナ情勢が悪化しているのはまごうことなき「事実」なのですし、
史実的虚実に拘るのは歴史学者や研究者のみでいいのではないでしょうか。

> 私のなかには、ニヒリズム的思想はない。ただ、私は恐ろしいくらいのリアリストなのだ。

また、唯物思想的なリアリズムですが、非常にニヒリスティックといえます。
実存主義とも絡みがあるのですが、ここでは脱線し、手にも余るので割愛しますが、
現代的である現物的思考は、非常にニヒリスティックなものです。
つまりは形而上的な愛、永遠などを否定した主義を指しています。

> もし、ご存知なら哀れな私に「愛」ってヤツを教えてください。よろしくお願いします。

愛は教わるものでしょうか?私には教えることは出来ぬことですが、
9話に関しては、「愛を教えようとした者」が否定されていますよね。

あと、即物的な思考は物事が結論づいていること以外には、要を得ることは出来ないと思います。
失礼ですが、世の中聞いて分かることばかりではないのですから・・・・。

考察に関しても、教えよう、教わろうでは何も掴めないのではないかと思います。
考察は講座形態ではありませんので。

個人個人の方に普遍妥当性を感じれるような書き込みが出来たら、とは思っていますが。

しかしながら・・・・、私自身は「現世利益優先」の人間なので。(笑)

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憎んで愛した「世紀末の詩」
投稿日 3月8日(木)02時50分 投稿者 ころすけ 削除

櫂さん、長いレスありがとうございます。

>情深き人と向き合い、ここに愛がないと否定し続ける。

櫂さんご指摘の通り、ここは絶対に違うなと自分でも思いました。
「愛とは情深き人と向き合いながら鍛え上げていくもの」と今は思っています。
私はなんでもかんでも「世紀末の詩」を愛の否定で言い包めようとしていた感があります。
なぜ、そのようなことをしたか?
たぶん「世紀末の詩」に自分自身の愛を否定されてショックだったからだと思います。

ふりかえってみると、
「世紀末の詩」は私の愛の否定をした憎むべき対象であった(笑)
そして今は
「世紀末の詩」は愛を否定するだけでなく、私に愛を考えさせてくれた愛すべき作品である。
ということです。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


お、なるほど。
投稿日 3月7日(水)00時31分 投稿者 taki 削除

櫂さん。

いえ、仕方ないですよ。(笑)
大仰なものを持ち出したのは私の方ですし、それを説明できないのは無責任だと思いますので。
しかし、あまりにも枠のデカイものを出しすぎたし、
そのドラフトは遠大過ぎるから、知ってて「そう感じる」と書くのと、説明するのとは違いますから苦労はしました。

「うあぁ、説明書けってーのか?!」というのが正直な気持ちでした。(笑)

そんで、頑張って書きましたが、

> 正直いって、ほんのちょっとしか理解できなかったです。

いまいち成果がなかったかも・・…。(^^;;;

> キリスト教的な部分は野島伸司の中に色濃くあって、
>
9話に関してはキリスト教的な愛を否定した話と思っていたんですが。
ノストラダムスはキリスト教圏の愛の定義を持っていたと思いますし。

> これは「無」作為というより「反作為」としたほうがいいのでは?とちょっと思いました。
>
これは老子81章を読んだ感想なんで、うまく纏めれてる言葉なのかは、本人が疑問です。(笑)
あくまで感想でしょうか。じゃないと「老子を語る」になってしまいますしね。

> 「他人の理解を許さない」レベルのものがあることがたまにあると思います。

これは今回持ち出したものが、凄すぎましたね。
しかし、「9話はニヒリズム的」という感想が出てしまっていたので、
そうすると、誤解や混乱が起こりやすいので危険視してました。
なので、良い切っ掛け(?)と思ってやらせていただきました。
つまり、するつもりで書いてもいたんですけど。(笑)
しんどかったのは事実ですが。

> 「共感されることを拒否しているのかなぁ」と思ったこともあります。

あ、それはバレましたか。(笑)
共感されたことは正しいというようなことってネットの世界ではよくあると思うんですよ。
それって本当か?という風に懐疑的であるし、
「本質」はそこに参加している者の多数決なのか?と、
また感情的に訴えるような書きこみは自分として卑怯としています。
(あくまでも自分自身の自戒としてですけど)

> 議論の場ですから、なるべくとっつきやすい表現をお願いできないものかと^^;

あ、今回は事情もあって意図的な部分も実はあったんですが、
これからは留意致しますね。
その分書きこみが長くなるかもです。(笑)

http://alived.com/autism/


ころすけさんへ(長文失礼!)
投稿日 3月6日(火)22時08分 投稿者 櫂 削除

>「世紀末の詩」は愛を追求する姿勢を描いたドラマだと思っています。

「姿勢を描いている」のではなく愛を追求すること自体が目的のドラマだと思
います。「愛」そのものの定義、存在の有無、そういったものがテーマと思い
ます。

>その姿勢は「愛の否定」そのもの。「否定」とは言い換えれば「確認」。
>愛の所在をその時々に確認していく。そして、ここに愛がないと思うこと
>それが世紀末の詩の言う「愛の否定」だと私は思います。

世紀末の詩が「愛はない」と言い切ったことはないと思います。
常にその存在に関しては、教授の言葉で「愛はあるのか?存在するのか?」
という悲痛なまでの問いかけ(叫び)でした。「答え」の出ないもの、答え
を期待するものではないとしても、そこに在るのは、「否定」の形ではなく
「問いかけ」の形をとった切実極まりない「祈り」だと僕は思います。
(もちろん「存在してほしい」という肯定の立場にたった「祈り」だと思い
ます)

>劇中に愛は描かれていたのだろうか?

最終話、教授の死の間際にいたっても、教授自身のセリフで上記の
「問いかけ」が発せられていることでもわかるように、「愛」は劇中
ではついにその姿を見せなかった、と僕は思います。
ただし、「愛とはこういうものだ」という定義づけと、「存在するなら
形があるはずだ」という妙な(?)論理のもとに提示されたのが「冒険」
と「風船」でしたね。
何度もここの掲示板に書いたように僕自身はこの2つに関しては納得がい
っていませんが、この2つに関しては最終話の考察を待ちたいと思います。

>愛ではなく愛を追及する姿勢を描いたのが世紀末の詩だと思っています
>ので、「愛は描かれていなかった」と思っています。

野島氏のインタビューに、「(愛に見えるものを)ひとつひとつ否定し
て、残るものを「愛」だと定義したい。そう思っていたが、現時点で否
定できないものがないので、困っている」という言葉を覚えていらっし
ゃるでしょうか?
「姿勢を追及するのが物語の主旨なので愛が描かれていなかった」ので
はなく、「愛を描くつもりだったのが描けない(否定できないものが無
いから)だから(現時点では)困っている」ということだと思います。

>情深き人と向き合い、ここに愛がないと否定し続ける。「愛の否定」
>はとても険しい道だと思う。亘と教授はその姿勢を貫く選ばれた者たち
>だ。私は彼らから愛を学ぶのではなく、愛を追求する姿

情深い人たちにとっては迷惑この上ない2人だ、ということになります。
その人達の愛を否定して誰が喜ぶのか? 
確認とおっしゃいましたが、確認とは「否定し続ける」作業のことではなく
純粋に「愛があるかないかの確認」作業ということです。
当然、「愛を見つけることを目的としている」はずです。
結果的にそこに愛がなかったら、それを「愛ではない」と否定することもあ
るでしょうが、それが目的ではない、結果のひとつだと思います。
たまたまこのドラマでは結果的に「これが愛だ」といえるものが出てこなか
っただけだと思います。

教授と亘の姿勢といったら、「愛を否定することによって確認していく」
とかそんな複雑なことではなく純粋に、それは「愛なのか?」を確認して
いく作業です。
だって2人は「真実の愛」を追い求めるのが目的の「世紀末の詩人」では
なかったですか?
そして探しあぐねたすえに、どうしてもそれらしきものがみつからない。
そして「愛はあるのか? 存在するのか?」という最終回での教授の問い
かけになっていくわけでしょう?

もっと言ってしまうなら、「探しつづける作業」を根気よくやり続ける、
ということは教授だって、口ではああいう言い方をしてますが「愛の存在
をせつないくらいに信じている」と思います。
だけど一方で科学者であるがゆえに「存在を立証できるもの」または具体的
に「これが愛だ」といって提示できるものが間近にない。
だから「愛は存在する」と断定できない。
だから「その存在を確認するために探し始めた」のではないでしょうか?


まずはtakiさんから
投稿日 3月6日(火)20時34分 投稿者 櫂 削除

takiさん、すごいですね。これを書いた...(・・;)
ちょっとした興味本位で質問してしまったこと、申し訳なく思っております。
また、誠実にレスしていただけたことに感謝の念を...

正直いって、ほんのちょっとしか理解できなかったです。
ニーチェは若いころに読んだことがありますがほとんど内容は忘れておりまし
た^^;(みんなが通る道なのよね、ニーチェとか太宰って)
この謎の男がニヒリズムのメタファーだと僕は思っているのですが、やはり
キリスト教的な部分は野島伸治の中に色濃くあって、(クリスチャンかどうか
はしりませんが...)ニヒリストは敵役なのかなぁ..と漠然と思ったくら
いです。

>それを踏まえ、思想的に「無作為」と表現しました。

これは「無」作為というより「反作為」としたほうがいいのでは?とちょっと
思いました。

>では、「絶望感から虚無主義が成り立っていることは、あながち否定の出来
>ないもの」と書いたのはニーチェのニヒリズムを克服する、価値の病とされ
>る部分を「絶望」というポイントになぞらえ、そこからの脱却という意味で
>なら「あながち否定できない」という意味でした。

あの文章からはここまで論旨を読みきれません。レスいただいておいて恐縮ですが、takiさんの文章はご本人も意識されているかどうかわかりませんが、「他人
の理解を許さない」レベルのものがあることがたまにあると思います。
「共感されることを拒否しているのかなぁ」と思ったこともあります。
議論の場ですから、なるべくとっつきやすい表現をお願いできないものかと^^;
これは批判というより個人的なお願いです
(他の人は理解できているかも判りませんからね)


お2人とも...
投稿日 3月6日(火)07時33分 投稿者 櫂 削除

takiさん、ころすけさんお2人とも、僕へのレスですね...どうもありがとうございます。ちょっと時間がないのでざっくりしか読めませんでしたが、あとで感想を
カキコさせていただきますm(__)m


愛の否定から見る「世紀末の詩」
投稿日 3月6日(火)01時35分 投稿者 ころすけ 削除

「世紀末の詩」は愛を追求する姿勢を描いたドラマだと思っています。その姿勢は「愛の否定」そのもの。「否定」とは言い換えれば「確認」。愛の所在をその時々に確認していく。そして、ここに愛がないと思うこと、それが世紀末の詩の言う「愛の否定」だと私は思います。

劇中に愛は描かれていたのだろうか?それを愛と感じたなら、その視聴者にとってはそこがエンディングに等しいのかもしれない。私は前述したように、愛ではなく愛を追及する姿勢を描いたのが世紀末の詩だと思っていますので、「愛は描かれていなかった」と思っています。

相手の情に深くどこまでも深く入っていくこと。それは「確認」において不可欠なことだと思っている。入ることを止めてしまったら、愛とか言う以前に、その「確認」自体が成り立たなくなるだろう。

情深き人と向き合い、ここに愛がないと否定し続ける。「愛の否定」はとても険しい道だと思う。亘と教授はその姿勢を貫く選ばれた者たちだ。私は彼らから愛を学ぶのではなく、愛を追求する姿勢を学んでいきたいと思っている。

ただ一つ問題が残る。ここに愛があると、どうやって感じるのか?そこまで世紀末の詩は描き切っていたのだろうか?最終話に向けて悩みは尽きない。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


これで許して。(笑)>櫂さん
投稿日 3月5日(月)20時56分 投稿者 taki 削除

えらく大仰なイデオロギーを持ち出してしまった後悔をしつつ(笑)、
恐ろしく、広範囲にわたり、歴史的な背景を踏まえた思想と主義の説明をこなせるかどうか
全然自信がないのですが、とりあえずのところを書かしていただきます。

説明を始めると、他の用語が出てきて、延々と「それって何ですか?」
が続くと、結果的に「古典の哲学と思想、その近代における影響と解釈。」
という論文書くような事になってしまうし、そうすると私もパンクしてしまうので。(笑)
これをレスに変えさせて頂きたいと思います。

先ずは「無為を以て道徳の極致」ですが、
老荘の流れを組む道徳観で、特に「老子」に拠っています。
孔子に比して作られたとも言われている(正確には不明。しかし、くどくどとした事例の
羅列にしかすぎない「論語」に対して、あっさりと何度でも触れられる老子のほうが
好きで、人生経験を重ねる毎に解釈の取り方が良き様になっていくのはあくことのないものと思います)
老子の道徳経と呼ばれる書物の制作年代は紀元前200年頃ではないかとされており、
内容を「道経」と「徳経」との2部になって「道徳経」となっています。
しかし、別に内容に大きな差はなく、人間が在るだけのことを「徳」、
超自然的な「道」の存在を根源として説かれています。

有名なのは「上善如水」で、
生命が善く生きるとは例えば水の有り様に似ている。
水はすべての生命あるものを育んでそれは決して争う事がない。
多くの人が汚いと思うような場所でも水にとっては善も悪も一つだ。
だからそういった水の有り様が道の有り様を教えてくれる。

また、
”未来に至る生命の法則を見失うと、
現在という時の中で人は仁や義を言い出し、
目に見える知識の山を築こうとする。
しかしそこには大きな僞が生じる。
家庭の幸福が失われると、そこに孝や慈が言い出される。
そして国が乱れると、忠臣なる者が現れる。
生命の法則を抱いて生きるなら、それらは無意味なものとなる事を知ろう。”

これらは、名将出ずる時は国家の不安定な時で、親孝行が叫ばれ、尊ばれる時代は
その心をがないからこそことさらに言われるのだ。という事を指しています。

未来に至る生命の法則とは「道」を指しており、
第一章の
”道は人の理解をはるかに超えている。
そして人のことばによってはその存在を説明する事も証明する事もできない。
道は生命の根源。生命そのもの。
道は全てのものを生み出し、
確実にある法則を以て人の生命に働きかけてその全てを握っている。
それ故この道の在る事を信じて生きるなら調和の世界を生き、
人の果てしない欲にまかせて生きるなら混乱と悲惨な世界に生きる事になる。
人は生命の法則によって生まれ、
そして生きているに過ぎない。
しかし道の在る事を知って生きようとあるいは知らずに生きようとそれは同じ事。
全ては闇の又闇。
人にいったい何が知れよう。
人はその自分勝手な知識と欲もままならないではないか。
だから全ては生命の法則としての道に従って生きればよい。
自分には解らない世界があるという事に気づけば、
あなたは既に調和の世界への入り口に立つ。”

これらは自然の元による因果律を説いていると思います。
それを踏まえ、思想的に「無作為」と表現しました。
人間が行う「作為」的なことは、プラスももたらすだろうが、マイナスももたらすことを説く。
しかしながら、老子に拠らず物事の解釈は人の都合によって変わるものですから、
「こんなんでいいのか?笑」としておきました。

あと、「道徳経」を説いた老子ですが、今日の日本で「道徳」とされるものは
そのほとんどが中国儒教であった孔子の「論語」に根ざすもので、
そのほかに仏教の教えが混入しています。
(比して作られたとも言えるものの題名を付けられた形になっているのは皮肉なことです。)


しかし、歴史の思想派生の流れによる解釈によって虚無主義の源流となったのは
「無為思想」ともいえる老子の一部分しかそれを汲んでいない事を念頭に置いておいてください。

意味的に「無為」と「虚無」の繋がっている部分が「虚無主義(ニヒリズム)」となっていったのでしょう。
また、元々輸入語なため、日本の虚無的と呼ばれる感情はあった上に
(平家物語、諸行無常の一節など)それが、虚無的な部分の仏教と結合し、
ニヒリズムの「ニヒル」nihilはラテン語で「無」を意味し、老子の「無為」との混同が発生して
いたのかもしれません。

さて、虚無主義ですがロシア文学のツルゲーネフ「父と子」の主人公バザーロフなる人物の
キャラクターが既成の秩序・価値を否定する存在であったことが
文壇ならびに思想界、また全社会のあらゆる階級にわたって、賛否の論が嵐の如く湧き起こった。
ここからこの思想をニヒリストとして世界的に有名になって行った。

その背景と、あまり取り上げられないらしいのですが、ニーチェの後期思想として、ニヒリズムがあります。
これから哲学の部分になるのですが、一説によれば「ニヒリズム」はヤコービがフィヒテの知識学を
非難して用いたのが最初だとされてもいるようです。

ニヒリズムといえば、まずニーチェということになっています。
ニーチェは自らを ヨーロッパの最初の完全なるニヒリストと称した為ですが。
ニヒリズムはしばしば社会から非難される思想であり、解釈に拠っては嫌悪の対象にもなります。

ニーチェ曰く、「ニヒリズム=目標の欠如であり、『なんのため』に対する回答の欠如。
ニヒリズムは何を意味するか―最高の諸価値が無価値化されるということである」と。
ニーチェはキリスト教批判を行っている。
それらはキリスト教圏の世界観を現実的な二元的分裂
(理性と感情、自由と摂理、カオスとコスモス等など)に晒したが、
それを究極の存在である「神」で強引な統一を計っていたため、哲学となり得ず、
立証できない科学として、「愛」を説く宗教で在りつづけるほかなかった。
(神の愛を疑うと、すべてが支離滅裂となり、混沌に帰する以外にないので。)

その哲学と宗教のちょうど中間点に位置するのが老子の「道徳経」だろうか。
哲学で言われるエートスとパトスの融和点なのかもしれない。

ニーチェに戻ると、永遠回帰という提唱概念がある。
一言で言ってはそれをとらえる視点によってその意味は変化してしまうのだが、
永遠回帰とは、世界は始まりも終わりもなく、したがって動機も目的も意味もなく、ただ単に存在しているに過ぎないということ。
それは「死んだらそれきり」と言う考え方が、逆にせめて生きているうちはという人間がその存在意義を確保しようと
努力する余地を残しているのに対し、永遠回帰は「何をやっても一切は決定されている」という観念によって、
人間の「生きる意味」や「生存意思」などをまったく否定してしまう。

しかし、ニーチェは「ニヒリズムの徹底化」をすることによってニヒリズムを克服することを提唱する。
それはニヒリズムは「価値の病」とも言われているからだ。
「極限化されたニヒリズム」である永遠回帰を受け入れることによって人間は新しい「意味」と「価値」の根拠を掴む。
この永遠回帰を受け入れることを運命愛と呼んでいる。

ニヒリズムとは、色んな定義があって一概には言えないが、
「人は絶対的根拠のない生には耐えられない」ことへの反論のような気がする。
それが老荘の「無為」とするものに繋がったのかもしれません。

では、「絶望感から虚無主義が成り立っていることは、あながち否定の出来ないもの」と書いたのは
ニーチェのニヒリズムを克服する、価値の病とされる部分を「絶望」というポイントになぞらえ、
そこからの脱却という意味でなら「あながち否定できない」という意味でした。

http://alived.com/autism/


りよんへ
投稿日 3月4日(日)21時57分 投稿者 ころすけ 削除

私は自分の欲を書いた、振り返るとそう思います。
りよんとの対話に答えを出せなくて、それでもなんとか答えようとして、
苦し紛れの書き込みだったと思います。
考察BBSは自由な書き込みでいいと今は思います。
私の言ったような決まり事は一切ありません。
りよんと対話したい気持ちは変わりません。
予想通りしんどい展開になってきましたが
私は最終話まで考察に参加したいと思っています。


ころすけへのレス
投稿日 3月4日(日)15時04分 投稿者 りよん 削除

「ここは世紀末の詩を考察する場所です。まず念頭に置かなければいけないのは「世紀末の詩」です。その後に自分の考えです。この順序をいつも意識して書き込みして欲しいです」

「世紀末」は自分の中ではテキスト。
もう、答えが出てしまってると私は感じるので、いつでも
その答えに基づいて考えてしまってます。

「この順序をいつも意識して書き込みして欲しいです」の所ですが、
この世紀末BBSでは、そのような意識をしなくてはいけないのですか?

それは、そういう決まりがあるとは、知りませんでした。
なるべく、そのようにします。


否定するドラマ?
投稿日 3月4日(日)07時56分 投稿者 櫂 削除

うーん。僕はやっぱりくまさんの意見に全面的に同感ですね。

というか、野島さんは「愛を否定するドラマ」って言ってないように思うのですが
...すくなくともこのHPの「テーマ」に書いてある製作発表会見の中には、そういう言葉はなく、愛を教えるドラマという言い方をしました。
それが成功したかどうかはいろんな意見もあるでしょうが、僕自身は「冒険」と
「風船」に納得がいかないので「失敗」と解釈しています(詳細は最終回考察の時
にゆずるとして現時点ではこれしか言えませんが)


「この脚本を書こうと思ったきっかけは、そもそも僕自身が本来の愛の形を探したかったからです。だから毎回「この世に愛なんて存在しないよ」というアプローチをしていって、1回づつ「これは愛じゃない」と塗りつぶしていく。で、塗りつぶせなかったものが本物の愛なんだよと教えたいんです。」




>くまさん
投稿日 3月4日(日)01時47分 投稿者 ころすけ 削除

「愛の否定」は第9話においても、重要なテーマだと思っています。
考察BBSに私の考えを書きましたので、よかったらレスお待ちしております。

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「愛を否定するドラマ」
投稿日 3月4日(日)00時53分 投稿者 ころすけ 削除

>くまさん


「愛を否定するドラマ」の解釈ですか?
私のはですね、これは世紀末の詩の解釈にもつながっちゃう気がしてしまうのですが、
くまさんが熱く語ってくれるのです、反応しちゃいます。

世紀末の詩は、野島さんが放映されたあの時点でできる、
「もうこれ以上の愛は書けない!」っていう所まで突き詰めて
愛を描いたドラマだと思うのです。
それこそ、明日のジョーみたいに燃え尽きるほどに(笑)
燃え尽きて、さらに自分に「駄目出し」してみる。
「愛じゃない」と。
その時に何が残るか、野島さん本人が一番知りたかったんじゃないでしょうか?

これは、まさに視聴者を無視した超エゴ作品ですね。
そんな超エゴ作品「世紀末の詩」が私は大好きなのです(笑)


追伸

ふざけた書き方で失礼しました。
私としては大賛辞のつもりで書いたのですが誤解を呼びそうです(汗)


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ころすけさんへ
投稿日 3月4日(日)00時09分 投稿者 くま 削除

野島さんはこのドラマ「愛を否定するドラマ」って言ってたのですか?
僕的にはその言葉次のように解釈しますね.

否定しつづけたとしても,本当にあるものならどこからか滲み出てくる.
そういう期待を込めてドラマでは愛を否定しつづける.

・・と
ころすけさんもおそらくこれは同様でしょう?以前,「愛にたどり着くには愛を否定し続けることだ」と言っていませんでしたか?
確かにドラマで否定していった後,何が残ったのかわかりませんが
逆に考えるとドラマでこれだけ否定しつづけても,亘に共感し,愛の存在を信じる人たちこそが愛の存在の証明になるのかもしれませんね.(キレイすぎる言葉だ・・・)
というか,そうだといいなと思います.


RE:もう一度!!
投稿日 3月3日(土)23時53分 投稿者 ころすけ 削除

はい、わかりました。くまさんと私、そんなにずれてないと私も思います。

>それを客観的(視聴者として)みた時,「これだけの思いなのに愛ではないのか!?」と心震わされるのではないでしょうか?

これ、共感します。
これが愛じゃないなんて、どうしたらいいんだっていう気持ちはいつもあります。
でも「世紀末の詩」は愛の存在をばっさりと否定してくれます。
でも、良く考えてください。ただこの物語には愛がなかっただけなのです。
世紀末の詩がいうところの愛ってやつです。ただそれだけです。
愛以外のものは、全部残ってますよね。
世紀末の詩は愛以外のものを全部肯定するドラマだと思っています。
肯定っていう言い方もなんか変なんですが(汗)
私は登場人物に向けられる野島さんの愛を感じるんですよね。
まあ、登場人物は野島さんの分身だから自己愛って奴かもしれませんがね(笑)
世紀末の詩は愛を否定しながら、同時に人間の愛の存在を信じつづけるドラマだと私は思っています。
ん?どっちが先だ?信じるのが先かな?
だれが文句を言おうが、作者が「愛を否定するドラマ」って言ってるんだから、
愛を否定するドラマだと思いますよ。
変な文章だ(汗)

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おまけ
投稿日 3月3日(土)23時30分 投稿者 くま 削除

長い文を考えながら書いたので,
ころすけさんのレストすれ違ってしまいました.
その辺りはご了承を・・・


もう一度!!
投稿日 3月3日(土)23時27分 投稿者 くま 削除

僕の書き込みの意味がわかっていただけなかったのでしょうか!?
ころすけさんは「今,自分に愛があるとは思っていません」と言う以上,
愛の存在自体に対しては懐疑的なのも含めて,否定はしていないですよね?
それなのに「愛を否定した」と言うと「愛の存在自体を否定した」と思ってしまうのです.
ここでいう「愛の存在自体」とは,個人個人のレベルではなくて,「この世に真実の愛は存在しない」と言う意味です.少なくとも僕が「愛を否定する」という言葉をみた時ははそう思いました.
ころすけさんの「愛を否定した」と言うのは,各話の登場人物の愛を否定した
さらに言うと,登場人物の思いは「愛ではない」としたわけでしょう?
それは「思い自体」「愛自体」を否定しているわけではないので,僕にとっては「愛を否定した」という言葉は理解しがたいのです.
 正確に言うとこのドラマは「愛」も「思い」も否定しているわけではないと思います.
ただ毎回の登場人物の「思い」は「愛ではない」としているだけでしょう!?
それを客観的(視聴者として)みた時,「これだけの思いなのに愛ではないのか!?」と心震わされるのではないでしょうか?
そういう意味で
「元々僕らが愛と思っていた領域は広すぎてその中で偽りの部分を否定した(削っていった)」
なのです.(この「偽り」と言うのはあくまでドラマの中で否定された部分を指しています)


Re:あれれ!?
投稿日 3月3日(土)23時06分 投稿者 ころすけ 削除

ん〜、伝わらなかったかなあ。
私はくまさんの愛に対する考えが違うなんて言ってませんよ。
くまさんのいう世紀末の詩の「否定」が違うって言ったんです。

>「人の愛に対する解釈を狭めていった(本質に向かって限定していった)」

これは世紀末の詩のやり方ではないです。
あってるか間違ってるかではなくて、「世紀末の詩」とは違うと訂正させてもらいます。
愛に対する解釈はどこまで狭めていっても解釈だと私は思います。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


あれれ2
投稿日 3月3日(土)23時01分 投稿者 くま 削除

下の僕のレスの「さらに・・・」以下なんだか変ですね.
ころすけさんも「愛だけを否定した」とおっしゃってますよね.
無視してください.


あれれ!?
投稿日 3月3日(土)22時16分 投稿者 くま 削除

僕は人の思いまで否定しているなんて言ってませんよ。
「愛じゃない」といわれることが、なぜ人の思いの否定なのですか?
僕が否定していると言ったのは、「人の思いの偽りを否定した」のではなくて、
「人の愛に対する解釈を狭めていった(本質に向かって限定していった)」と言う意味ですよ?

さらに
自分の思いが「愛ではない」と言われることは、思いまで否定されていますか?
その思いは愛でなくてはいけないのでしょうか?
僕は愛でなくてもその思いは貴重なものだと思うのですが・・・。


Re:愛の否定
投稿日 3月3日(土)21時57分 投稿者 ころすけ 削除

>くまさん。

>「元々僕らが愛と思っていた領域は広すぎてその中で偽りの部分を否定した(削っていった)」

愛についての話ではなく、世紀末の詩についての話なら、これは絶対に違うと思います。なんで人の思いまで否定してしまうのですか?人の思いの偽りだって否定できないですよ。これじゃ第9話の謎の男と一緒です。人間の感情を否定して、結果愛そのものまで否定してしまう。世紀末の詩はその人の愛の存在を否定するだけです。上の文章がくまさんの愛を追求する上での考えならば、私はそれを否定するつもりは全くありません。世紀末の詩は人の思いまで否定するようなことは絶対にしていません。

世紀末の詩を見ている人は、教授や亘が真実の愛を示してくれると思っている人が多いような気がするのですが、とんでもない甘えだと思います。世紀末の詩は鏡のように視聴者の心を映し出し、”そこに愛は存在するのか”と問い掛けているように私は思います。

正直言いまして、今、自分に愛があるとは思っていません。私は自分の愛を否定します。じゃあ、なんでここにいるのかと言われそうですが、世紀末の詩が描こうとしている愛を知りたいからです。いや、誤解を覚悟で書かせて頂くなら、愛なんてものは描かれなくてもいい、最後まで愛の否定を貫く精神を見せて貰えるなら、それで十分かなとも思っています。これは完全に私感が入っていますので、世紀末の詩はそういうドラマと言っているわけではないです。


http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


愛の否定
投稿日 3月3日(土)20時31分 投稿者 くま 削除

>ころすけさん

どうも表現方法が違うのかな?と勝手に思っているのですが・・・やっぱり内容も違うのでしょうか?

ドラマで否定された部分については、僕はできるだけ「愛」という言葉は使わない方が良いと思うのです。
(僕もボキャブラリーが少ないのでやむを得ず用いる場合はありますが・・・)
否定の真偽は別にして、ドラマでは「愛とは呼べない」といわれていますから、
このページでは便宜上、皆さんできるだけ「偽者の愛」とか「愛じゃない」という風に表現していると思うのです。
そこで、このドラマに関して単に「愛」といった時はいわゆる「真実の愛」、ドラマで追求している「愛」
と受取ってしまうわけです。

教授は「これは愛ではない」という主旨のことを言っていますが、
この言葉は愛を否定しているのではなくて、「この事象は愛には当てはまらない」という意味でしょう?
(確かに教授は真実の愛に対しても懐疑的ではありますが・・・)

ころすけさんは「愛の否定」という表現を用いていらっしゃるので「真実の愛を否定している」という風に受取ってしまうのです。
ころすけさんも言うようにこのドラマの目的は「愛の追求」だと思います。
それならば「愛の否定」というよりも、
「元々僕らが愛と思っていた領域は広すぎてその中で偽りの部分を否定する(削っていく)」
と言う方法を取っていると思います。(このプロセスで、僕も元々考えていた愛を否定されたことはあります)
このような方法(これを皆さん消去法と言っていると思います)で「本当に愛と呼べる領域はこういうものなんだよ」と提示していると思うのです。
たしかに領域を狭めた結果残ったものは、人それぞれで違うとは思うのですが・・・。

ころすけさんと根本的に意見が違うとは思えないのですが、どうでしょうか?
やっぱり意見が違いますか?


第9話「僕の名前を当てて」再考察
投稿日 2月26日(月)17時03分 投稿者 ふみ 削除

9話再考察始まりましたっ。
みなさんご参加下さい。
青い薔薇ですけど、不可能という意味を持つそう?です。
その意味を汲んで9話で用いたかは分からないですけど、、
載ってたページのリンクです▼

http://www.shiseido.co.jp/s9802kor/html/text/kor05116.htm
http://www.chunichi.co.jp/column/20010113/shn1001.shtml

http://alived.com/cgi-bin/bbs/topic.cgi


Re:自己愛
投稿日 2月18日(日)23時49分 投稿者 ころすけ 削除

>のびさん

自己愛については、ここ「世紀末の詩BBS」で少し討論が行われていましたので、ログをさかのぼって読んで見てはいかがでしょうか。
自己愛の解釈は人それぞれで、のびさんの参考になる記述も見つかるかもしれません。
全部読んでみて、感想なんかがあれば、聞いてみたいですね。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


自己愛
投稿日 2月18日(日)17時21分 投稿者 のび 削除

はじめまして。

世紀末の詩はTVで見てました。本は読んでません。
すごく引っかかったセリフが名セリフに載っていたもので、
思い出してしまいました。
こちらに書き込めば、答えがでるかなっと思ったので。
どなたか、すっきりさせてください。

愛の究極がしょせん自己愛に根ざしているという論理には、つまらんモラルでの反論しかできない

というやつなんですけど。
愛=自己愛って思ってる人に、違う!と反論しても負けてしまいと思いました。
という事は、しょせん僕は自己愛論者になってしまいます。
自分では、愛=自己愛ではない、と思っていますが、
ただ自分がわかってないだけ・・・


おひさしぶりです
投稿日 2月17日(土)15時18分 投稿者 櫂 削除

ちょと事情があってインターネットをしばらくしてませんでした。
まだやってたんですね、第8話。ちょっと感動。

僕の場合、この話は嫌悪感が先にきてしまって、あまり(議論することさえも)
すきではないのですが(笑)

考察用BBSにも書きましたが、「影山自身は愛に辿り着いたことはなかった」
と思います。ミスター自己愛ですから(笑)
だから「愛を失う事によって、魂が壊れてしまう」こともなかったと僕は思い
ます。
「愛を失ったからそれによって壊れ、代償に走った」というよりも「無くなった
ので代わりのものを作った。しかも今度は自分に逆らう事の無い性能の良い家
族を」という考えのような気がします。

ごめんなさい主観的に「嫌いなキャラ」なので僕の影山に対する見方は辛いです。
9話が始まったらまたくると思いますが、8話に関してはこれ以上議論するつも
りはないのであしからず。


お、さんきゅ。
投稿日 2月17日(土)02時25分 投稿者 taki 削除

ころすけへ。

感想さんきゅー。
これはメールマガジンに載せますね。
他の方も、ここのBBSか、私にメールで感想を書いて頂ければ
載せますので、よろしく御願いいたします。

http://alived.com/autism/


『第八話』感想。
投稿日 2月16日(金)18時05分 投稿者 ころすけ 削除

くまさんの揺れには共感するものがあります。それを言葉にしてくれたおかげで私の中ではなんとなく霧が晴れてきたような気がしています。で今思ったんですけど、第八話では方向性を問われているのかな、と。

私は第八話で挑戦状を突き付けられたように感じるのです。ある意味、世紀末の詩そのものが挑戦状のようなものですが…。これは誰かが言っていましたね(笑)

景山の中には愛への方向性が、あるいはあったかもしれません。それがあったからこそ、壊れてしまった時、くまさんの言うような「代償に走った」のかもしれません。それは究極であったかもしれないけど、すでに違う方向を向いていたと私は思います。

家庭に限らず人間関係が壊れた時、自分の中の方向性が内に向かうことは誰にでもありえることだと思います。それが悪いと言うのではなくて、むしろ景山のラストのように幸せを掴めるのかもしれません。決して皮肉ではなく。

「そうじゃない方向に行くのか?来るならこい!」と第八話は言っているように私には感じられてくるのです。私なりの結論を申し上げれば「行ってやろうじゃないの!」ということになりますが。喧嘩じゃないのですが、ある種の気合は必要ですね、私にはですけど。

私の感想はこんなところでしょうか。
結論ではなく、皆さんの「第八話」に対する感想も聞きたいですね。
ありがとうございました。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


なるほど。
投稿日 2月15日(木)20時10分 投稿者 taki 削除

桜子さんへ。

> takiさんはメールアドレスがあったのでメールさせて頂こうと思っています。
> すいません、ご迷惑でしょうが・・・。

いえ、全然いいですよ。<メール
サイトやってると、色々頂きますので。
お気軽にどうぞー。

http://alived.com/autism/


期限がせまってます!!
投稿日 2月15日(木)15時32分 投稿者 桜子 削除

takiさん、くまさんレスありがとうございます。
詳細は・・長すぎて説明できないのですが・・。
私には愛している人がいます。心から愛しています。
私が原因で、今離れ離れです。
私は、自分ばかりだった、2人でいてもひとりぼっちにさせてしまっていたんです。

相手の存在を自分の存在と同じぐらい確かに感じれるということ
「自己」・・・・。
そうですか。。貴重なご意見ありがとうございます。
まぁ、色々な形があるので漠然とこのような質問が良くないですね・・。
ちょっと、期限がせまっています。
takiさんはメールアドレスがあったのでメールさせて頂こうと思っています。
すいません、ご迷惑でしょうが・・・。

本当に大切なことなので、「一人で考えるべきだ」とかそういったプライドはいらないと判断しました。
お忙しいでしょうが、宜しくお願いいたします。



とりあえず。
投稿日 2月15日(木)06時53分 投稿者 taki 削除

桜子さんへ。

> ごめんなさい(笑)せっぱつまってます。お願いします

なんででしょうか?(笑)
まあ、私も一意見として、宜しければ。

> 自分対相手・・・人対人が愛し合う上で絶対的なものってなんですか?

「自己」でしょうね。
もとより、自分と他者は相対的な関係なので、そこに通常、絶対は発生しないのがあたりまえですが、
愛とか永遠は形而上のことなので、通常という概念は通用しません。
だからこそ、結論、立証、定義付けができずに、魅惑的な話でもあるわけですが。

確固たる自己と他者の自己の関係性によって、意思である愛が存在する。
なんか、すごく当たり前のことになっちゃってますが、

> それは、ずっと「続けられる」ものらしいんですが・・・。

これは一体何を指しているんでしょうかね??


クロノスさんへ。

> 自分と相手、どちらが先に死ぬことを望むかと言われれば、愛ある人は相手の死をのぞむはず。

???なにか設問が変ですけど、このままで答えると「どちらも望まない」ですよね。
相手の命を奪う選択も、相手に残される悲しみを与えるのも天秤に掛けられるでしょうか?
おそらく、答えを用意した上で作った設問なので、主客転倒していると思われますけど、
それには相手の死という認知概念の部分をないがしろにしてるので答えにくいですよね。
それを踏まえて、言いたしという事を想像して答えることになりますが、
それが聞きたいことへの正しいかどうかの判断はつきかねますけど、
あえて、それらを踏まえて答えるなら、相手には生きていてもらいたい。ですね。

それには生きること、といった意味合いが入ってくるので、愛のあるなしの
規定を超えてしまうと思います。

しかし、愛とは生きること。といったことを考えると、それより先に生きることってなんだ?
ってことをクリアにしてないと何がちゃんと言えることなのか、
ベースが成り立ってないことになりますよね。

くまさんへ。

なんか、久しく。(笑)

前後関係もありますが、この点についてだけ。

> だから、どちらが先に死んでもその時点で二人は死んでしまうと思います。

愛がなくなれば人は生きていけないか?
そんなことはないと思います。
多くの人は愛に辿り着けずに死んでいく。
ならば、愛があったところから喪失しても、生きていけると思います。
それは根本的なことであって、個々の事情に照らし合わせたもの、つまり普遍化して良いものではないと思いますが。
生きていくには色々過酷なプロセスを乗り越えて生きていく。
その中に愛の喪失もあるかと思われます。

あ、あくまで上記の一文に対してのレスなので。
あと、相手の死の認知問題もあるんですよね。これ、厄介なもんだと思うんですが・・・・。


永遠に隆一の恋人さんへ。

> 愛した・・・という事実が 愛なんですね

その通りだとおもいます。
でも、愛それ自体ではないと思います。

> てことは 愛はやっぱり 永遠なんだ

う。それが愛とは別の永遠の証明になるかどうかは、かなり疑問です。
終わりがないことだけが永遠なのか?と形而上的なものを立証できないんじゃないか?と思います。
前提として、愛があるんだ。と言い切れた状態においてのみ使えると思いますが、
そういった状態があると言えるのかな・・・。



話の流れが証明的な存在論になっているようですが、
個人的に感じてるのは相手の為に何か出来る、してあげるというのは、ただの依存でしかないと思います。
相手が望んでもいない事、為にならない事を出来たって、それが愛の証明になるのでしょうか。
そうなると完全に愛という名を借りた、自己陶酔になってしまいますよね。
しかし、そんな勘違いも恋のいいところでもあるんですよね・・・・。
といっても、願望から勝手な話の展開をしてもいい、といことにならないですよね。

http://alived.com/autism/


くまさんへ
投稿日 2月15日(木)00時58分 投稿者 永遠に隆一の恋人 削除

今 かなり感動しました!
なんか うまくいえないけど・・・
どちらかが 先に死んでしまったとしても 肉体は滅びるかもしれないけど、そこで 愛が終わる、とか
愛じゃないとかでは ないんですね
愛した・・・という事実が 愛なんですね

肉体が消えても 精神・・魂は そこにある。と思います。
てことは 愛はやっぱり 永遠なんだ


久しぶりのような気が・・・
投稿日 2月15日(木)00時30分 投稿者 くま 削除

>クロノスさんへ

相手の死か自分の死か・・・
僕はどちらを望んだからといって愛のあるなしに関わるとは思いません。
愛した人が死んだとき、人はどうなるのかということについて、基本的に僕は教授的スタンス(壊れる)なのですが、
自分が死んだら人生は終わってしまう。相手が死んでも人生は終わる。
これは相手も同様で、片方の死は両方の死(肉体的ではなく)であり、
自分の死も相手の死も致命的な精神的欠損であると思います。
亘は「一人残される悲しみ・・・」と言っていますが、
一人取り残された時、「悲しむ」というよりも「壊れる」。
「壊れる」とは「悲しみ」からの結果ではなく自らの精神の根本的な部分を削り取られることによるものだと思うのです。
だから、どちらが先に死んでもその時点で二人は死んでしまうと思います。

ただ、現実的には多くの場合「死」はどちらかに先にやってきます。
そこでどちらを望むのかというのは、愛による決定以前に
その人の考え方、(つまり精神と肉体が共に滅ぶのか、生きたまま精神が滅ぶのか)
による決定だと思うので、どちらを望んだとしても、それは「愛じゃない」とは言えないのではないでしょうか?

ちなみに亘の
>愛とは生きること
というフレーズですが、
前後を無視してこの言葉自体のみを考えた場合「残される悲しみを受ける」というより、
どちらも生きている状態の時「お互いを死なせないために生きる」という解釈が僕の場合しっくりきます。


>桜子さんへ

>人対人が愛し合う上で絶対的なもの
愛自体がある意味絶対的なものであるような気もするのですが、
あえて言うなら
相手の存在を自分の存在と同じぐらい確かに感じれるということ
であるような気がします。
思い込みや勘違いなど色々な抜け道がある言葉ではありますが、
いろいろ考えてもこういう言葉しか浮かびませんでした。


投稿日 2月14日(水)02時40分 投稿者 永遠に隆一の恋人 削除

本当に愛しているなら 一人残される悲しみをも 受け取ること
愛とは生きること

ですよね?


投稿日 2月13日(火)23時28分 投稿者 ぷりん 削除

残された者の悲しみ・苦しみを、愛する者に味わわせずにいられるから?


投稿日 2月13日(火)22時42分 投稿者 クロノス 削除

自分と相手、どちらが先に死ぬことを望むかと言われれば、愛ある人は相手の死をのぞむはず。その理由が分かりますか?


愛することって・・・
投稿日 2月13日(火)10時59分 投稿者 桜子 削除

ここの掲示板、前からロムしていました。
私事で大変申し訳ないのですが、他の人の色々な意見が聞きたかった。
質問です。
自分対相手・・・人対人が愛し合う上で絶対的なものってなんですか?
答えはとってもシンプルみたいなんです。近くて私には見えない・・。
一緒に居る事、思いやって生きていく事・・・それともちょっと違った、もっと
本質的なものなんです。

皆さんは何だと思いますか。いろいろな意見が聞きたいです。
それを探す為にこうしてこの場があるんだろ!といわれてしまうかな・・・。
それは、ずっと「続けられる」ものらしいんですが・・・。

ごめんなさい(笑)せっぱつまってます。お願いします


ビデオにも撮って見てます
投稿日 2月12日(月)16時29分 投稿者 苺 削除

前に撮った世紀末の詩みつけて今見てナス 1つの話に必ず3回は泣いてしまいます 野島伸司さんの作ったお話の中で1番好きです 2番目は人間失格です これからもいっぱい良い話書いてください


あれ?
投稿日 2月11日(日)02時59分 投稿者 taki 削除

あおさんへ。

小概念不当周延の虚偽でしょうか?

三段論法的に言うと、

(前提)夏は暑い。→(展開)8月は夏である。→(結論)よって、8月は世界中どこでも暑い。

それ、ありえないですよ。(笑)
演繹的ではありますが、論旨がすりかわっていますよね?

愛を詩みたいに飾る→曖昧で飾った言葉はいらない→(ここで飾ったを濁すに変換)言葉は濁すと伝わらない

(結論)絶対に届かない。

ですかね?
最終話の教授の長い論を一節も用いず、結論であろうと言う「冒険、風船」のみを振りまわし、
乱暴な論法で単純に展開して見ても、結論であろうことには到達できないんじゃないでしょうか?

でも、最終話の話はまだ出来ません。(笑)
考察まで御待ちを。

といいつつ、ころへ。

>レスできない「立場」なら書くな!と反論ではなく注意をしておきます(笑)>taki

すまんな。(笑)
またやってしまった。(笑)

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世紀末の詩みました。
投稿日 2月9日(金)09時49分 投稿者 あお 削除

友人のすすめで初めて世紀末の詩みました。よかったです。
ただ、最後がきになりました。
愛とは冒険。愛とは風船。
愛、愛、語っているのに、最後に何故愛を詩みたいに飾るのでしょうか。
倉木麻衣も歌の中で、曖昧で飾った言葉はいらないといっています。
このドラマの批評でなく、全てにおいて言葉は濁すと伝わらない。
絶対に届かない。
と思っています。


Re:愛し愛されること
投稿日 2月8日(木)02時28分 投稿者 ころすけ 削除

世紀末の詩の言う愛って、共同作業することで導かれる領域のようなモノに僕には感じられました。
共同作業と言っても、意識して作るものでもなく・・・。

「愛する」ことって言うのも、また奥が深いですね。
相手のことを想うだけでは「愛する」とは言いませんよね。
相手を「愛して」いることを証明しようとすると、またすぐにボロが出てきそうですし、
また証明する必要もないのかもしれませんが。

>僕の場合はここで「愛する」と「愛」が違うものとして存在します。

僕なりにくまさんのイメージに乗っかって、表現しようとするなら、
二つの「愛する」が寄り添った時、「愛」になるのではないかと。
なる、というか、「愛」がそこにあればいいんじゃないかという感じでしょうか?
言っていることは同じかもしれません。
イメージなんで難しいです。
そこには自と他ではなく、個と個が存在する。
ただ視点が違うだけなのですが、愛においては自分を客観視するのは不可能だと思うのです。
ならばもう第三の目に見てもらうしかない。(?)
僕的には、なんとか努力で持っていける可能性を残しているのは「愛する」なんで、「二つの愛する・・・」としてみましたが、どうでしょうか?
そんな可能性などないって言われそうですけど(笑)
わかりにくかったですか?

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愛し愛されること
投稿日 2月7日(水)17時32分 投稿者 くま 削除

第8話の考察に書き込んだのですが、
話が8話からそれていきそうなので、こちらにあらためて書き込ませて頂きます。
以前ここで「他者」と「自己」のぶつかり合いがありましたけど、
それはあくまで、自分の(「愛する」ということの)方向性の問題であって、
「愛」とは「愛し、愛されること」だと思ったんです。
僕の場合はここで「愛する」と「愛」が違うものとして存在します。
ずっと前に、「愛がある」と「愛する」の違いの話が
少しあったような気がするのですが、
最近このように思いました。


愛の前に哲学の勉強しなきゃいけないの?(笑)
投稿日 2月3日(土)22時30分 投稿者 ころすけ 削除

>> でも、野島さんはニヒリズムも否定したはず。
>それ、どこでだった?
>ちょっと記憶がないんだけど、教えてくれ。

すいません。
私の読み込みが甘かったかも。
この件に関しては、9話考察にて理解を深めさせてもらおうと思います。

>私としては無意識にのなかに、愛の原材料(と言えるもの)が
>漂っていて、有意識へと顕在して行く内にその形を変えてしまう。

この考える方法には基本的に賛成と言うか、否定できないと言うか、私の好きな考える方法です。
真実(本質?)を無意識の中に見出すのは、人間の思考の限界だと把握しています。
神や完璧と言う言葉がでましたが、それらはこの方法が編み出される、だいぶ前の段階でやっつけられてしまっています。
思考の限界とは、言い方をかえれば思考のスタート地点とも言えますよね。
言えるのかな?(不安)
で、愛(の領域)はどのへんにあるんだと突っ込もうと思ったんですが、あいにく答えてくれなかったようで・・・。

レスできない「立場」なら書くな!と反論ではなく注意をしておきます(笑)>taki

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うーん。補足。
投稿日 2月3日(土)19時22分 投稿者 taki 削除

でかるとさん。

デカルト的手法はいいんですけど、デカルトの言う論理を使っちゃダメなんじゃないです?
と言いたかったんですよ。

さらに、その完璧を自分が信じてないと、仰る時点で
磐石にしようとした足場を自ら崩壊させてしまっているので、
話の進めようがないな。と。

デカルトの話題自体は興味深かったので、面白かったんですが、
反省はしなくて良いと思いますよ。

ただ、デカルトは自己へ、ここは愛との方向性が違ったことだけですかね。

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お詫びと言い訳
投稿日 2月3日(土)17時11分 投稿者 でかると 削除

くまさん
>正直、ここまで掘り下げて考えるのか〜?と思いつつ・・・

そうかもしれません。ただ、私としては『愛』という名の家を建てる為に強固な地盤を確立しておきたかったんです。
それとデカルトの解説すいません。
本当でしたら私がすべきことですよね。ただ私が書くとひどく脱線した文になってしまうもので・・・。


takiさん
>愛についてデカルト自身はなにも言ってなかったんじゃないですか?

私はデカルトに傾斜してはいません。
完璧を信じていないですから、デカルト理論が完璧などとは思っていません。
『愛』を考える為に彼の論理を私が個人的に利用したんです。


どうも私はちょっとここでの議論と論点がずれたところにいた様で反省しています。
ただ、『愛』を語る為には土台が盤石である必要があると感じたんです。
そのためにデカルト的懐疑を使ってみたんです。


我思う、故に我あり、じゃなく。
投稿日 2月3日(土)15時40分 投稿者 taki 削除

くまさん、やっちゃいましたね。(笑)

> 正直、ここまで掘り下げて考えるのか〜?と思いつつ・・・

デカルトの解説有難う御座います。
よければ、もっとでかるとさん自身にしてほしかったですが、
とてもわかりやすく整理されていたので、感謝します。

それ自体はありかな?とは思ってますが、方向がずれてきていますよね。
それを私は下のわかりにくい(笑)書きこみで、でかるとさん自身だけに
伝わるように書いたつもりですが、もっと平たく書くことにします。

問題はデカルト自身の言うことと、デカルト哲学主義とは違うってことです。
前者は結構賛否両論、そしてただ、完全に論破することが出来ない論理(ロゴス)
なだけで、哲学の父と称される者の考えつづける「学問への姿勢」としてあれば良いと思います。
後者は、物事の本質を探るための一つの方法論として懐疑主義を用いれば良いんじゃないかなと思います。
それは世紀末の詩の姿勢と類似しているものだと思いますので。

しかし、デカルト自身の論を借りてしまうことによって、でかるとさん(う、わかりにくい。笑)
が愛に対し、混乱していたのは確かなようなので、
愛についてデカルト自身はなにも言ってなかったんじゃないですか?
と、お聞きしたんです。
言ってなかったら、神、完璧を用いて考えることはないんですからね。
そうなると、デカルトの言っていることは置いといて、になりますし。


そこで提案&整理をしたいと思います。

デカルトの論である、神、完璧をポイントとするのではなく、
絶対点として、愛をポイントにすればいいんじゃないでしょうか?

我思う、故に我あり、じゃなく、愛はある、とでもいいますか。

そこで、本当にあるのか?ないのか?本質的にはどうなんだ?
と論を展開していくのがいいんじゃないかな?と。

そうすると絶対点と呼べないかもしれないですが、これは懐疑主義的方法の展開。
で良いと思いますが、いかがでしょう?

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愛って完璧!?
投稿日 2月3日(土)12時02分 投稿者 くま 削除

正直、ここまで掘り下げて考えるのか〜?と思いつつ・・・

どうしても神と愛との関係が分かりません。
デカルトの思想に関して例の名言以外は無知で、手元でババッと調べた程度なのですが・・・
デカルトは「疑う自己」と相対化された世界を漂う「精神」の絶対点として「神」を
挙げているんですよね。

ちなみに神の存在証明は次のようなものであるらしいです。
1.不完全な存在である私(人間)は完全な存在である神の観念を持っている。
2.完全なものが不完全なものから生ずることは(無から有が生じないのと同じく)無い。
3.したがって神の観念は神によって私の中に置かれたものであり、神は存在する。
「おいおいなんかムチャやな」と思ってしまいます。
信仰心がベースにあるので、この論理では神以外が絶対点になり得るはずがないだろ と・・・

そして、コギト・エルゴ・スムですが。
これを言っちゃうと、愛もへったくれもないような気がします。
愛を考えるベースとして、現実世界は「ある」という前提が必要だと思います。
そうしないと、愛の対象である「他者」もいなくなってしまいますから。
デカルト的な考え方は好きなんですが、
一方で「これを言っちゃおしまいだよ」っていうのが正直な感想です。

ちなみに
「愛はコミュニケーションの究極形のようなイメージ」という表現は、
「愛は完璧」と言っているのではないですよ。
物事を推し進めて到達したところ(究極点)=完璧 ではないでしょう?
あえて、完璧という言葉を使うなら、
それは「到達論理」であって、「到達点自体の完璧性」ではありません。
よくよく考えるとこの表現も「お互いの想いに関するコミュニケーション」という条件付きですね。
だから「互いの想いに関するコミュニケーションに対して完璧」との解釈ができるのかもしれないですけれど、
デカルトの言うような精神の絶対点としての完璧性とは異なります。

さらに余談ですが
僕も完璧なものなんてないと思います。


「コギト・エルゴ・スム」
投稿日 2月3日(土)06時05分 投稿者 taki 削除

でかるとさんへ。

デカルト的懐疑主義にひっかかってしまいましたね。(笑)

一般的、常識的であるとされている物事をまず、疑って考える方法論は
とても大事だと思うんですが、確固としたエートスがないまま、
パトスに振りまわされるという、よくあるジレンマに陥っちゃったみたいですね。(笑)

そこで、神を絶対点とし、「コギト・エルゴ・スム」と結論づけてしまうのも良いのですが、
でかるとさん自身が、絶対点を拒否して推考しはじめると、そりゃわけわかんなく
なっちゃいますよね。

私自身、デカルトには不案内なのですが、デカルト自身は
愛云々とかは言ってませんでしたよね?

しかし、デカルト的懐疑方法論にて、愛を考えるのは、非常に世紀末の詩とマッチしているように思えます。

でなんですけど、

> ですから私の中では『疑う存在』の『私』は真なんですが、それ以外は疑わしいままなんです。
> 『愛』という概念も疑わしいままで、真ではないんです。

なぜ疑わしいのか?というのがないと、なんとも。


> 宗教の国、例えばアメリカの人に聞けば、彼らは迷わず、愛は先天的なもの、
> 愛はあるんだ、と言うと思います。神が全てを取り計らってくれているからです。
> だから日本人のように『愛』があるのかないのか
> 悩んだりしないのではないでしょうか。

日本は「情」の国ですから。
コミュニティーとしての社会性を重んじる御国柄なので、
「個」として思考することに意義をもっていないことが原因かな?と思います。

ころすけへ。

> でも、野島さんはニヒリズムも否定したはず。

それ、どこでだった?
ちょっと記憶がないんだけど、教えてくれ。

http://alived.com/autism/


ですよね。
投稿日 2月3日(土)02時38分 投稿者 でかると 削除

私を悩ましているのはデカルトの理論なんです。

で、彼の理論の出だしを簡単に説明しますと、彼はこの世の全てのものを疑いました。人間は『自然的欲求と教育』によって育てられた未熟な存在だからです。
目の前に花が咲いていたとしても、それが本当に存在するのか疑ったんです。
ひょっとしたら、悪霊が目の前にない花を花だと思わせているかもしれないと思ったからです。
そうやって色々と疑った結果、『疑う存在』、悪霊に騙される存在があることは真であるとわかりました。『我思う、故に我あり』です。ここまでは私は彼に意見するところに賛同したんです。
そして次の段階で彼は、神=完璧の概念をもってきて、自己の理論を進めていきました。
で私は思ったんです。
ちょっと待った!私は神=完璧なんかないと思ってるよと。

ですから私の中では『疑う存在』の『私』は真なんですが、それ以外は疑わしいままなんです。
『愛』という概念も疑わしいままで、真ではないんです。


ごめんなさい。余計意味不明になったかもしれません。
どんどん突っついてください。私は『愛』を見つけるために冒険していますから。


でも。。。
投稿日 2月3日(土)02時00分 投稿者 櫂 削除

>すいません。なんだか途中部分が思いっきり飛んでいて、いきなり結論に入って>います。全部書くと膨大な量になる気がして・・・。

膨大になるかもわかりませんが、これでは全く意味がわかりませんね。
なぜ
>ちなみに私は神=完璧を信じていません。
>だから『愛』はないという結論が出ました。

こうなるのでしょうか?


みなさんレス、どうもです。
投稿日 2月3日(土)01時42分 投稿者 でかると 削除

私は愛はあるのかの証明方法として『愛は先天的であるのか、後天的であるのか』という疑問をもちました。
みなさんの意見をうかがったところ、『愛』というのはどうもどちらかに断定しずらいものであるようです。
と同時にみなさんの心の中には『愛』は後天的だと思うが、ひょっとしたらは先天的なものであるかもしれないという考えが見受けられました。
で、思ったんですけどこれが宗教の国、例えばアメリカの人に聞けば、彼らは迷わず、愛は先天的なもの、愛はあるんだ、と言うと思います。神が全てを取り計らってくれているからです。だから日本人のように『愛』があるのかないのか悩んだりしないのではないでしょうか。

私は『愛』を見つけるカギは神=完璧を認めるか認めないかに委ねられると考えます。
ちなみに私は神=完璧を信じていません。
だから『愛』はないという結論が出ました。


すいません。なんだか途中部分が思いっきり飛んでいて、いきなり結論に入っています。全部書くと膨大な量になる気がして・・・。





先天的か?後天的か?それを探る意図はなんですか?>でかるとさん
投稿日 2月2日(金)04時33分 投稿者 ころすけ 削除

相手がいてこその愛なのだから、後天的のような気がします。
ただ自分が思い描く愛に疑いを抱くのなら、愛と言うのはコミュニケーションを起こす動機的なモノであるようにも見えます。
深く潜っていくのなら、先天的なのかなと感じます。

>私としては無意識にのなかに、愛の原材料(と言えるもの)が
>漂っていて、有意識へと顕在して行く内にその形を変えてしまう。

世紀末の詩を見終えたときの最初の結論は私もこんな感じでした。
でも、野島さんはニヒリズムも否定したはず。
ニヒリズムを僕には否定できないが、あえて言うなら「愛に限らず概念と言うものはそういうものだろ」といったところか。
なら愛じゃなくてもいいんじゃないかと。
ここはもう僕の能力を超えたレベルです。

愛が相手を伴う実践であるならば、愛は後天的だと僕は思います。



追伸

でもこれは逃げかもしれない。
先天的であることを認めてしまったら、ショックで立ち直れないかもしれないので。

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さて、後攻。
投稿日 2月2日(金)01時03分 投稿者 taki 削除

でかるとさんへ。

先天的ですか。

野島氏は、

> 「人間の本質の中には愛はないんだ」

ですし、
私も得るには、愛を知っていること。と書きました。

さーて、先天的と思ったら、どうにも説明のしようがないですね。
元々は直感と今までの経験上からの二者択一として、
「先天的」と答えました。

しかし、攻められるとひとたまりもないな。(笑)

もう1歩踏みこんで考えて見ると、「愛の本質は何処から来る?」でしょうか。

私としては無意識にのなかに、愛の原材料(と言えるもの)が
漂っていて、有意識へと顕在して行く内にその形を変えてしまう。

あ・・・・、今持ってる「愛の概念」を全部喋っちゃまずいな。(笑)

なのでこのへんで。(汚いかな?笑)

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愛は...
投稿日 2月2日(金)00時02分 投稿者 櫂 削除

僕は後天的かな...
くまさんに近い意見なのと、偶然愛にたどり着ける相手に出会わなければ
ほとんどの人がたどりつくことができない。
「まして生まれつきもっているものなんかじゃない」っていう9話の亘の
セリフが頭にあるからです。
愛をはぐくむために必要な性格的な要素は、先天的に「ある人とない人」
の差があるのかな?とも思いますが、このへんはよくわかりません。


愛・・・
投稿日 2月1日(木)20時49分 投稿者 でかると 削除

くまさんレスどうも。

>大まかに言うと、愛はコミュニケーションの究極形みたいなイメージがあるので後天的なものと考えています。

コミュニケーションの形と言うのは何だか良いですね。
ただ私は『完璧』はないと思っているので、コミュニケーションの究極形はないと思うんです。例えば、私がある人を愛したとします。しかし、私がこれまでにあった人間は一体何人なんでしょうか。千人、一万、それとも百万人?駅や交差点ですれ違った人は沢山いましたが愛を感じるまでに触れ合った人などたかが知れています。地球の人口が60億人であると考えると、たまたま偶然に出合った二人が愛に目覚めて、それが完璧なものだとは思えないんです。

何か粗さがしみたいになってごめんなさい。


でかるとさん 遅れ馳せながらレスします
投稿日 2月1日(木)14時15分 投稿者 くま 削除

大まかに言うと、愛はコミュニケーションの究極形みたいなイメージがあるので
後天的なものと考えています。
一人で生まれてくる時に持っているものではなく、
人と人が出会ってこそ生まれるものが愛だと思います。

もし、先天的なものだとすると「愛にたどり着く」というのは
自分の中に眠っていた愛が「目覚める」という感覚なのでしょうか?


投稿日 2月1日(木)13時32分 投稿者 でかると 削除

takiさんへ

>愛は先天的と思います。

そうですか。やっぱりそう思いますよね。私もそう考えていました。
ただ、何が愛が先天的であるかということを実証する具体的な事例がなかなかないんですよね。

人間は『自然的欲求と教育』によって育てられたものです。私達が愛だと言っているものも本当に真であるのか疑わしいのではないかと思うんです。

ちょっと皆さんの書き込みを読みきれていないので(量が多くて・・・)、学校の試験も終わったことなので、読まさしてもらってからまた書き込みます。


世紀末の詩が鏡と言うのは、ほんとにうまいこと言ったものだ。うんうん。
投稿日 2月1日(木)10時38分 投稿者 ころすけ 削除

なるほど、それじゃ死ぬまで続けても答えはでそうにないな(笑)
まさに、死闘だな。エンドレス・バトル・・・

今の私にとって言えることは、愛は闘いってことだな。

例え僅かであっても部分的に自分を肯定できること、それがぶっ壊れないための最後の砦なのだろうけど、そこまで行ってもなお愛には届かないのかもしれない。
体が持たないな(笑)
愛の挑戦者はきついですね。

というかちゃんと仕事しろ!>自分
愛と仕事の両立が、まず第一の私の課題だな(笑)


taki。

深夜に書き始めて、気付けば朝か(爆笑)
先に死ぬのは、たぶんそっちだな。
その間、俺寝てたし…(笑)

死闘に参加したいという愚か者(笑)は他にいないかね?

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


深夜に。
投稿日 2月1日(木)05時31分 投稿者 taki 削除

MR.未成年さんへ。

レスありがとうございます。

> >愛じゃないと、なぜいけない?
> 「愛」じゃなきゃいけないというよりは
> 「愛」と呼べるほどの関係を誰かと築きたいです

枯渇からの欲求ですね。
そこに切実さも加わってくると思います。
願望から発生したものが欲求へ繋がっている。と。

しかし、愛については一概に言えないですよね。
寂しさが消えたら、又考える。ということで。


ころすけへ。

> 「この世に愛なんてないんだ」と「残るものが愛なんだ」。
> 愛はないのに、なぜ愛は残る?

では、わかったみたいだけど、再度引用で。
(つーか、ここの世紀末の詩の「テーマ」のところを見ろよ。笑)

> 「人間の本質の中には愛はないんだ」という気持ちが僕のベースとしてあります。 僕たちが普段、"愛"と呼んだ
> り思ったりしてるもの、それは本当に愛なのか? ただ思い込んでいるだけじゃないのか? と問いかけたくてこの
> 脚本を書いています。
> 亘は愛を信じ続け、夏夫はそれをシニカルに否定し続ける。
> 僕は11話を通して、生物学、社会学、遺伝学などさまざまざなロジックで「やっぱり愛はないじゃないか」と、そ
> の存在を否定し続けていきます。
> それでも否定し切れずに残ってしまったものがあるとしたら、それを"愛"と呼ぶことにしようと思っていますが、今
> 現在、否定できないものは何もないので、結末をどうしようかと迷っているところです。


> 彼の毒舌は彼特有の照れ隠しだと思います。

余計なこと言わない。(笑)

ひらめいたみたいだけど、ほんのちょいとだけ補足。

> 自分の愛を否定し、愛を肯定すればいいんだ…。

よりも、

> 「今の」自分の愛を否定し、愛「自体を」を肯定すればいいんだ…。

じゃないか?

今の自分を全肯定、または全否定することは良くないと思いますね。
全否定によって、現状ある良き状態の部分もなくしてしまうし、
全肯定すれば、なにも見つからない。

では、突き詰めて何が良くて、何が悪いんだ?とすると、
個人個人にすべきことがみつかってくると思います。

しかし、考えることを、個人的、主観的、感情的にしてしまえば、
他者との意見交換が上手く行かないし、
定義的、また概念的にしていけば、
そこから得たものを、個人個人の事象にふりかえり
あてはめて行くことが出来ると思います。

ここでは「自己愛の否定」がありました。
しかし、それも全否定ではない。
(解決したのかな?)
自己愛が愛に悪影響及ぼす部分についてのみ、
言及すれば良いのだと思います。

もともと自己愛は、それに含まれる意識、感情、行動は広範囲すぎて
なかなか規定の出来ないもので、さらに個人的事情を加味すれば
「すべてが自己愛」と言えなくはないですが、
当然、それは本質ではない。

その対比として、上手く捉え切れておらず、字や表現し尽くせない愛と
比べることから混乱が生じていた。

くまさんの書きこみからありすさんへ思ったことですが。

愛は幸せになるための道具じゃないと。
それだけで確固とした意識なんだと思います。
愛という冠や証明があれば、さらに幸せになれるなんて、欲張りすぎているとおもいませんか?

幸せと言うのは、あくまで「状態」のことだ。
安楽で満足している状態を指しているとおもいます。
そこからなにかに対して、枯渇して求め様とは思わない。
だからこそ、幸せだった人々は愛を追求せずに死んで行ったのではないだろうか?
そう、幸せに。

言い方キツイかなー。他意はないのでご容赦ください。

あー、もう朝だなー。(笑)

http://alived.com/autism/


あっ・・・。
投稿日 2月1日(木)02時04分 投稿者 ころすけ 削除

自分の愛を否定し、愛を肯定すればいいんだ…。
簡単なことだった。
自分の愛を肯定するには、今の自分を変えるしかないかな。

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


悔しいぃ〜!!!
投稿日 2月1日(木)00時09分 投稿者 ころすけ 削除

taki。

また、俺、自分でこけたのか?(笑)
いいさ、何度でもぶつかってやる。
私は、こうすること以外に自己の殻を破っていく方法を知らないから。
自分が未熟と思えば、このくらい大した事ではない。

> ペースにあるのは「この世に愛なんてないんだ」という気持ち。 生物学、心理学、物理学、
> いろんな方向から愛を否定してみて、最後に残るものが愛なんだと、そういう感じですね。

そうか、世紀末の詩は愛はないと言ってきたのか。
愛の否定のドラマ・・・。
もう一度、出直してきます。


でも、愛を否定して、どうして最後に愛が残るのか、訳がわからない。
だれもここに疑問を抱かないの?
「この世に愛なんてないんだ」と「残るものが愛なんだ」。
愛はないのに、なぜ愛は残る?
頭が壊れそうです。
何を否定して、何を肯定すればいいんですか?



くまさん。

彼の毒舌は彼特有の照れ隠しだと思います。
直接会って話してみるのが一番ですが、彼に興味があるのならメールでも出して個人的に話してみてはいかがですか?
彼が一睡も出来ない程メールを出してもらって、彼が寝不足でぶっ倒れてくれることを期待します(爆)

http://village.infoweb.ne.jp/~korosuke/


なぜ・・・
投稿日 1月31日(水)23時30分 投稿者 MR.未成年 削除

>愛じゃないと、なぜいけない?

やっぱり寂しいからですね
この寂しさがなくなるほど
他人と分かり合い思い合えたら
その人との間にあるものを「愛」と呼ぶんじゃないかなぁと

「愛」じゃなきゃいけないというよりは
「愛」と呼べるほどの関係を誰かと築きたいです



あ。(笑)
投稿日 1月31日(水)23時24分 投稿者 taki 削除

くまさんへ

> でも、少し毒舌が・・・

(笑)すいません。
奴との掛け合いは、ここでは過度かも?です。
しかし、絡んできたのは奴なので、受けて立っちゃいました。
これから、過度の部分はメールにしましょう。

が、

> ころすけさんとそういう口調で言い合える仲なのかもしれないですけど

家のPCは、元々ころすけのPCを買いうけたものなんですけども、
元の持ち主が虐待(笑)してたらしく、メールを送ろうとすれば、
フリーズし、BBSでレスを書けば毒舌になる。(これは嘘ですが。笑)

> ちょっと怖いです(笑)

それは、人に私の風貌見ても言われます。(笑)
個人HPに写真もありますが。

しかし、

> 多くの人は愛を手に入れられなかった結果、幸せでない人生を送ったのでしょうか?

は、なるほどです。

そこで思ったんですけど、幸せは快適で、愛は快楽なのかも?
幸せは安楽で安穏とし、愛は刺激的で留まってはいけない(本当か?笑)
とも思います。

その2つの相性は悪そうですね。
特に長い時間は。

ちなみに私は快楽派です。(笑)

> それはこのBBSの範疇を超えてしまう気がするので「幸せ」についてはこのあたりで・・・。

あ、すいません。(笑)ついつい。
確かに範疇は超えてしまいますよね。
とゆーか、論点バラバラになってしまいます。

では、ころすけではないですが、HPの宣伝。(笑)
                 ↓

http://www.geocities.co.jp/MusicStar/8299/


すごいカキコ量ですね
投稿日 1月31日(水)17時08分 投稿者 くま 削除

MR.未成年さんへ

名もなき詩の歌詞の引用、勢いで「ただ」って入れちゃいました。
「気がつけば そこにあるもの」ですね。何度もすいません。

少し前(2日ほど?)のカキコですが
>えらそうですみません
全然偉そうじゃないですよ。訂正とご意見頂いてありがたいです。
僕もそういうのを考えた事がありますが
このBBSの人たちはきちんと受け止めてくれるので
ガンガン主張して行きましょう。ガンガンでいきましょう。


ありすさんへ

感情的な表現が多くて突っ込みにくかったのですが、
ちょっと懺悔的に聞こえます。

それと
>幸せに成る為に、愛も必要だと思って居ります。
というありすさんとは根本的なスタンスが違うと思うのですが、
必要ですか?
どういう質の愛かはわからないですけれど、
世紀末で論じているような愛を指しておられるのならば
多くの人は愛を手に入れられなかった結果、幸せでない人生を送ったのでしょうかでしょうか?
また、愛を手に入れた人はそれまで(愛をまだ手に入れていない時の)の人生を幸せでなかったと感じるのでしょうか?
愛を手に入れて幸せを感じるでしょうけど、それまでの人生にもそれなりの幸せを感じると思うのですが・・・。

あるドラマで言ってたんですけど
チーズケーキ(ここでは愛)はおいしいけれど(幸せになる)、
おいしいケーキはたくさんある
(僕は引用ヘタクソなくせに引用好き)

ありすさんが究極の精神的幸せを求めているならば、おそらくまだまだ議論の余地があるでしょうけれど、
それはこのBBSの範疇を超えてしまう気がするので「幸せ」についてはこのあたりで・・・。

>そして、あたしが欲しいのは、愛よりも幸せです。
これは僕のスタンスでも気持ちわかるんですよ。
人間が社会で生きていく上で愛は特には実用的ではないと思います。
(むしろ、世紀末で語られる愛は社会性を壊しているようにも感じられます。死を認知しないこととか疑わないことなど)
僕は愛がなくても幸せになれるとは思いますし、その時点で自分にとって最上の価値を
持つものを求めればいいと思います。
でもその上の文章で、

>それを「愛ではない」と呼んで居ては、何もできないと思うから。

というのが、よくわからないです。
何をするためにそれを「愛と呼ぶ」んですか?
「これは愛だ」って思うのはいいと思いますが、
幸せを感じるために「この愛は本物」って言い聞かせてるのなら悲しいです。
「愛より幸せ」といいつつも、愛という『言葉』にこだわっているのではないでしょうか?

ありすさんの愛が「本物じゃない」とは言うわけじゃないですけれども、
もし、愛じゃないなら愛じゃないでいいのではないでしょうか?
「これが愛かどうかなんてどっちでもいい」と思うんならそれもアリだと思います。
「愛じゃないからその人への思い自体を不純(ニセモノ)だ」なんて思わないですよ。

(takiさんもよく似たことを言っていると思うのですが)
ホントに愛にたどり着こうと思ったら何度人生を送り直さないといけないか・・・

相手を大事に思う気持ちがあれば、それだけですばらしいことだと思います。


takiさんへ

いつも「いいところ」ついてくれますし、
最近(ここ2,3日か?)の書き込みも、同感です。
でも、少し毒舌が・・・
ころすけさんとそういう口調で言い合える仲なのかもしれないですけど
ちょっと怖いです(笑)


昼休み。
投稿日 1月31日(水)12時43分 投稿者 taki 削除

> お望み通り、ぶっ倒してあげよう♪

まだ甘いな。(笑)

> 否定しないことがなぜに肯定になるんだ?
> そもそも、愛の否定ってなんだ?
> それは「愛はない」ってことだろ。

そんでは、野島氏のインタビューの引用。

> ペースにあるのは「この世に愛なんてないんだ」という気持ち。 生物学、心理学、物理学、
> いろんな方向から愛を否定してみて、最後に残るものが愛なんだと、そういう感じですね。


> >世紀末の詩はニセモノの愛、正しくは本物ではない愛を否定してきた。
> 「ニセモノのアイのヒテイ?」
> なんだそりゃ?
> ニセモノの愛は「ない」ってことですか?(笑)

おいおい、「正しくは」と書いてないかな?
んで、ニセモノの愛はあると??

> 俺が下の書き込みで言いたかったのは、ニセモノを肯定しなきゃ決して愛に辿り着けないってこと。

??????
ニセモノの肯定??
は?これこそわからんけど?

上記を踏まえると、ニセモノの愛はあり、それを自分は肯定していく。になるけど、それでいいんだな。(笑)

> 俺、やっと気がついたんだけど、否定ばかりしていたら、いつまで経っても辿り着くことはできないってこと。

そいつぁ、正論だなあ。
それだからって、ニセモノまで肯定するのかな?
それじゃ、本末転倒しないかね?

とゆーより、あんた誰?(笑)

> たぶんですけど、世紀末の詩はそこに愛はないと、愛を否定する話ではないと思うのです。

上記の野島氏の引用はどう説明する?(笑)

> だからホンモノをイメージするためにはニセモノは不可欠なのです。

では、これからニセモノ肯定を頑張ってください。(笑)

> 否定って言葉は恐ろしいぞ。

上記。(笑)
脚本家の方針だ。

空中分解おつかれさま。(笑)


かいさん。

あー、もーせっかく罠はってて、笑うほど見事にひっかかってくれたのに。(笑)

> この発言に関してですが、野島氏の製作発表時インタビューに起因する
> 内容なのでは?

そうです。
ころすけが、世紀末の詩の起点を自分の主観によって忘れてるので。

> そう、否定することによって模索する。ころすけさんの言っていること
> も正しいと思います。

いや、否定は僕なんですけども。(笑)
彼はこれから、ニセモノまで肯定行くそうなので。(笑)


> こんなの身もふたもない。

そこがいいんですけどね。ドラマから習うのではなく、自身で考えること。

> 基本的には愛を追い求める話だったのだから、そのドラマのファン
> だった人たちが愛にこだわるのは不思議ではないでしょう?

その拘り方が不思議だったんですよ。
でも、私はファンといえるかどうかわからないですし、
少なくとも通常のファン心理ではないことは認めますね。

> むしろtakiさんのスタンスの方が独特なわけで。

せめて、ユニークと。(笑)
とりあえず、ここでは願望と主観からの肯定は反論していきたいな、と。
証明できないからって、否定をしないことは可能性の拡大につながりますが、
僕のスタンスとしては、「多くの人が愛にたどり着けるわけではない、
ほとんどの人がたどり着けずに死んで行く」でしょうか。
もしそうなら、それを受けいれよう。
そして、そこから見えるものが愛に近づけるもの。という、感覚を貫き、
これが僕のスタートラインにしています。

そうじゃないと、恋を愛と規定してしまうのも簡単ですから。
そして、「愛じゃないと、なぜいけない?」とも、問いかけて行きたいと思っています。

でも、自己愛願望主義者さんが(ころすけです。笑)大抵抗するとおもうけど。(笑)

再度、否定。
願望と認識の歪曲からは、愛にたどり着けない、と思いますね。


ありすさん。

> 「愛」という言葉を使うと感覚が違ってきます。

いや、ここのBBSで、この言葉を使わずにして・・・・。(笑)

> 誰しもがエゴイストだと、そう思う。

反論。これは自分の主観を元にしすぎてませんか?
エゴかどうか論ずるとそのうちに、生きていくことを否定するようなもので、
反論するものが分裂してしまうので、否定し切れないだけではないでしょうか?
つまり、生きていること自体がエゴだと言われてしまえば、終わっちゃうじゃないですか。(笑)

ここは厳密に言わないと。

誰しもがエゴイストだと言い、そのあとに、だれしもが利己的であるとする枕詞にするのでは、
何事にも延々と平行線をたどってしまう。

それこそ、身も蓋ないですね。(笑)

それから、自分の自己愛を肯定していくとあがらう余地などない。
つまり、この意見こそが「自己愛で悪い?」と開き直りに近いと思いませんか?

ちょいとなんでも、かんでも普遍化しすぎですよね。

> 恋でも、其れが愛としても、「自分が大事」と云う思いは
> 消えないんだと思います。

ここの櫂さんの意見とは違いますね。
では、自己犠牲はどうなるんだ?と。
それさえもエゴなのか?と。

僕としては、個人の主観的な感覚なので否定はしきれない。と言う感想です。
本当にそうでしょうかね?

> 自分を大事に思う事も、あたしは愛と呼べると思う。

これも反論。
これを自己愛と呼ぶのなら、愛に自己愛は含まれない、との主張を
このBBSでしてきたので。

呼び名が愛と同じなだけで、特に世紀末の言う愛と自己愛は別。と思います。

> 愛では無いと否定するのは、現実に在るものから目をそらして
> 居るだけのような気もします。あたしは愛をもって生きたいと
> 思う。そしたら、エゴですらも受け入れなくてはならない。
> だから、「都合がいい」と云うのはその通りです。

自己完結しちゃってますね。
本当にそうなのか?と考えないのなら。

> それを「愛ではない」と呼んで居ては、何もできないと思うから。

うーん、世紀末の詩の姿勢が違ってきますねー。
これからなにかするしないではなく、現時点でどうするか?
ではないでしょうか。

その部分での論議ですよね。
そこに未来の可能性を含めば、現状言えることが希望論によって全否定も可能ですよね。

> そして、あたしが欲しいのは、愛よりも幸せです。
> 幸せに成る為に、愛も必要だと思って居ります。

「女性は誰でも良いから、愛と幸福をくれる者を愛する。」
でしょうか。

幸せですかー。すいません、あんまり興味ないです。(笑)

とりあえず、一応満足している状態で突き詰めて考える気はないんじゃないかな?
と思いました。

主観からなんでもかんでも、普遍化しすぎかもしれないですね。
他者の観点と自身の主観は別、この点はありすさんに関して
ゆるぎないのではないかな?と思いますが、いかがでしょう?

http://alived.com/autism/


朝カキコ
投稿日 1月31日(水)10時55分 投稿者 ありす 削除

お早う御座居ます。
takiさん>誰もが自分を愛せるか?
「愛」という言葉を使うと感覚が違ってきます。「自分が嫌い」と
云う人も多くいらっしゃると思いますし。
でも、結局はどんな行動をとろうとも、自分の意志によるものだと
思うのです。誰しもがエゴイストだと、そう思う。
決してそれが悪いとかじゃ無いですよ。
恋愛においても、お互いのエゴが其処にはあるわけで。
恋でも、其れが愛としても、「自分が大事」と云う思いは
消えないんだと思います。自分を大事に思う事も、あたしは
愛と呼べると思う。自分に愛を向けられないと、自分以外に
愛を向ける事も出来ない気がする。
何か、相変らずうまく云えないんですけど(><)只、あたしは
「誰かの為に」って、した事無いんです。もし人の喜ぶ事をしても
「あたしがその人に喜んで欲しい」という想いの下です。
つまりは自分の為。人の為、でも、其処には自分の為という
動力が在る。それは、自分の事が好きとか嫌いとか、
そういう事に関係なく在るものだと思います。
あたしは自己愛を肯定します。いや、肯定というと違うかな。
そういうモノが在る事を受け入れます。エゴでも何でも、
其処に在るモノから目を背けたくは無いですし。
自己愛を愛にしてしまうのが都合の良い事と、takiさんは
おっしゃってましたが、
愛では無いと否定するのは、現実に在るものから目をそらして
居るだけのような気もします。あたしは愛をもって生きたいと
思う。そしたら、エゴですらも受け入れなくてはならない。
だから、「都合がいい」と云うのはその通りです。
それを「愛ではない」と呼んで居ては、何もできないと思うから。

そして、あたしが欲しいのは、愛よりも幸せです。
幸せに成る為に、愛も必要だと思って居ります。
だから、純粋に愛を求めて居るだけでは無いので、ちょっと
歪んで居たりもすると思います。(愛に対してね)
自分や自分の好きと思う人が幸せである事が何よりです。
恋よりも愛を求めるのは、愛の方が幸せに近いと
あたしは思ったからです。

幸せならば恋でも構わない、そう思って居ました。
世紀末の詩を見て、何かが変わりました。愛が欲しい、と。
あたしが愛にしがみつくのは、そういう処です。

あと、世の中には「自分」と「自分以外」の2つが存在する
と大きくわけました。細かくするとキリないし。
そう分けた上で、「他人」に重点を置くと・・・と。
実に短絡的な感じもしますが(^^;

今回はこの辺で。またご意見聞かせて下さいね。
反論でも何でも刺激的で有難いです。
実は余り頑固でもないので、反論されて、
「うん、そうだな」と思ったらあっさり変わってしまうかも
知れませんが・・・。自分の意見が全てじゃ無いですからね。
色んな方の意見や考えを聞いて、参考にさせて頂いて居ります。

ではまた。ピース。


takiさんへ>恋について
投稿日 1月31日(水)07時41分 投稿者 櫂 削除

>以前から言っているのですが・・・・・。
>何故、恋だとだめなんですか?
>消えるものだというイメージがあるから??

>皆、愛という言葉にしがみつきすぎるなぁ、と。
>これは前々から不思議なんですけども。


「世紀末の詩」が恋に対して否定的な言葉ばっかりだったからですよ。

>恋を繰り返し、魂を汚し、自己愛に帰結する

とかね。

>恋というと聞こえはいいがな
>性的な吸引に過ぎない

こんなの身もふたもない。

もちろん、「恋」を完全否定しているわけではない。
>愛とは恋する人と出会い長い時間をかけて魂が寄り添うことなんだ
というセリフの示すと降り、「愛」にたどりつく為の必然でもあるわ
けですけど。

でも「愛」を探すのが物語の主題だったのだから、比較論として
「それは愛ではなく恋にすぎない」といった表現が多かった。
基本的には愛を追い求める話だったのだから、そのドラマのファン
だった人たちが愛にこだわるのは不思議ではないでしょう?
むしろtakiさんのスタンスの方が独特なわけで。


べつに弁護するつもりではありませんが
投稿日 1月31日(水)07時22分 投稿者 削除

>世紀末の詩はニセモノの愛、正しくは本物ではない愛を否定してきた。

この発言に関してですが、野島氏の製作発表時インタビューに起因する
内容なのでは?

>僕は11話を通して、生物学、社会学、遺伝学などさまざまざなロジックで「や>っぱり愛はないじゃないか」と、その存在を否定し続けていきます。
>それでも否定し切れずに残ってしまったものがあるとしたら、それを"愛"と呼ぶ>ことにしようと思っていますが、今現在、否定できないものは何もないので、結>末をどうしようかと迷っているところです。

つまり、「愛」を定義するために、にせもの(本物の愛らしく見えるもの?)
と本物(と思われるもの)全てをひっくるめて、毎回そのひとつひとつを
「これは愛ではない」と吟味し否定していく。

>これがなにを否定しているのか、教えて欲しい。
>俺には教授が愛を模索する言葉にしか聞こえない。

そう、否定することによって模索する。ころすけさんの言っていること
も正しいと思います。


スキあり!!!
投稿日 1月31日(水)04時27分 投稿者 ころすけ 削除

taki。

弱ってるな(笑)
お望み通り、ぶっ倒してあげよう♪


>これでは自分で否定さえしなければ、なんでも愛になってしまうぞ?

否定しないことがなぜに肯定になるんだ?
そもそも、愛の否定ってなんだ?
それは「愛はない」ってことだろ。
愛を自分から否定しないこと、これがスタートラインじゃないのか?
人は迷い悩むものだから、愛が確実